真宗で肝要といわれる信心は、広大なものであって、我等一切群生の起し得られるものでないことがはっきりとなります

『浄土真宗 信心』(加茂仰順師)より引用

  六 御成就の法が、名号であります

  この名号のお助けを、すなおに聞いたのが信心決定であります。

  一

 ある夜、私のよく存じている一人のお同行さんが来られて、聞かせて下さいませと、おたずね下さいました。
 それは、「いつも聞かせていただくことですが、信心が肝要であり、疑があってはならないと申されて、信心決定のおもむきを、おさとしいただき、私も、心をとどめてお聴聞いたしていますが、どうも、信心決定のところには、いたりませんが、これは聴聞が足りないからでしょうか。一生懸命に聞いておれば、信心決定の身になられるのでしょうか。いままで聞いても、信心決定になられないのは、聴聞の仕方か、心の持ちかたがまちがっているからでありましょうか。そこのところを聞かせて下さいませ」とおたづねになりました。
 そこで、私はこのように申しあげたことであります。
 真宗以外の宗教は、行証直接と云いまして、信がさとりの直接の原因(たね)ではなく、行が正因ですが、真宗は、信証直接と申して、信心が往生の直接の正因であります。本願の上でも、若不生者の妙果を得ることをお誓いになり、釈尊も『大経』には、明信仏智の者は、自然化生すると仰せられ、七祖はその仏意をうけられ、宗祖も涅槃の真因は、唯信心を以てすると申され、御歴代の御示しも、この外にはありません。それゆえに真宗では信心が肝要であり、裏から言えば、疑いがあってはならないのです。
 ここで殊に心せねばならないことは、信心が真因であることです。第十九願の諸行も、第二十願の念仏も、さとることはできません。涅槃の妙果を獲る真因となる信心は、容易なものでなく、我等凡夫の起される信でないことは勿論、等覚の菩薩でも、起すことのできない、広大なるものであります。
 御開山は『信巻』に、本願に誓われてある三信は、一切群生海には、無始よりこのかた、今日今時にいたるまで無いのです。それゆえ如来はこれをあわれみて成就し、群生海に廻施したもうと、機無、円成、廻施の三信であることをくわしくのべられ、『行巻』には帰命とは本願招喚の勅命であると、帰命は如来の勅命であると説かれてあり、覚如上人は『最要鈔』に本願成就文の信心を釈して、「この信心をば、まことのこころとよむうへは、凡夫の迷心にあらず、またく仏心なり、この仏心を凡夫にさづけたまふとき信心とはいはるるなり」と、述べてあります。仏心は不顛倒、不虚偽であり、真実であります。この仏心を凡夫にさづけたもうと云うことは、仏心が凡夫にあらわれて下さることで、仏の救いに遇うたことであります。
 次に無疑というは、『一念多念文意』に、「信心は如来の御ちかひをききて、うたがふこころなきなり」とあり、また『唯信鈔文意』には「信はうたがふこころなきなり、すなはちこれ真実の信心なり」とあって、疑惑は『正像末和讃』に「罪福信ずるものは、仏智疑惑のものである」と述べられてあります。このようなお示しによりますと、仏心なり、本願なりをそのまますなおにいただいたのが信心であり、無疑であります。名号なり勅命をはねのけていただかないのが疑であります。
 このようにうかがいますと、真宗で肝要といわれる信心は、広大なものであって、我等一切群生の起し得られるものでないことがはっきりとなります。
 そして次に、本願の目当ては、逆謗の悪機であるところに、その誓われてある信は、凡夫の起し得られるたやすい信のように思いあやまり、御教化を聞き、お育てしていただけば、起し得られる信心であると思い、そのところに力を入れ、真剣になって、かえって、信心決定の行者になられないと悩んであるのです。
 本願は為凡の本願であって、同凡の本願でないことを知らねばなりません。
 そしてまた、如来の成就された三信が廻向せられた信であるのに、本願を聞き、名号のいわれを聞いて、起す信のように思うところに、いつまで聞いても、信心決定の行者になられないのであります。

(p.52~p.56)



このお同行の方の質問は、未信の者なら誰でも思うような内容でしょう。私もそうでした。信心決定の身になれない原因を私の側にあると考え、

・もっと真剣に聞いたら
・もっと聴聞し、お育ていただいたら
・何とかうまいこと聞き分けたら

信心決定の身になれるだろうと思っておりました。それに対する加茂師のお答えが以上挙げた通りです。

往生の因は阿弥陀仏が五劫思惟、兆載永劫の修行を経て南無阿弥陀仏に収めて回向して下さいます。この南無阿弥陀仏のいわれを聞くのが信心です。これだけです。
これを、聞いて信心を頂こう、何とかなろう、安心しよう、頂けば何かものすごい変化があるに違いない、それにはもっと真剣に聞かないと、間断なく続けて聞かないと、などなど、本願力、南無阿弥陀仏だけでは不足に思ってそこに自分の力を足して助かろうとしているなら、他力回向に反する自力回向の考えです。これでは本願に背を向けていつまでも受け取ることはできません。いや自分は本願に向かっていると思うかもしれませんが、本願に向かっているつもりで実は向きが逆なのです。
仏さまの「助けてやるぞ」の呼び声を聞き、受け容れるだけです。阿弥陀仏から私への一方通行の救いです。それを逆走してはなりません。逆走しても報土へは辿り着きません。無駄な抵抗は止めて、阿弥陀仏にお任せして頂きたいと思います。
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淳心房&しゃあ

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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