親鸞聖人がご門弟の方々に勧められた『唯信鈔』に、三願転入の教えはない(4)
親鸞聖人がご門弟の方々に勧められた『唯信鈔』に、三願転入の教えはない(3)
の続きです。現在は、『唯信鈔』第六段を見ています。
「極楽無為涅槃界 随縁雑善恐難生 故使如来選要法 教念弥陀専復専」(法事讃・下)
といへり。随縁の雑善ときらへるは、本業を執ずるこころなり。たとへば、みやづかへをせんに、主君にちかづき、これをたのみてひとすぢに忠節を尽すべきに、まさしき主君に親しみながら、かねてまた疎くとほき人にこころざしを尽して、この人、主君にあひてよきさまにいはんことを求めんがごとし。ただちにつかへたらんと、勝劣あらはにしりぬべし。二心あると一心なると、天地はるかにことなるべし。
善導大師の『法事讃』の御言葉を、親鸞聖人は『真仏土文類』にも引かれ、『唯信鈔文意』では詳細に解説されています。
「極楽は無為涅槃の界なり。随縁の雑善おそらくは生じがたし。ゆゑに如来要法を選びて、教へて弥陀を念ぜしめて、もつぱらにしてまたもつぱらならしめたまへり」
(極楽は変ることのないさとりの世界である。人それぞれの縁にしたがって修めるような自力の善根によっては生れることができない。だから釈尊は本願の名号を選びとって、ただひとすじに信じ念仏して往生せよと教えてくださった)
この内、「随縁雑善恐難生」についての『唯信証文意』の解説を見てみましょう。
「随縁雑善恐難生」といふは、「随縁」は衆生のおのおのの縁にしたがひて、おのおののこころにまかせて、もろもろの善を修するを極楽に回向するなり。すなはち八万四千の法門なり。これはみな自力の善根なるゆゑに、実報土には生れずときらはるるゆゑに「恐難生」といへり。「恐」はおそるといふ、真の報土に雑善・自力の善生るといふことをおそるるなり。「難生」は生れがたしとなり。
衆生がそれぞれの縁にしたがって、それぞれの心にまかせて、諸々の善を修めて極楽に回向する、という教えが八万四千の法門です。ところが、この八万四千の法門にしたがって修める諸々の善は、みな自力の善根であるから、真実報土に往生することができないと嫌われているというのです。その報土往生できないと嫌われている自力の善根、もとい八万四千の法門を、果たして親鸞聖人が勧められているのかいないのか、このお言葉から明らかですね。理解できないのは、まともな理解力を奪われた篤い高森信者くらいでしょう。
では親鸞聖人は何を勧められているのかというと、それについて教えられているのが「故使如来選要法 教念弥陀専復専」です。同じく『唯信鈔文意』の解説を見てみましょう。
「故使如来選要法」といふは、釈迦如来、よろづの善のなかより名号をえらびとりて、五濁悪時・悪世界・悪衆生・邪見無信のものにあたへたまへるなりとしるべしとなり。これを「選」といふ、ひろくえらぶといふなり。「要」はもつぱらといふ、もとむといふ、ちぎるといふなり。「法」は名号なり。
「教念弥陀専復専」といふは、「教」はをしふといふ、のりといふ、釈尊の教勅なり。「念」は心におも ひさだめて、ともかくもはたらかぬこころなり。すなはち選択本願の名号を一向専修なれとをしへたまふ御ことなり。「専復専」といふは、はじめの「専」は一行を修すべしとなり。「復」はまたといふ、かさぬといふ。しかれば、また「専」といふは一心なれとなり、一行一心をもつぱらなれとなり。「専」は一つといふことばなり、もつぱらといふはふたごころなかれとなり、ともかくもうつるこころなきを「専」といふなり。
御釈迦様が、諸々の善の中から名号を選び取って、私にお与えになっているというのです。名号を選び取られたということは、他の諸々の善は選び捨てられたということです。そして、その選び取られた選択本願の名号を一向に専ら修せよ、これが釈尊の教勅であると仰っています。往生・獲信のためには念仏一つ、善は不要ということがよくお分かりでしょう。
念仏一行を専ら修する(専修)のと、念仏と諸善を兼ねて修する(雑修)のどちらが勝れているのか、『唯信鈔』では第六段の最後に宮仕えをするときのたとえで教えられています。専修とは、主君に近づき、主君一人をたよりとして一筋に忠節を尽くすようなものです。対して雑修とは、主君に親しくしながらも、兼ねてまた疎遠の人に志を尽くして、この人に、主君に会って自分のことを良く言ってくれるように求めるようなものです。主君に一筋に仕えるのとそうでないのとで、その勝劣は明らかに知ることができるというのです。二心あるのと一心であるのとでは、天と地ほどの遙かな違いがある、と仰せです。
三願転入の道だ八万四千の法門だと言って、獲信目指して善をせよと勧めるのは、雑修の輩です。念仏一行を選び取って私に与えて下されたのは他ならぬ御釈迦様だというのに、その御釈迦様の御心を踏みにじり、親鸞聖人の教えをねじ曲げて平気な謗法の徒が高森会長であり、その信奉者であります。そのように他力念仏の法を破壊する親鸞会のようなものに親鸞聖人は、
如来の遺教を疑謗し
方便破壊せんものは
弓削の守屋と思うべし
親しみ近づくことなかれ
