親鸞会流三願転入の教えは、今宵の後生を無視しているので、人生の悩みを根本的に解決する力はありません
先日、ついに祖母が亡くなり、通夜、葬儀に参列してきました。祖母の死に顔を見、また叔母や従姉妹、妹が泣いている姿を見て、私もこみ上げてくるものがありました。子供の頃からあんなに面倒見てもらっていたのに、最後は結局見舞いも行けずじまいでした。後悔が残ります。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
親鸞会発行の『会報』にも載っている話ですが、まさに身内の死人は天使です。「次はお前の番だぞ。今宵後生に旅立つ準備はできているのか」と、無常にも罪悪にもまるで驚かず、どう生きていくかだけしか考えていない私達に警鐘を鳴らしているのです。周囲の親族や親せきは皆、故人の死を悼み、悲しんでいるだけに見えましたが、ぜひともこういうことを考えるご縁として頂きたいと願わずにはいられません。残念ながらこの度の葬儀も、住職が訳の分からん葬儀用の文と題目を唱えただけで終わってしまいましたが・・・。
さて、親鸞会でも無常と罪悪について説き、何のために生まれ、何のために生きるのか、人生の目的について話がなされます。人生の目的を明らかにされた方が親鸞聖人であると言い、その親鸞聖人の教えの一枚看板が「平生業成」であると説きます。しかし実態は、当ブログでも散々指摘している通り、また最近の記事ですと
『元会員から見た浄土真宗親鸞会』【再掲】『親鸞聖人の教えに人生の目的が説かれているか?ー本願寺 いない』と歪曲する親鸞会
などに指摘されている通り、親鸞会の説くところは平生業成の教えとはまるでかけ離れています。人生の目的が現在に完成すると言いながら現在に完成することはなく、「今の救い」を死ぬまで求道している会員ばかりです。人生の目的を知ったと言っても、結局のところ親鸞会会員は、世間の人の行動に親鸞会の活動が加わっただけ。いや、加わった分世間の人より大変です。それも「人生の目的を達成するまでの辛抱」だと考えているのかも知れませんが、講師部員ですら19願の入口にも入っていないのでは一般会員など到底今生では達成できないでしょう。
親鸞会流三願転入の教えは、今宵の後生を無視しているので、人生の悩みを根本的に解決する力はありません。自分が今日死んでしまうとしたら、いつどうやって信仰が進んで助かるというのでしょうか? 私はこれが常々疑問で、どう考えても答えが「助からない」だったので親鸞会を去りました。この質問に答えを出すのを放棄して、親鸞会が正しいと思い込んでいる会員も多いでしょうが、それではいつまでも18願の救いを直に聞けず、19願へ遠回りさせられ、都合よく利用されてやがて死の腕に飛び込んでゆくしかないでしょう。せっかく人生の根本的な問題に目を向けているというのに、何とも皮肉な話です。
平生業成の平生が「いま」ということなら、それは何かを求めていった先の「未来」ではなく、正真正銘「現在ただ今」です。上リンク先の言葉をお借りするならば、
「我をたのめ(南無)必ず助ける(阿弥陀仏)」とつねに喚び続けている名号をそのまま疑いなく聞き受けることが信心です。そのとき、往生成仏が定まります。私が求めるよりも先に与えられている名号願力という大前提のもとに「平生業成」が成り立つのです。
南無阿弥陀仏をそのまま聞き受けたとき、生きる目的も知らず死に行く先も知らなかった人生が、浄土に向かって生きる人生であると生きる方角が定まるのです。南無阿弥陀仏を聞くのは、未来のことでもなく、過去のことでもなく、現在只今のことです。「生きる意味と方向」が定まるのは、現在只今であって、未来に向かってその達成を求めるのではないのです。つねに喚びかけ続けられている本願の仰せを、「いま」、聞くか聞かないかだけです。
とある通りです。ただ今、ここにいる私が、何も変わらない今の私のままで本願力に遇い、往生の業事成弁するのです。「一念で助かる」と言いつつ、その「一念」まで到達するのに時間がかかるのならその教えは詐欺です。「一念で助かる詐欺」です。会員の皆さんが助からない原因は自分の求道の仕方が甘いのではなく、求道している教えが間違っているからだと早く気付いて頂きたいものです。そして今年度、新たに親鸞会に誘われ聞き始めたという方がいましたら、多くのものを無駄にする前に本当の親鸞聖人の教えではないと気付き、脱して頂きたいと思います。
