聞こえたのはただ一声です。その一声のほかなにもありません。一声が聞こえました。
『浄土真宗 信心』(加茂仰順師)より引用
御親のただ『一声』
五
もはやどうにもこうにもなりません私の胸のうち、みじんも自分では仕様もなければ、致し方もない。それをいつもおのが胸のうちばかりながめて、何のかにと詮議にかかりはてていますのは、まだ仕様のあるつもり、どうにかなるつもりです。それが雑行です。雑修です。いつもわが煩悩妄念と組み打ちばかりしていましても、決して勝てるときはまいりません。
この機このままで助かるのではありません。この胸のうちで救われるのではありません。私たちは罪深い身の上です。大きな借金をかかえております。どうあっても地獄へ堕ちねばなりません。どうしてこのままで助かりましょうか。どうしてこの胸のうちで救われましょうか。それなればこそ、如来様がご心配下されたのです。助からない身をお助け下さるためには、思惟の年つもって、五劫に及ばせられました。私に代って願も行も何もかも、御名にご成就下されました。それで私たちがもう助かればこそ、救われればこそ、「直ちに来たれ」と呼んで下さるのです。親様から先手をかけて呼んで下されます。もう聞えました。聞えました。あきらかに私の胸に至りとどいたればこそ、今は雑行捨てて、後生助け給えと明らかにたのませて下されました。この聞えた一念、もう疑いとうても疑われず、危ぶみとうても危ぶまれず、あきらかに頂かせてもらいました。これまで暗かった胸のうちも、何となく明るくなり、凡夫の悪き迷心を転じ、如来のよきまことの心として下されました。変りました。変りました。全く変りました。これまで喜べないこの胸のうちも、おのれわすれてうれしや、ありがたやとよろこばせて下されます。称えられない口で称えさせて下されます。つとまらない身でつとめさせて下されます。なも・あみだぶつ、なも・あみだぶつ。私ではない。自力でない。仏力です。他力です。
なにもかも如来招喚の勅命であります。大悲の呼声であります。これより外に何もありません。なも・あみだぶつ。なも・あみだぶつ。
ただ「助けるぞ」のご一言。つよく、ふかく、今は私の心をつらぬいて、もうすでにとりのけようとしても、とりのけられません。抜けません。
私の罪がふかければふかいほど、助けるとあるお慈悲がふかい。煩悩がつよければつよいほど、助けるとあるお慈悲がふかいのです。煩悩がつよければつよいほど、堕さぬとあるご念力が強いのです。あさましいにつけ、しぶといにつけ、お呼び声が胸にひびいて、助けられたよろこび、助けられた感謝が、なも・あみだぶつ、なも・あみだぶつと、口にあらわれて下さいます。もとより欲もおこり、腹も立ちます。煩悩妄念の黒い雲におおわれづめですが、その中から助けるとあるお声がもれてきこえては、欲の起こるにも、なも・あみだぶつ、なも・あみだぶつ、腹が立つにも、なも・あみだぶつ。あやまりはてて、ざんきの心から、いよいよ助からない身の助かったご大恩がよろこばれるばかりであります。うれしや、ありがたやと称名の称えられるばかりであります。相変らない暗い胸のうちですが、そのうちに明るい明るい明信仏智の光がさしこんで下されました。これまでわが胸を苦にし、自分のあさましさをなげいていましたが、いまはただただ本願を仰ぎ、ほれぼれと大悲を念じてお慈悲の世界にあそばして下されます。おのれを忘れて光明摂取のふところに、名号の乳房を口にふくんで安らかに眠らせて下さいます。
いつ思い出してもたよりになります。力になります。何につけてもしたわれます。ただ助けるとある親様の一声、永劫からの闇が晴れました。あらゆる煩悩の根が切れました。助けられました。ただよろこばれます。仰がれます。したわれます。うれしやうれしやと称えられます。さらさらと通られます。安す安すと眠られます。聞こえたのはただ一声です。その一声のほかなにもありません。一声が聞こえました。
(p.176~p.179)
