たとひもし今生の利生はむなしきに似たることありとも、ゆめゆめ往生の大益をば疑ふべからず。

持名鈔第九段では、「念仏の行者が諸仏菩薩の擁護と諸天善神の加護を受けるというのは、浄土に往生させるためにただ行者の信心を守護したもうのみなのでしょうか、あるいは今生の穢体をまもり、もろもろの願いをも成就させたもうためなのでしょうか」という質問に、「仏菩薩は信心をまもることが本意ですが、さらに信心の行者も護られ、現世と後生に大きな利益を得るのです」と答えられています。
この中に、『こんなことが知りたい1』の問9に載っている米と藁の喩えがありましたので取り上げました。なお、『こんなことが知りたい1』には、「米は生死の一大事の解決、藁は、明るく、たくましく生きることに喩えられたものです」(p.28~p.29)と書かれています。勿論親鸞会でいう「生死の一大事の解決」には、浄土往生の意味も含まれてはいるでしょう。ただ圧倒的に重きを置かれるのは「死後無間地獄に堕ちるということの解決」ですから、やはり本来の喩えとはズレています。何度も申し上げていますし、『持名鈔』でも「後世をねがへば」「後生の善果」と書かれているように、米とは浄土往生を遂げるということを喩えています。後生は必堕無間と叩きこまれ、そこから逃れたいというマイナスの感情ではなく、この世は迷いの世界と知らされ、迷いを離れて真の安住の境地、すなわち浄土、さとりの世界を目指すというプラスの方向で親鸞聖人の教えは聞くべきです。単に無間地獄から逃れるだけなら親鸞会で心身共に苦しい思いをせずに神を拝めばよいのです


【9】問うていはく、念仏の行者は、諸仏・菩薩の擁護にもあづかり、諸天・ 善神の加護をもかうぶるべしといふは、浄土に往生せしめんがためにただ信心を守護したまふか、また今生の穢体をもまもりてもろもろの所願をも成就せしめたまふか。あきらかにこれをきかんとおもふ。

 答へていはく、かの仏の心光、このひとを摂護して捨てずともいひ、六方の諸仏、信心を護念すとも釈すれば、信心をまもりたまふことは仏の本意なれば申すにおよばず。しかれども、まことの信心をうるひとは、現世にもその益にあづかるなり。

(中略)

 ただし、これはただ念仏の利益の現当かねたることをあらはすなり。しかりといへども、まめやかに浄土をもとめ往生をねがはんひとは、この念仏をもつて現世のいのりとはおもふべからず。ただひとすぢに出離生死のために念仏を行ずれば、はからざるに今生の祈祷ともなるなり。これによりて『藁幹喩経』といへる経のなかに、信心をもつて菩提をもとむれば現世の悉地も成就すべきことをいふとして、ひとつのたとへを説けることあり。「たとへばひとありて、種をまきて稲をもとめん。まつたく藁をのぞまざれども、稲いできぬれば、藁おのづから得るがごとし」といへり。稲を得るものはかならず藁を得るがごとくに、後世をねがへば現世ののぞみもかなふなり。藁を得るものは稲を得ざるがごとくに、現世の福報をいのるものはかならずしも後生の善果をば得ずとなり。
 経釈ののぶるところかくのごとし。ただし、今生をまもりたまふことは、もとより仏の本意にあらず。かるがゆゑに、前業もしつよくは、これを転ぜぬこともおのづからあるべし。後生の善果を得しめんことは、もつぱら如来の本懐なり。かるがゆゑに、無間に堕すべき業なりとも、それをばかならず転ずべし。しかれば、たとひもし今生の利生はむなしきに似たることありとも、ゆめゆめ往生の大益をば疑ふべからず。いはんや現世にもその利益むなしかるまじきことは聖教の説なれば、仰いでこれを信ずべし。ただふかく信心をいたして一向に念仏を行ずべきなり。



