根拠が示せずに持論を展開するだけならば、その持論は浄土真宗ではないと言っているようなもの
ものさしたる根拠が示せないなら、親鸞学徒ではなく高森学徒
の記事に、雑草さん、 maelstromさんよりコメントを頂きました。ありがとうございました。
確かに雑草さんの仰るように、「会員」さんのコメントには「???」という箇所が多々あります。雑草さんが抜き出した箇所は、以下の3つでした。
********************
2012/02/24 01:35
そんな名号が@私のものになった@とき、それは「信心」と呼称されるということ
2012/02/27 21:35
一つ例を挙げれば、我々人間は動物の肉を食べますよね。
しかし、それを食すことは立派な殺生です。直接殺さずとも、他殺で同罪である、と@教学聖典@にもありますね。動物の肉体を八つ裂きにしたのですから、それに応じた報いを地獄で受けると考えれば、少しはその恐ろしさを感じるのではないのでしょうか。
ですから地獄の認識が有ろうが無かろうが、そのような世界に堕ちたことは@分かります@。
2012/02/27 22:33
もちろん救われてからも、未来永遠に地獄はすみかの者の自覚がありますから、同時に未来世も分かるのですが、@それ以上に@、本願がまことだったとも同時に知らされますので、未来永遠救われることが知らされることにより、死後の世界(未来世)があると分かるのです。
********************
まず最初の「そんな名号が私のものになったとき、それは「信心」と呼称されるということ」ですが、「私のものになった」というのは高森会長がよく使う表現です。また昔、「信心をゲットする」などと言っているのを耳にしました。確かに、信心獲得とか、本願力回向の信心とか、如来よりたまはりたる信心と聞くと、私の側からは阿弥陀仏から何かを頂いてそれが私のものになるという印象を受けます。ですが信心とは、
「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文)
とあるように、本願を聞いて疑う心がないことを言います。それを信心獲得とか、本願力回向の信心とか、如来よりたまはりたる信心と表現されているのです。「私のものになった」とか「信心をゲットする」といった表現は、こちらから求めて行って何かを手に入れたような印象をもろに受けますので、親鸞聖人のお言葉からは適さないように思います。
次の「直接殺さずとも、他殺で同罪である、と教学聖典にもありますね。」についてですが、私も疑問に思いました。「私も会員」さんへの返事とは言え親鸞会発行の『教学聖典』を根拠に自説を展開しているようですが、これは高森会長が造ったものであり、釈尊がどの経典に、あるいは親鸞聖人がどのお聖教にどう教えられているかを示されていなければ根拠にはなりません。しかし『教学聖典(1)』には、
問(31)
仏教で殺生に三通りある、と教えられているが、それを記せ。簡単な説明もせよ。
答(31)
○自殺―――――自分で生き物を殺す。
○他殺―――――他人に命じて殺す。
○随喜同業―――他人が殺生しているのを見て楽しむ心があれば同罪。
とだけあって、どの経典やお聖教を根拠にこのようなことを教えているのか不明です。『清森問答』親鸞会教義の相対化・31には、釈尊はこのような教え方をされていないとあります。「仏教ではこのように言われている」というのは、親鸞会がごまかしに使う常套手段です。『教学聖典』を根拠に出すあたり、「会員」さんは真摯な高森学徒のようです。
更に、「地獄の認識が有ろうが無かろうが、そのような世界に堕ちたことは分かります。」と書いていますが、これも謎ですね。自分自身が生み出す地獄というのがどういう世界なのか、その認識があるからこそ、地獄しか行き場がないとハッキリするというものでしょう。地獄の認識なくして、地獄に堕ちたことが分かるのでしょうか? 単に罪悪を畏れる心から地獄を想像しているだけでは、「分かります」とは言えないでしょう。
最後の「未来永遠に地獄はすみかの者の自覚がありますから、同時に未来世も分かるのですが、それ以上に、本願がまことだったとも同時に知らされますので、未来永遠救われることが知らされることにより、死後の世界(未来世)があると分かるのです。」ですが、未来永遠に地獄はすみかの者の自覚があるから未来世があると分かるが、未来永遠救われることも知らされるから余計に未来世があると分かるということでしょうか? どうも「会員」さんは、救われなかった場合の最悪の未来と、救われた故の最高の未来の2つがハッキリ分かっていらっしゃるようですが、やはり親鸞聖人や覚如上人、蓮如上人の信心とは異なる安心のようです。
獲信したら三世がハッキリわかるか
親鸞聖人 われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。(執持鈔)
----------------------------------------
会員さん 自己の三世がハッキリする。地獄一定と極楽一定の自己がハッキリ知らされる。
本願の救いにあずかるには根拠がどうとかいった議論は不要ですが、その人の言っていることが親鸞聖人の教え通りなのかということについては、根拠に基づいて議論しなければなりません。根拠が示せずに持論を展開するだけならば、その持論は浄土真宗ではないと言っているようなものです。
の記事に、雑草さん、 maelstromさんよりコメントを頂きました。ありがとうございました。