御親のただ『一声』
五
もはやどうにもこうにもなりません私の胸のうち、みじんも自分では仕様もなければ、致し方もない。それをいつもおのが胸のうちばかりながめて、何のかにと詮議にかかりはてていますのは、まだ仕様のあるつもり、どうにかなるつもりです。それが雑行です。雑修です。いつもわが煩悩妄念と組み打ちばかりしていましても、決して勝てるときはまいりません。
この機このままで助かるのではありません。この胸のうちで救われるのではありません。私たちは罪深い身の上です。大きな借金をかかえております。どうあっても地獄へ堕ちねばなりません。どうしてこのままで助かりましょうか。どうしてこの胸のうちで救われましょうか。それなればこそ、如来様がご心配下されたのです。助からない身をお助け下さるためには、思惟の年つもって、五劫に及ばせられました。私に代って願も行も何もかも、御名にご成就下されました。それで私たちがもう助かればこそ、救われればこそ、「直ちに来たれ」と呼んで下さるのです。親様から先手をかけて呼んで下されます。もう聞えました。聞えました。あきらかに私の胸に至りとどいたればこそ、今は雑行捨てて、後生助け給えと明らかにたのませて下されました。この聞えた一念、もう疑いとうても疑われず、危ぶみとうても危ぶまれず、あきらかに頂かせてもらいました。これまで暗かった胸のうちも、何となく明るくなり、凡夫の悪き迷心を転じ、如来のよきまことの心として下されました。変りました。変りました。全く変りました。これまで喜べないこの胸のうちも、おのれわすれてうれしや、ありがたやとよろこばせて下されます。称えられない口で称えさせて下されます。つとまらない身でつとめさせて下されます。なも・あみだぶつ、なも・あみだぶつ。私ではない。自力でない。仏力です。他力です。
なにもかも如来招喚の勅命であります。大悲の呼声であります。これより外に何もありません。なも・あみだぶつ。なも・あみだぶつ。
ただ「助けるぞ」のご一言。つよく、ふかく、今は私の心をつらぬいて、もうすでにとりのけようとしても、とりのけられません。抜けません。
私の罪がふかければふかいほど、助けるとあるお慈悲がふかい。煩悩がつよければつよいほど、助けるとあるお慈悲がふかいのです。煩悩がつよければつよいほど、堕さぬとあるご念力が強いのです。あさましいにつけ、しぶといにつけ、お呼び声が胸にひびいて、助けられたよろこび、助けられた感謝が、なも・あみだぶつ、なも・あみだぶつと、口にあらわれて下さいます。もとより欲もおこり、腹も立ちます。煩悩妄念の黒い雲におおわれづめですが、その中から助けるとあるお声がもれてきこえては、欲の起こるにも、なも・あみだぶつ、なも・あみだぶつ、腹が立つにも、なも・あみだぶつ。あやまりはてて、ざんきの心から、いよいよ助からない身の助かったご大恩がよろこばれるばかりであります。うれしや、ありがたやと称名の称えられるばかりであります。相変らない暗い胸のうちですが、そのうちに明るい明るい明信仏智の光がさしこんで下されました。これまでわが胸を苦にし、自分のあさましさをなげいていましたが、いまはただただ本願を仰ぎ、ほれぼれと大悲を念じてお慈悲の世界にあそばして下されます。おのれを忘れて光明摂取のふところに、名号の乳房を口にふくんで安らかに眠らせて下さいます。
いつ思い出してもたよりになります。力になります。何につけてもしたわれます。ただ助けるとある親様の一声、永劫からの闇が晴れました。あらゆる煩悩の根が切れました。助けられました。ただよろこばれます。仰がれます。したわれます。うれしやうれしやと称えられます。さらさらと通られます。安す安すと眠られます。聞こえたのはただ一声です。その一声のほかなにもありません。一声が聞こえました。
(p.176~p.179)
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