大悲の親様のお慈悲を戴いたのが信心であります
『浄土真宗 信心』(加茂仰順師)より引用
二 大悲の親様のおよびごえ
二
大悲の親様のお慈悲を戴いたのが信心であります。つまり、親様の「たすけるぞ」を受けることです。それが、同時に、後生大事の心配を親様に渡したことになります。お慈悲を受けることが、後生の心配を渡すことです。
後生が大事であると心配するのが、宿善開発のときです。「たすけるぞ」の仰せを受けたのが、親様に後生の心配をまかせたときであります。「弥陀をタノム」ときであります。
(p.18)
信心とは、南無阿弥陀仏(「たすけるぞ」の仰せ)を受けることです。それは、後生の心配を阿弥陀仏におまかせしたことです。後生どのようなところへ生まれるか、私の方からは分かりません。私は、阿弥陀仏のお連れ下さる処へ往くだけです。後生の心配を渡すとは、とても安心できることです。南無阿弥陀仏、波阿弥陀仏。
【参照】
『親鸞会の邪義を正す』会員との問答(後生の一大事について)
二 大悲の親様のおよびごえ
二
大悲の親様のお慈悲を戴いたのが信心であります。つまり、親様の「たすけるぞ」を受けることです。それが、同時に、後生大事の心配を親様に渡したことになります。お慈悲を受けることが、後生の心配を渡すことです。
後生が大事であると心配するのが、宿善開発のときです。「たすけるぞ」の仰せを受けたのが、親様に後生の心配をまかせたときであります。「弥陀をタノム」ときであります。
(p.18)
信心とは、南無阿弥陀仏(「たすけるぞ」の仰せ)を受けることです。それは、後生の心配を阿弥陀仏におまかせしたことです。後生どのようなところへ生まれるか、私の方からは分かりません。私は、阿弥陀仏のお連れ下さる処へ往くだけです。後生の心配を渡すとは、とても安心できることです。南無阿弥陀仏、波阿弥陀仏。
【参照】
『親鸞会の邪義を正す』会員との問答(後生の一大事について)
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