「一切衆生必堕無間」と言いながら「一切衆生必堕無間」を自ら否定している親鸞会
親鸞会教義とは実に頓珍漢な教えです。当ブログでも何度も書いているように、大沼法竜師や伊藤康善師のパクリ損ないに創価の思想が混ざったデタラメ創作教義ですから、至る所に穴や矛盾が生じています。
「一切衆生必堕無間」という教義にしてもそうです。まずは『こんなことが知りたい①』から。
俗に、お盆といいますが、正しくは盂蘭盆といいます。『仏説盂蘭盆経』から起こったものです。
この経には、お釈迦さまの十大弟子の一人に目連尊者という人がありました。この人は神通力第一と称され、特に孝心の深い人でありました。その目連尊者が神通自在を得て三世を観ました時に、いたましいことには、尊者の亡き母が餓鬼道に堕ちて苦しんでいることが判りました。(p.190)
私は仏説盂蘭盆経を読んでいませんので正確なところは分かりませんが、この話が本当だとすれば目連尊者の母親は無間地獄ではなく餓鬼道に堕ちていたということになります。「一切衆生必堕無間」の否定です。
次に、『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り11にありますが、「餓鬼が寒林で骸を打つ」の話もそうです。親鸞会では真剣な聞法求道を促すためにこの話を用いますが、『飛雲』にあるように、親鸞会は自分で一切衆生必堕無間を否定しているのです。
それから、『会報第一集』三世因果の教え(二)にラマ僧の話が載っていますが、そこには、死んだ怠け者のラマ僧はロバに生まれ変わるであろうと書かれています。そしてこの話の最後に、
併し人間や動物に生れる者は上等の部類で大概の者は地獄へ矢の如く堕ちていく。(p.49)
と締めくくられています。やはりこれも「一切衆生必堕無間」の否定です。
一切衆生必堕無間というからには、一人の例外もなく死ねば必ず無間地獄へ堕ちねばその教義は嘘です。親鸞会は教義自体が嘘であることを自ら証明しているのです。だから最初に頓珍漢な教えだと書きました。
第一、親鸞会がやたらと強調している因果の道理からして一切衆生必堕無間はおかしな教義なのです。一人一人それぞれ業が異なるのに、死後は例外なく無間地獄へ堕ちるなど、今からすれば正気の沙汰とは思えません。生まれたばかりで死んでしまう赤子も、100まで生きた老人も、素晴らしい生き方をした人も、罪を犯し続けた悪人も、同様に無間地獄へ堕ちるのですからね。そんなおかしな話がありますか?
それに、ほとんどの人は仏法とご縁のないままこの世を生き、そして死んでゆくのですから、一切衆生必堕無間が真実なら大多数の人々は無間地獄に堕ちるために人間に生まれてきたようなものです。次生は無間地獄が決定しているなら、わざわざ人間に生まれない方がよかったかも知れません。その辺の犬や猫の方がよかったということになってしまいます。「人身受け難し、今已に受く」の喜びなど起きようはずがありません。
所詮、人様のことは問題ではなく、我が身に引き当てて受け止めるのが仏法です。自身のことを必堕無間の者と味わうには何の問題もありません。しかし必堕無間を全人類に拡大して解釈するのは如何なものかと思います。ご覧のように、一切衆生必堕無間という教義は親鸞会が自ら否定しているデタラメ創作教義ですから、未だに引きずっている人はご心配なさらないで下さい。また、そう言われてもやはり自分の罪悪の報いを恐れてしまう方は、自身の罪悪の深いことに心を懸けず、どんな罪の深い者でも助ける本願を聞き、その仰せを仰いで下さい。それ以外に救われる道は二つも三つもございません。この私一人を助けるためにご苦労なされている、阿弥陀仏の仰せを受け容れて下さい。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
「一切衆生必堕無間」という教義にしてもそうです。まずは『こんなことが知りたい①』から。
俗に、お盆といいますが、正しくは盂蘭盆といいます。『仏説盂蘭盆経』から起こったものです。
この経には、お釈迦さまの十大弟子の一人に目連尊者という人がありました。この人は神通力第一と称され、特に孝心の深い人でありました。その目連尊者が神通自在を得て三世を観ました時に、いたましいことには、尊者の亡き母が餓鬼道に堕ちて苦しんでいることが判りました。(p.190)
私は仏説盂蘭盆経を読んでいませんので正確なところは分かりませんが、この話が本当だとすれば目連尊者の母親は無間地獄ではなく餓鬼道に堕ちていたということになります。「一切衆生必堕無間」の否定です。
次に、『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り11にありますが、「餓鬼が寒林で骸を打つ」の話もそうです。親鸞会では真剣な聞法求道を促すためにこの話を用いますが、『飛雲』にあるように、親鸞会は自分で一切衆生必堕無間を否定しているのです。
それから、『会報第一集』三世因果の教え(二)にラマ僧の話が載っていますが、そこには、死んだ怠け者のラマ僧はロバに生まれ変わるであろうと書かれています。そしてこの話の最後に、
併し人間や動物に生れる者は上等の部類で大概の者は地獄へ矢の如く堕ちていく。(p.49)
と締めくくられています。やはりこれも「一切衆生必堕無間」の否定です。
一切衆生必堕無間というからには、一人の例外もなく死ねば必ず無間地獄へ堕ちねばその教義は嘘です。親鸞会は教義自体が嘘であることを自ら証明しているのです。だから最初に頓珍漢な教えだと書きました。
第一、親鸞会がやたらと強調している因果の道理からして一切衆生必堕無間はおかしな教義なのです。一人一人それぞれ業が異なるのに、死後は例外なく無間地獄へ堕ちるなど、今からすれば正気の沙汰とは思えません。生まれたばかりで死んでしまう赤子も、100まで生きた老人も、素晴らしい生き方をした人も、罪を犯し続けた悪人も、同様に無間地獄へ堕ちるのですからね。そんなおかしな話がありますか?
それに、ほとんどの人は仏法とご縁のないままこの世を生き、そして死んでゆくのですから、一切衆生必堕無間が真実なら大多数の人々は無間地獄に堕ちるために人間に生まれてきたようなものです。次生は無間地獄が決定しているなら、わざわざ人間に生まれない方がよかったかも知れません。その辺の犬や猫の方がよかったということになってしまいます。「人身受け難し、今已に受く」の喜びなど起きようはずがありません。
所詮、人様のことは問題ではなく、我が身に引き当てて受け止めるのが仏法です。自身のことを必堕無間の者と味わうには何の問題もありません。しかし必堕無間を全人類に拡大して解釈するのは如何なものかと思います。ご覧のように、一切衆生必堕無間という教義は親鸞会が自ら否定しているデタラメ創作教義ですから、未だに引きずっている人はご心配なさらないで下さい。また、そう言われてもやはり自分の罪悪の報いを恐れてしまう方は、自身の罪悪の深いことに心を懸けず、どんな罪の深い者でも助ける本願を聞き、その仰せを仰いで下さい。それ以外に救われる道は二つも三つもございません。この私一人を助けるためにご苦労なされている、阿弥陀仏の仰せを受け容れて下さい。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
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