まことの信心を得て念仏する者には、現世にも大きな利益を得ると教えられています。しかし、心から浄土を求め往生を願う人は、この念仏をもって現世利益の祈りであるとは思ってはなりません。ただ一筋に生死を出離するために念仏を行ずれば、計らずながら今生の幸福を願う祈りともなるというのです。その喩えとして、『藁幹喩経』(『蘇婆呼童子請問経』のこと)にある米と藁の話が紹介されています。それで、稲を得る者は必ず藁を得るように、浄土往生を得るなら現世の利益も伴うけれども、藁を得る者は稲を得ないように、現世の福報が目当てで念仏する者は必ずしも往生浄土の善果を得ることはできないと言われています。
経釈では念仏の行者に現世にも大きな利益があると言われていますが、ただ今生を守り給うことは、元々仏さまの本意ではありません。ですから、前世の業がもし強ければ、これを転じられないこともあるでしょう。対して後生の善果を得させること、つまり浄土往生の一大事を遂げさせることは、専ら如来さまの本懐です。なので、無間地獄に堕ちるような業をもっていたとしても、それを必ず転じて下さります。このようなことですから、たとえもし今生の利益はないようなものであったとしても、決して往生の大益を疑ってはなりません。まして現世も無益ではないことは聖教に説かれていることですから、仰いでこれを信じなさい。ただ、深く如来の本願を信じて一向に念仏しなさい、とこのように教えられています。

最後の段落に書かれているように、後生の善果を得させることが仏の本懐であり、今生の利益を得させることは本意ではありません。前世の業が強ければこれを転じられないこともあるのですから、本願に摂取されていても今生の利益はないも同然のことだってあるのです。日々の生活の中で、色々失敗をしたり、迷惑をかけたりかけられたり、憤慨したりされたり、事故を起こしたり起こされたり、病気で苦しんだり、肉親や友人と不仲になったり死別したりと、このようなことは信前信後通じてあることです。欲望渦巻き、怒り燃え盛り、恨みねたみ嫉む心によって煩い悩み苦しむことは変わりません。常に喜び溢れて毎日を送れるというわけには必ずしもいかないのです。
親鸞会では「この世から絶対の幸福に生かされる」「後生の苦しみを何とかできる仏さまなら、今生の苦しみ位簡単に救える」などと現世利益を説いて聞く者を釣っていますが、これは『持名鈔』の教説と反することが分かるでしょう。この世を明るくたくましく生きること、安心しきって生活することを「絶対の幸福」という言葉の中に入れるとすれば、そういうものを求めることは仏教の目的ではありません。
ここのところは高森会長も一応、「されば、仏法を求める人々は、目的は、あくまで後生の一大事の解決にあるということを夢々忘れてはなりません」と釘を打ってはありますが、では果たして会員さんが求めているものはどうでしょう。自分の心に正直に聞いてみて下さい。後生の一大事の解決、浄土往生、というよりは、親鸞会で説かれる「信心決定」という名の驚天動地の体験、そして絶対に崩れない、変わらない「絶対の幸福」という名のこの世での幸せ、つまりは『持名鈔』で言われている「現世の福報」を求めてはいないでしょうか? 浄土往生を遂げたいというよりも、この世を安心して幸福に生きたい、今まで信じて求めてきたものを得たい、という己の欲望をかなえることが親鸞会で活動する原動力となってはいないでしょうか? 死後のことよりも、今が苦しいから、今のこの苦しみを何とかしてもらいたいと思ってはいませんか?
現世の福報を求めて親鸞聖人の教えは聞くものではありません。それでは藁を目的にしているようなもので、稲は手に入りません。また、浄土往生を目的にしているとしても、他力回向の教えに反している教えをいくら聞いて信じて従っていても稲は手に入りません。目的がどっちだったにせよ、親鸞会教義は親鸞聖人の教え勧めと違うので求めているものは得られないということです。親鸞聖人のお勧めは、存覚上人のお言葉で言えば「ただふかく信心をいたして一向に念仏を行ずべきなり」であります。これ以上心身共に苦しい思いをすることなく、弥陀の五劫思惟の願を聞いて我一人のためなりと救われて頂きたいと思います。
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淳心房&しゃあ

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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