「唯信独達」と言いながら肝心かなめの「信」とは何かを完全に誤解させている親鸞会

どうして親鸞会は表立って念仏を勧めないのか

のコメント欄に会員らしき人物が反論しています。「唯信独達」という言葉を使っていますが、そういえば『顕正一口メモ(A)』にこのような問答があったことを思い出しました。

非難
◉本願寺の坊主
 親鸞会の話には、あまり念仏が出てこないが
 もっと念仏を強調すべきだ。

破邪
◉親鸞会の会員
 親鸞聖人のみ教えは、唯信独達の法門だ。
 念仏を強調するのは、浄土他流だ。


やはり本願寺との教義・説法の比較をするために「唯信独達」という言葉を使っていることが伺えます。
それで、信心一つで助かるその信心とは二種深信で、機の深信とは自身は逆謗の屍であるとハッキリ知らされること、法の深信とは極楽へ必ず往けるとハッキリすることだとしています。蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(49)等でも書いていますが、親鸞会教義によると救われるまでにはおおよそ

(1)仏教の根幹は因果の道理、因果の道理が分からねば仏教は何十年聞いていても分からない。そこで親鸞会で説かれる因果の道理をよく聞いて理解する。
(2)因果の道理の結論は廃悪修善、因果の道理が知らされるほど廃悪修善の気持ちが強くなる。廃悪修善の気持ちがどれだけ強いかが信仰のバロメーター。
(3)真剣に廃悪修善をしていくと、知らされてくるのは自己のすがた。それは、悪しかできない己のすがた。
(4)そういう私が一息切れたらどうなるか。後生は必ず無間地獄に堕ちて、八万劫中大苦悩の一大事があると説かれている。これを後生の一大事という。この一大事に驚きが立たねば仏教は始まらない。
(5)この一大事を解決するには、阿弥陀仏の本願(18願)に依るしかないが、私達は自惚れているため素直に本願が聞けない。それを見抜いて阿弥陀仏は方便願として19願・20願を建てられた。
(6)方便とは、我々を真実に近づけ、真実を体得させるに絶対必要なものを言う。方便からしか真実に入れず。19願・20願の道程を通らなければ、絶対に18願の世界には入れない。
(7)19願は修諸功徳の願と言われる。「善をしなさい、そうしたら助ける」というお約束。それで言われる通り、一生懸命善に励む。善をしなければ信仰は進まない。すると知らされてくるのは善のできない己のすがた。自分の力ではどうにもならないとなって、20願へ進む。
(8)20願は植諸徳本の願と言われる。阿弥陀仏のつくられた、諸々の徳の本である念仏を一生懸命称えて助かろうとする。しかし結局、念仏も称えられない己のすがたが知らされ、「地獄は一定すみかぞかし」と地獄のどん底に叩き落とされる。
(9)そこで間髪入れずに「ただで救うぞ」の弥陀の呼び声が五臓六腑を貫き、「弥陀の本願は私一人のためでありました」と泣かずにおれない。この不思議な体験を信心決定という。


というような段階を辿り、最後(8)(9)にあるような不思議体験、驚天動地の体験を信心決定だと思っている会員がほとんどだと思います。そして、一刻も早くこのような神秘的体験をしたいと思ってあくせく親鸞会の組織拡大のための活動に従事していることでしょう。私もそうでしたから、退会当初「信心決定した」と言っている人のことを「凄い体験をした人だ」と想像していました。「唯信独達」と言いながら肝心かなめの「信」とは何かを完全に誤解させているのです。

では「唯信独達」の「信」とはどのような信心かと言えば、上リンク先で示しているように、

・信心をとるといっても、南無阿弥陀仏の六字の中にこもっている。六字の他に、別に信心があるということではない。
・この南無阿弥陀仏の六字を善導大師は釈して、「南無というのは帰命である。また南無には、発願回向の意味もある。阿弥陀仏はその行である。このように南無阿弥陀仏は願と行を具足しているから、次の生にはまちがいなく浄土に往生できるのである」と仰っている。
・この善導大師の釈をどのように心得たらいいのかというと、要するに私達のような悪業煩悩の身であっても、一心に弥陀に帰命すれば、必ずその人を阿弥陀仏は助けて下さるということである。帰命というのは、弥陀の「助けるぞ」の仰せを計らいなく聞き受け、「仰せの如くお助け下さい」とおまかせするこころである。そのように一心に弥陀をたのむ衆生に無上大利の功徳を与えて下さることを、発願回向という。
・この大善大功徳の名号を我ら衆生に与えて下さるが故に、正定聚不退転の位に住する。果てしない過去から造りに造ってきた悪業煩悩は、往生の障りとはならない。
・こうしたことであるから、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、私達が極楽に往生するすがたであるといよいよ明らかに知られる。だから安心といっても、信心といっても、この名号の六字のこころをよくよく心得ることの他にはない。名号のいわれをよく心得た人を、他力の大信心を獲得した人というのである。このように殊勝の道理であるから、深く信じなさい。


ということです。六字の他に、別に信心があるというのではなく、「南無(我に任せよ)南無阿弥陀仏(必ず助ける)」を計らい無く聞き受けているのを信心とか、信心決定というのです。信一念の瞬間のみを信心決定と言ったり、その瞬間の体験を重視するというものではありません。現在只今、阿弥陀仏の仰せ通り後生をおまかせしていることが大事です。

このような殊勝の道理を聞けば、それが自力念仏か他力念仏かどうかは別として南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏を称えたくなるものです。ところが親鸞会ではそうは教えません。念仏は組織拡大には無益だからです。『御文章5帖目13通』にしても最初の

それ、南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わづかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきはまりなきものなり。

しか示さず、この名号を獲得するには・・・となって「因果の道理」「廃悪修善」「19願」ばかり教えられます。これでは会員の皆さんは、信仰(?)が進んでいない現在、念仏を称えることはおつとめの時や仏前で合掌する時位で、親鸞会の活動の添え物程度にしか考えられないのではないでしょうか?

信心決定、信心獲得、唯信独達と信心を強調されながら、その中身についてまるで理解していないのが親鸞会会員です。つくづく親鸞会から解き放たれて真宗の信心を正しく知って頂きたいと願わずにはいられません。
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プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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