親鸞会発行の『会報』にも載っている話ですが、まさに身内の死人は天使です。「次はお前の番だぞ。今宵後生に旅立つ準備はできているのか」と、無常にも罪悪にもまるで驚かず、どう生きていくかだけしか考えていない私達に警鐘を鳴らしているのです。周囲の親族や親せきは皆、故人の死を悼み、悲しんでいるだけに見えましたが、ぜひともこういうことを考えるご縁として頂きたいと願わずにはいられません。残念ながらこの度の葬儀も、住職が訳の分からん葬儀用の文と題目を唱えただけで終わってしまいましたが・・・。
さて、親鸞会でも無常と罪悪について説き、何のために生まれ、何のために生きるのか、人生の目的について話がなされます。人生の目的を明らかにされた方が親鸞聖人であると言い、その親鸞聖人の教えの一枚看板が「平生業成」であると説きます。しかし実態は、当ブログでも散々指摘している通り、また最近の記事ですと
『元会員から見た浄土真宗親鸞会』【再掲】『親鸞聖人の教えに人生の目的が説かれているか?ー本願寺 いない』と歪曲する親鸞会
などに指摘されている通り、親鸞会の説くところは平生業成の教えとはまるでかけ離れています。人生の目的が現在に完成すると言いながら現在に完成することはなく、「今の救い」を死ぬまで求道している会員ばかりです。人生の目的を知ったと言っても、結局のところ親鸞会会員は、世間の人の行動に親鸞会の活動が加わっただけ。いや、加わった分世間の人より大変です。それも「人生の目的を達成するまでの辛抱」だと考えているのかも知れませんが、講師部員ですら19願の入口にも入っていないのでは一般会員など到底今生では達成できないでしょう。
親鸞会流三願転入の教えは、今宵の後生を無視しているので、人生の悩みを根本的に解決する力はありません。自分が今日死んでしまうとしたら、いつどうやって信仰が進んで助かるというのでしょうか? 私はこれが常々疑問で、どう考えても答えが「助からない」だったので親鸞会を去りました。この質問に答えを出すのを放棄して、親鸞会が正しいと思い込んでいる会員も多いでしょうが、それではいつまでも18願の救いを直に聞けず、19願へ遠回りさせられ、都合よく利用されてやがて死の腕に飛び込んでゆくしかないでしょう。せっかく人生の根本的な問題に目を向けているというのに、何とも皮肉な話です。
平生業成の平生が「いま」ということなら、それは何かを求めていった先の「未来」ではなく、正真正銘「現在ただ今」です。上リンク先の言葉をお借りするならば、
「我をたのめ(南無)必ず助ける(阿弥陀仏)」とつねに喚び続けている名号をそのまま疑いなく聞き受けることが信心です。そのとき、往生成仏が定まります。私が求めるよりも先に与えられている名号願力という大前提のもとに「平生業成」が成り立つのです。
南無阿弥陀仏をそのまま聞き受けたとき、生きる目的も知らず死に行く先も知らなかった人生が、浄土に向かって生きる人生であると生きる方角が定まるのです。南無阿弥陀仏を聞くのは、未来のことでもなく、過去のことでもなく、現在只今のことです。「生きる意味と方向」が定まるのは、現在只今であって、未来に向かってその達成を求めるのではないのです。つねに喚びかけ続けられている本願の仰せを、「いま」、聞くか聞かないかだけです。
とある通りです。ただ今、ここにいる私が、何も変わらない今の私のままで本願力に遇い、往生の業事成弁するのです。「一念で助かる」と言いつつ、その「一念」まで到達するのに時間がかかるのならその教えは詐欺です。「一念で助かる詐欺」です。会員の皆さんが助からない原因は自分の求道の仕方が甘いのではなく、求道している教えが間違っているからだと早く気付いて頂きたいものです。そして今年度、新たに親鸞会に誘われ聞き始めたという方がいましたら、多くのものを無駄にする前に本当の親鸞聖人の教えではないと気付き、脱して頂きたいと思います。
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