信じよう、称えよう、信心を得ようという、つかもうとする気持ちを全部とってもらって、それで、如来様の仰せをすなおに頂くのが、信心決定の如実の行者であります。
『浄土真宗 信心』(加茂仰順師)より引用
四 善知識の教えたもうは信心のことです
善知識の教えたもうものは信心のことであります。それが名号のいわれであります。名号のいわれを聞くが、名号を聞くのであります。宗祖の法然上人の和讃に(十一首目)「無上の信心おしへてぞ」とあるのもこれであります。
この信心は果徳の信心であります。だから名号不思議の信心と言い、この仏心を凡夫にさずけたまうとき信心と言わるるなりと言う。果徳の名号を、因分の底下の凡夫の安心として、廻向せられたのであります。
――○――○――○――
これだけです。
信じよう、称えよう、信心を得ようという、つかもうとする気持ちを全部とってもらって、それで、如来様の仰せをすなおに頂くのが、信心決定の如実の行者であります。
(p.34~p.35)
諸仏方便ときいたり
源空ひじりとしめしつつ
無上の信心をしへてぞ
涅槃のかどをばひらきける(高僧和讃)
法然聖人は無上の信心を教えて、報土往生の要点を懇ろに開き顕されました。
まさに知るべし、生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす。
(生死輪廻の家にとどまるのは本願を疑うからであり、さとりの城に入るのは本願を信ずるがゆえである。)
本願を疑うとは、上の加茂師で言うなら「信じよう、称えよう、信心を得ようという、つかもうとする気持ち」です。念仏に称功を認め、念仏を称えた功徳によって往生しようというのは本願を疑っているのです。
本願を信じるとは、そういう心が取り払われて、如来様の仰せをすなおに頂くことです。本願疑惑心は自分ではどうにもなりませんから、「助けるぞよ」を聞くのみです。聞くところに自力疑心は捨たり、他力に帰するのです。とにかく如来さまの仰せを聞いて頂きたいと思います。
四 善知識の教えたもうは信心のことです
善知識の教えたもうものは信心のことであります。それが名号のいわれであります。名号のいわれを聞くが、名号を聞くのであります。宗祖の法然上人の和讃に(十一首目)「無上の信心おしへてぞ」とあるのもこれであります。
この信心は果徳の信心であります。だから名号不思議の信心と言い、この仏心を凡夫にさずけたまうとき信心と言わるるなりと言う。果徳の名号を、因分の底下の凡夫の安心として、廻向せられたのであります。
――○――○――○――
これだけです。
信じよう、称えよう、信心を得ようという、つかもうとする気持ちを全部とってもらって、それで、如来様の仰せをすなおに頂くのが、信心決定の如実の行者であります。
(p.34~p.35)
諸仏方便ときいたり
源空ひじりとしめしつつ
無上の信心をしへてぞ
涅槃のかどをばひらきける(高僧和讃)
法然聖人は無上の信心を教えて、報土往生の要点を懇ろに開き顕されました。
まさに知るべし、生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす。
(生死輪廻の家にとどまるのは本願を疑うからであり、さとりの城に入るのは本願を信ずるがゆえである。)
本願を疑うとは、上の加茂師で言うなら「信じよう、称えよう、信心を得ようという、つかもうとする気持ち」です。念仏に称功を認め、念仏を称えた功徳によって往生しようというのは本願を疑っているのです。
本願を信じるとは、そういう心が取り払われて、如来様の仰せをすなおに頂くことです。本願疑惑心は自分ではどうにもなりませんから、「助けるぞよ」を聞くのみです。聞くところに自力疑心は捨たり、他力に帰するのです。とにかく如来さまの仰せを聞いて頂きたいと思います。
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