確かに雑草さんの仰るように、「会員」さんのコメントには「???」という箇所が多々あります。雑草さんが抜き出した箇所は、以下の3つでした。
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2012/02/24 01:35
そんな名号が@私のものになった@とき、それは「信心」と呼称されるということ
2012/02/27 21:35
一つ例を挙げれば、我々人間は動物の肉を食べますよね。
しかし、それを食すことは立派な殺生です。直接殺さずとも、他殺で同罪である、と@教学聖典@にもありますね。動物の肉体を八つ裂きにしたのですから、それに応じた報いを地獄で受けると考えれば、少しはその恐ろしさを感じるのではないのでしょうか。
ですから地獄の認識が有ろうが無かろうが、そのような世界に堕ちたことは@分かります@。
2012/02/27 22:33
もちろん救われてからも、未来永遠に地獄はすみかの者の自覚がありますから、同時に未来世も分かるのですが、@それ以上に@、本願がまことだったとも同時に知らされますので、未来永遠救われることが知らされることにより、死後の世界(未来世)があると分かるのです。
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まず最初の「そんな名号が私のものになったとき、それは「信心」と呼称されるということ」ですが、「私のものになった」というのは高森会長がよく使う表現です。また昔、「信心をゲットする」などと言っているのを耳にしました。確かに、信心獲得とか、本願力回向の信心とか、如来よりたまはりたる信心と聞くと、私の側からは阿弥陀仏から何かを頂いてそれが私のものになるという印象を受けます。ですが信心とは、
「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文)
とあるように、本願を聞いて疑う心がないことを言います。それを信心獲得とか、本願力回向の信心とか、如来よりたまはりたる信心と表現されているのです。「私のものになった」とか「信心をゲットする」といった表現は、こちらから求めて行って何かを手に入れたような印象をもろに受けますので、親鸞聖人のお言葉からは適さないように思います。
次の「直接殺さずとも、他殺で同罪である、と教学聖典にもありますね。」についてですが、私も疑問に思いました。「私も会員」さんへの返事とは言え親鸞会発行の『教学聖典』を根拠に自説を展開しているようですが、これは高森会長が造ったものであり、釈尊がどの経典に、あるいは親鸞聖人がどのお聖教にどう教えられているかを示されていなければ根拠にはなりません。しかし『教学聖典(1)』には、
問(31)
仏教で殺生に三通りある、と教えられているが、それを記せ。簡単な説明もせよ。
答(31)
○自殺―――――自分で生き物を殺す。
○他殺―――――他人に命じて殺す。
○随喜同業―――他人が殺生しているのを見て楽しむ心があれば同罪。
とだけあって、どの経典やお聖教を根拠にこのようなことを教えているのか不明です。『清森問答』親鸞会教義の相対化・31には、釈尊はこのような教え方をされていないとあります。「仏教ではこのように言われている」というのは、親鸞会がごまかしに使う常套手段です。『教学聖典』を根拠に出すあたり、「会員」さんは真摯な高森学徒のようです。
更に、「地獄の認識が有ろうが無かろうが、そのような世界に堕ちたことは分かります。」と書いていますが、これも謎ですね。自分自身が生み出す地獄というのがどういう世界なのか、その認識があるからこそ、地獄しか行き場がないとハッキリするというものでしょう。地獄の認識なくして、地獄に堕ちたことが分かるのでしょうか? 単に罪悪を畏れる心から地獄を想像しているだけでは、「分かります」とは言えないでしょう。
最後の「未来永遠に地獄はすみかの者の自覚がありますから、同時に未来世も分かるのですが、それ以上に、本願がまことだったとも同時に知らされますので、未来永遠救われることが知らされることにより、死後の世界(未来世)があると分かるのです。」ですが、未来永遠に地獄はすみかの者の自覚があるから未来世があると分かるが、未来永遠救われることも知らされるから余計に未来世があると分かるということでしょうか? どうも「会員」さんは、救われなかった場合の最悪の未来と、救われた故の最高の未来の2つがハッキリ分かっていらっしゃるようですが、やはり親鸞聖人や覚如上人、蓮如上人の信心とは異なる安心のようです。
獲信したら三世がハッキリわかるか
親鸞聖人 われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。(執持鈔)
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会員さん 自己の三世がハッキリする。地獄一定と極楽一定の自己がハッキリ知らされる。
本願の救いにあずかるには根拠がどうとかいった議論は不要ですが、その人の言っていることが親鸞聖人の教え通りなのかということについては、根拠に基づいて議論しなければなりません。根拠が示せずに持論を展開するだけならば、その持論は浄土真宗ではないと言っているようなものです。
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