一心の心は、ただ聞いたいわれを、いわれの如く順うのであります

『浄土真宗 信心』(加茂仰順師)より引用

  九 および声を、聞く

  一五

 いま申しますような心から、聞いた「いわれ」に二心ないのが、乃至一念の一念であって、それが一心の安心であります。私のような凡夫では、参られようかなど考えているのは、二心があるのであります。
 一心の心は、ただ聞いたいわれを、いわれの如く順うのであります。
 蓮如さまは、「思案の頂上と申すべきは、弥陀如来の五劫思惟の本願にすぎたることはなし。この御思案の道理に同心せば、仏になるべし。同心とて別になし。機法一体の道理なり。」(御一代記聞書二四二条)と、仰せられました。
 何の思案もするには及ばない。思案は、とくの昔に、阿弥陀さまがして下さったのであります。思案の頂上は、弥陀如来五劫思惟の本願にすぎたるものはないのであります。その思案の成就されたところが、衆生の「たのむ」ところで、あるのですから、名号のいわれを聞いて、お順いすれば、よいのであります。

  一六

 宿善開発の心は、白紙のようなものです。「たのむ心」のおこる時、「御助け治定」というのが、教勅であって、ちょうど、白紙に「印」を押すときのように、この教勅が、ぴたりと胸の中にうけとられた時が、信心がうけとられた時であります。『御和讃』(浄土和讃二十五首目)に「十方諸有の衆生は、阿弥陀至徳の御名をきき、真実信心いたりなば、おほきに所聞を慶喜せん」とあります。また、『信の巻』(末巻一丁)には、「信楽に一念あり。一念とは、斯れ信楽開発の時尅の極促をあらわし、広大難思の慶心をあらはすなり」と、仰せられてあります。これが心得られますと、胸の中へ弥陀の教勅がうつったところで、いよいよ貰われてしまったのが、他力信心の廻向が貰われたところであります。
 そして、誓いの名号が貰われた時が、往生の定まった時であります。それが、乃至十念の乃至からあらわれてくるのであります。
 「一念多念文意(二八丁)」には、「称は、御なをとなふるとなり。また、称は、はかりといふこころなり。はかりといふは、もののほどをさだむることなり。名号を称すること、とこえ、ひとこえ、きくひと、うたがふこころ一念もなければ、実報土へむまるとまふすこころなり」と、仰せられて、乃至十念ということが、よく分らせてもらえるので、あります。


(p.102~p.104)


ただ、本願を信じ念仏すれば仏に成るとの仰せを、仰せの通り受け取らせて頂くだけです。その受け取った瞬間がハッキリしなくとも、また私の上で後生がどのような処であるかハッキリ分からなくとも、よいのです。「助けるぞよ」の仰せに、そのまま順って、阿弥陀仏に後生をおまかせしたのが他力の信心です。
二心というのは、往生の一大事といった大問題を未だに自分の側で抱えて、阿弥陀様にまかせることなくあーだこーだと心配している心を言います。「助けるぞよ」の勅命を、素直に受け取られず、「どうしたら助けて頂けるのだろうか」などと反抗して計らっているのです。そんな思案は阿弥陀様の方でとっくの昔になされて、しかも解決済みだというのに、まーだ下らぬ詮索をして御親をてこずらせているのです。ちょうど「引く」と書いてあるドアを押しているようなもので、それではいつまで経ってもドアの外には出られません。
凡夫の下らぬ詮索は止めて、助けるぞの仰せを聞くことです。聞くのが即ち信です。聞くところに「どうしたら」「どうすれば」は捨たり、本願におまかせする身となるのです。助けるぞを聞即信であります。
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淳心房&しゃあ

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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