私の罪のことは、心にとめなくてもよいとのことです。真宗は、信心一つで、お浄土へ、参らして頂くのです。
『浄土真宗 信心』(加茂仰順師)より引用
一0 「たすけるぞ」の仰せを、「はい」と、頂いたのです
一
私を、助けて下さることが、成就したのです。それで、その成就したのが、「たすけるぞ」の仰せです。その、「たすけるぞ」の仰せを、すなおに「はい」といただいたのです。そのとき、お浄土へ参ることが、きまったのです。そのあとは、「参らして頂く」と思うて、称名相続させて頂くのであります。真宗はこれだけです。
二
私の罪のことは、心にとめなくてもよいとのことです。
真宗は、信心一つで、お浄土へ、参らして頂くのです。
その信心とは、「たすけるぞ」を、頂いたのです。そこに、浄土へ参らして頂くことがきまりますから、「参らして頂く」と、思うて、称名相続させていただくのです。
三
「たすけるぞ」を、頂くのです。そこに、仏徳を全領しますから、浄土へ参ることが、きまったのです。そのあとは、「参らしていただく」と、思うて、称名相続です。
四
仏法さまでは、私のことを、機と、申されます。
そこで、この機を申しますと、十悪五逆の罪人でありましても、五障三従の女人でありましても、さら、さら、その罪業の深いことには心をかけなくても、よいとのことです。ただ、ただ、他力の大信心ひとつで、真実の浄土へ参らせて頂くことができるのであります。
そこで、その信心とは、どういうことかと申しますと、私は、地獄へかならず堕ちる身でありますが、阿弥陀さまは、この私を助けて下さるために、本願をおたてなされて下されてありますから、私は、ただ仰せを、「はい」と、お頂きしましたら、それでよいのであります。
(p.116~p.118)
教えを聞いても少しも罪の意識がなく、後生に関して何にも思わない方は別です。このような人は今は親鸞聖人の教えと縁がない無宿善の人でしょう。
教えを聞いて自己の罪悪について省み、「確かにこの世は50年乃至100年の内の楽しみであり、後生こそ一大事である」と感じた方は、ぜひとも信心決定して報土往生を遂げる身となって頂きたいと思います。
ところで、中には無常観と罪悪観を突き詰めていけば弥陀の救いに遇える等と考えている方があるかも知れません。確かに無常観と罪悪観は大事なことではありますが、それらを「突き詰めていけば」と方法論のように捉えてはなりません。私を救う法は既に成就し、その救いの法、すなわち「たすけるぞ」の仰せを、自分の方でまぜものをしないでそのままお受けするのみで浄土へ参る手はずは整って下さっているのです。その救いの法をそっちのけにして自己ばかり見つめていても救いはありません。自己の中に救われる手立てが何もないから、阿弥陀仏が私達に代わって発願し、修行し、南無阿弥陀仏を成就して廻向されるのです。私達はこの廻向をお受けする一つで、かたじけなくも悪道に趣くべき身がこれを逃れて、常住の国へと往生させて頂くのです。
私は以前、「自分は一つの善もできない極悪人」だと知らされなければ救いに遇えない、あるいは救いに遇えば一つの善もできない極悪人と知らされる等と教えられ、それには全力を尽くして善に励まなければならないと教えられてきましたが、それは本願の救いとは無関係な教えでした。逆に本願の救いに遇うのに障害となる教えでした。本願の救いに遇うには、我が身の罪の深さに心をかけず、諸行・諸善に心をかけず、ただ本願のお救いを、「たすけるぞ」の仰せを聞く一つです。南無阿弥陀仏をお受けする一つです。これだけです。あとは御恩を思えば称名相続です。まことに私に相応した、この世に二つとないありがたい教えです。
一0 「たすけるぞ」の仰せを、「はい」と、頂いたのです
一
私を、助けて下さることが、成就したのです。それで、その成就したのが、「たすけるぞ」の仰せです。その、「たすけるぞ」の仰せを、すなおに「はい」といただいたのです。そのとき、お浄土へ参ることが、きまったのです。そのあとは、「参らして頂く」と思うて、称名相続させて頂くのであります。真宗はこれだけです。
二
私の罪のことは、心にとめなくてもよいとのことです。
真宗は、信心一つで、お浄土へ、参らして頂くのです。
その信心とは、「たすけるぞ」を、頂いたのです。そこに、浄土へ参らして頂くことがきまりますから、「参らして頂く」と、思うて、称名相続させていただくのです。
三
「たすけるぞ」を、頂くのです。そこに、仏徳を全領しますから、浄土へ参ることが、きまったのです。そのあとは、「参らしていただく」と、思うて、称名相続です。
四
仏法さまでは、私のことを、機と、申されます。
そこで、この機を申しますと、十悪五逆の罪人でありましても、五障三従の女人でありましても、さら、さら、その罪業の深いことには心をかけなくても、よいとのことです。ただ、ただ、他力の大信心ひとつで、真実の浄土へ参らせて頂くことができるのであります。
そこで、その信心とは、どういうことかと申しますと、私は、地獄へかならず堕ちる身でありますが、阿弥陀さまは、この私を助けて下さるために、本願をおたてなされて下されてありますから、私は、ただ仰せを、「はい」と、お頂きしましたら、それでよいのであります。
(p.116~p.118)
教えを聞いても少しも罪の意識がなく、後生に関して何にも思わない方は別です。このような人は今は親鸞聖人の教えと縁がない無宿善の人でしょう。
教えを聞いて自己の罪悪について省み、「確かにこの世は50年乃至100年の内の楽しみであり、後生こそ一大事である」と感じた方は、ぜひとも信心決定して報土往生を遂げる身となって頂きたいと思います。
ところで、中には無常観と罪悪観を突き詰めていけば弥陀の救いに遇える等と考えている方があるかも知れません。確かに無常観と罪悪観は大事なことではありますが、それらを「突き詰めていけば」と方法論のように捉えてはなりません。私を救う法は既に成就し、その救いの法、すなわち「たすけるぞ」の仰せを、自分の方でまぜものをしないでそのままお受けするのみで浄土へ参る手はずは整って下さっているのです。その救いの法をそっちのけにして自己ばかり見つめていても救いはありません。自己の中に救われる手立てが何もないから、阿弥陀仏が私達に代わって発願し、修行し、南無阿弥陀仏を成就して廻向されるのです。私達はこの廻向をお受けする一つで、かたじけなくも悪道に趣くべき身がこれを逃れて、常住の国へと往生させて頂くのです。
私は以前、「自分は一つの善もできない極悪人」だと知らされなければ救いに遇えない、あるいは救いに遇えば一つの善もできない極悪人と知らされる等と教えられ、それには全力を尽くして善に励まなければならないと教えられてきましたが、それは本願の救いとは無関係な教えでした。逆に本願の救いに遇うのに障害となる教えでした。本願の救いに遇うには、我が身の罪の深さに心をかけず、諸行・諸善に心をかけず、ただ本願のお救いを、「たすけるぞ」の仰せを聞く一つです。南無阿弥陀仏をお受けする一つです。これだけです。あとは御恩を思えば称名相続です。まことに私に相応した、この世に二つとないありがたい教えです。
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