と仰っていることを知らなければなりません。
の続きです。現在は、『唯信鈔』第六段を見ています。
「極楽無為涅槃界 随縁雑善恐難生 故使如来選要法 教念弥陀専復専」(法事讃・下)
といへり。随縁の雑善ときらへるは、本業を執ずるこころなり。たとへば、みやづかへをせんに、主君にちかづき、これをたのみてひとすぢに忠節を尽すべきに、まさしき主君に親しみながら、かねてまた疎くとほき人にこころざしを尽して、この人、主君にあひてよきさまにいはんことを求めんがごとし。ただちにつかへたらんと、勝劣あらはにしりぬべし。二心あると一心なると、天地はるかにことなるべし。
善導大師の『法事讃』の御言葉を、親鸞聖人は『真仏土文類』にも引かれ、『唯信鈔文意』では詳細に解説されています。
「極楽は無為涅槃の界なり。随縁の雑善おそらくは生じがたし。ゆゑに如来要法を選びて、教へて弥陀を念ぜしめて、もつぱらにしてまたもつぱらならしめたまへり」
(極楽は変ることのないさとりの世界である。人それぞれの縁にしたがって修めるような自力の善根によっては生れることができない。だから釈尊は本願の名号を選びとって、ただひとすじに信じ念仏して往生せよと教えてくださった)
この内、「随縁雑善恐難生」についての『唯信証文意』の解説を見てみましょう。
「随縁雑善恐難生」といふは、「随縁」は衆生のおのおのの縁にしたがひて、おのおののこころにまかせて、もろもろの善を修するを極楽に回向するなり。すなはち八万四千の法門なり。これはみな自力の善根なるゆゑに、実報土には生れずときらはるるゆゑに「恐難生」といへり。「恐」はおそるといふ、真の報土に雑善・自力の善生るといふことをおそるるなり。「難生」は生れがたしとなり。
衆生がそれぞれの縁にしたがって、それぞれの心にまかせて、諸々の善を修めて極楽に回向する、という教えが八万四千の法門です。ところが、この八万四千の法門にしたがって修める諸々の善は、みな自力の善根であるから、真実報土に往生することができないと嫌われているというのです。その報土往生できないと嫌われている自力の善根、もとい八万四千の法門を、果たして親鸞聖人が勧められているのかいないのか、このお言葉から明らかですね。理解できないのは、まともな理解力を奪われた篤い高森信者くらいでしょう。
では親鸞聖人は何を勧められているのかというと、それについて教えられているのが「故使如来選要法 教念弥陀専復専」です。同じく『唯信鈔文意』の解説を見てみましょう。
「故使如来選要法」といふは、釈迦如来、よろづの善のなかより名号をえらびとりて、五濁悪時・悪世界・悪衆生・邪見無信のものにあたへたまへるなりとしるべしとなり。これを「選」といふ、ひろくえらぶといふなり。「要」はもつぱらといふ、もとむといふ、ちぎるといふなり。「法」は名号なり。
「教念弥陀専復専」といふは、「教」はをしふといふ、のりといふ、釈尊の教勅なり。「念」は心におも ひさだめて、ともかくもはたらかぬこころなり。すなはち選択本願の名号を一向専修なれとをしへたまふ御ことなり。「専復専」といふは、はじめの「専」は一行を修すべしとなり。「復」はまたといふ、かさぬといふ。しかれば、また「専」といふは一心なれとなり、一行一心をもつぱらなれとなり。「専」は一つといふことばなり、もつぱらといふはふたごころなかれとなり、ともかくもうつるこころなきを「専」といふなり。
御釈迦様が、諸々の善の中から名号を選び取って、私にお与えになっているというのです。名号を選び取られたということは、他の諸々の善は選び捨てられたということです。そして、その選び取られた選択本願の名号を一向に専ら修せよ、これが釈尊の教勅であると仰っています。往生・獲信のためには念仏一つ、善は不要ということがよくお分かりでしょう。
念仏一行を専ら修する(専修)のと、念仏と諸善を兼ねて修する(雑修)のどちらが勝れているのか、『唯信鈔』では第六段の最後に宮仕えをするときのたとえで教えられています。専修とは、主君に近づき、主君一人をたよりとして一筋に忠節を尽くすようなものです。対して雑修とは、主君に親しくしながらも、兼ねてまた疎遠の人に志を尽くして、この人に、主君に会って自分のことを良く言ってくれるように求めるようなものです。主君に一筋に仕えるのとそうでないのとで、その勝劣は明らかに知ることができるというのです。二心あるのと一心であるのとでは、天と地ほどの遙かな違いがある、と仰せです。
三願転入の道だ八万四千の法門だと言って、獲信目指して善をせよと勧めるのは、雑修の輩です。念仏一行を選び取って私に与えて下されたのは他ならぬ御釈迦様だというのに、その御釈迦様の御心を踏みにじり、親鸞聖人の教えをねじ曲げて平気な謗法の徒が高森会長であり、その信奉者であります。そのように他力念仏の法を破壊する親鸞会のようなものに親鸞聖人は、
如来の遺教を疑謗し
方便破壊せんものは
弓削の守屋と思うべし
親しみ近づくことなかれ
と仰っていることを知らなければなりません。
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