地獄ゆきを知って、これを救うて下さるのが名号であれば、疑いである
『浄土真宗 信心』(加茂仰順師)より引用
七 および声ばかりなり
六
地獄ゆきを知って、これを救うて下さるのが名号であれば、疑いである。
むしろ、五欲の生活そのものが、如来の見られた私の姿である。この者を仕上った名号で助けると仰せられるのである。その呼び声として、あらわれて下されてある。
この見られた私を、浄土に生まれる人間にさせて下さるのが、名号の中に仕上っている。
如来はお助けに信楽していられる。如来の上には、私を助けるに一点の疑いがない。それが私に至りとどいて下さるのである。それが私の信楽である。これを六字に助けられてゆくというのである。
そのお救いのはたらきを、声によって、私の上に活現せられるのである。
このお救いの妙用を如実に聞信したのが信心歓喜の心相である。これが信の一念である。信順無疑の決定心を得る。聞信の心相はあるから、無念無想ではない。
教え育てられて出来た信ではない。救いが私の上に活現されたのである。これを一念業成と云い、他力廻向の信というのである。如来の救いの全領せられたものである。そこに往生の業事成弁し、正定聚の位に住するのである。
一念に、(一)時刻と、(二)信の体のお示しがある。
時剋からいえば極促、信の体では、広大難思の慶心をあらわすと仰せられる。その慶心は、如来から与えられた慶心で、私の上のよろこびではない。私の虚仮不実のそのままが、真実功徳に転成せられ、不断煩悩の相のまま無上涅槃の得分が与えられ、救われてゆくから広大難思の慶心というのである。
宗祖は、往生は、いま定まると仰せられる。往生が定まることをいうので、往生することではない。迷いの私をこのまま浄土へつれてゆくことはできない。現在の私に、仏になるだけの業力がなけらねばならない。そういう人間に育てておかねばならない。それが信楽を誓うのである。過去の私は追憶の私、臨終の私は予想の私、いづれも観念の私である。この私が臨終に弘誓の船に乗って、浄土へ参ると喜ぶは、概念の遊戯である。
名号のお助けにあづかったのが平生業成である。存覚上人の「浄土真要鈔」の平生業成である。
名号のおいわれの聞えたものである。本願名号に助けられてゆくのである。それが如来のお助けに助けられてゆくのである。
(p.67~p.70)
七 および声ばかりなり
六
地獄ゆきを知って、これを救うて下さるのが名号であれば、疑いである。
むしろ、五欲の生活そのものが、如来の見られた私の姿である。この者を仕上った名号で助けると仰せられるのである。その呼び声として、あらわれて下されてある。
この見られた私を、浄土に生まれる人間にさせて下さるのが、名号の中に仕上っている。
如来はお助けに信楽していられる。如来の上には、私を助けるに一点の疑いがない。それが私に至りとどいて下さるのである。それが私の信楽である。これを六字に助けられてゆくというのである。
そのお救いのはたらきを、声によって、私の上に活現せられるのである。
このお救いの妙用を如実に聞信したのが信心歓喜の心相である。これが信の一念である。信順無疑の決定心を得る。聞信の心相はあるから、無念無想ではない。
教え育てられて出来た信ではない。救いが私の上に活現されたのである。これを一念業成と云い、他力廻向の信というのである。如来の救いの全領せられたものである。そこに往生の業事成弁し、正定聚の位に住するのである。
一念に、(一)時刻と、(二)信の体のお示しがある。
時剋からいえば極促、信の体では、広大難思の慶心をあらわすと仰せられる。その慶心は、如来から与えられた慶心で、私の上のよろこびではない。私の虚仮不実のそのままが、真実功徳に転成せられ、不断煩悩の相のまま無上涅槃の得分が与えられ、救われてゆくから広大難思の慶心というのである。
宗祖は、往生は、いま定まると仰せられる。往生が定まることをいうので、往生することではない。迷いの私をこのまま浄土へつれてゆくことはできない。現在の私に、仏になるだけの業力がなけらねばならない。そういう人間に育てておかねばならない。それが信楽を誓うのである。過去の私は追憶の私、臨終の私は予想の私、いづれも観念の私である。この私が臨終に弘誓の船に乗って、浄土へ参ると喜ぶは、概念の遊戯である。
名号のお助けにあづかったのが平生業成である。存覚上人の「浄土真要鈔」の平生業成である。
名号のおいわれの聞えたものである。本願名号に助けられてゆくのである。それが如来のお助けに助けられてゆくのである。
(p.67~p.70)
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