聖道門と同様に、第十九願は権仮方便の教え

親鸞会教義は元々おかしかったのですが、近年は殊に真宗教義からの逸脱が目立ちます。他力真実の念仏の教えは創成期は多く説かれていたかも知れませんが、今やすっかりその影は潜め、自力方便の善もどきの善の教えと化しています。
会員は何とか三願転入の道を進もうと親鸞会で勧められる活動に励んでいますが、親鸞会で示される横の線に該当する道も、煩悩と戦って信心決定まで進むという二河白道も、勿論三願転入の道とやらも存在自体無いのですから、いくらお布施を頑張ろうが、人を勧誘して入会させようが、チラシを何万枚撒こうが、会長・上司の指示に無条件服従しようが、そのようなことは一切他力の信心とは無関係な活動です。他力の信心は自力一杯求めて進んでいった先にあるのではなく、既にこの私一人に向かって喚び続けられている「助けるぞよ」の仰せを今この場で聞き受けるのみです。特に会員の皆さんは長年のヘンテコ教義が染み込んでしまい、どうしても活動していった先、求道していった未来、自力間に合わなかったと真実の自己が知らされてからのお助けと思いがちですが、只今この場で、何も変わらない、このままの私をお助けであることを知らないのです。それを、このように説くことを「楽を勧めている」とか、「自力でも他力でもなく無力だ」とか、「安楽椅子に腰かけているだけだ」とか、「観念の遊戯だけで、実践が伴わなければ求道は進まない」などと非難するのは、阿弥陀仏がどのような衆生を対象として、何を選択本願の行として選定し、どのようにして衆生を導き救済しようかという、阿弥陀仏の本願を知らない者だからできることです。教義も時代背景も異なりますが、親鸞会が本願寺や退会者を非難するのは、聖道諸宗が法然・親鸞聖人を非難したことによく似ています。

さて親鸞会では、あるはずのない信心獲得までの求道の道程を非常に重視し、「仮よりしか真に入れない」と言ってはしきりに方便の教え(19願、定散二善)を強調して勧めてきます。一方、同じく方便の教えである聖道門は助からないといって勧めません。根拠としては、親鸞会でも『教学聖典(7)』に載せているように、

聖道権仮の方便に
 衆生ひさしくとどまりて
 諸有に流転の身とぞなる
 悲願の一乗帰命せよ


などが該当すると思いますが、ここで、聖道門のことを「権仮の方便」と言われていることに着目して下さい。真宗では方便と言っても善巧方便と権仮方便の二つがあるのですが(詳しくはノート:方便参照)、親鸞聖人は聖道門の教えの事を、直ちに真実を説いても受け容れない衆生を導くために暫く仮に設けられた随他意の法門であると言われています。聖道門は悲願の一乗(第十八願の領域)に入れしめるための権仮の方便であるから、そこに止まってはならないと誠められている、というのが上の和讃です。

では、聖道門に対して第十九願の教えはどうかと言うと、親鸞聖人はやはり第十九願のことを権仮方便の教えだと仰っています。

しかるに、いま『大本』(大経)によるに、真実・方便の願を超発す。また『観経』には、方便・真実の教を顕彰す。『小本』(小経)には、ただ真門を開きて方便の善なし。ここをもつて三経の真実は、選択本願を宗とするなり。また三経の方便は、すなはちこれもろもろの善根を修するを要とするなり。これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。『化身土文類』三経通顕(真仮分判)
ところで、『無量寿経』によると、阿弥陀仏は他力念仏が説かれた真実の願すなわち第十八願と、往生のためのさまざまな善が説かれた方便の願すなわち第十九願・第二十願とをおこされている。また『観無量寿経』には、釈尊が定善・散善の方便の教えを外に顕され、他力念仏の教えを内に彰されている。『阿弥陀経』には、ただ真門の念仏が説かれているだけで、方便の善は説かれていない。このようなわけで、『無量寿経』・『観無量寿経』・『阿弥陀経』に説かれる真実の教えは、第十八願をそのかなめとするのである。また、その三経に説かれる方便の教えは、さまざまな善根を修めることをそのかなめとするのである。  これらのことから方便の願を考えると、そこには方便と真実とがある。また行と信とがある。その願とは臨終現前の願(第十九願)である。その行とは定善・散善のさまざまな善根功徳を修めることである。その信とは至心・発願・欲生の自力の三心である。この第十九願の行と信とをよりどころとして、釈尊は『観無量寿経』に、浄土の要門すなわち方便である仮の教えを顕された。

聖道門が、未熟の機を育てて、浄土門に引き入れる権仮方便の教と見られているのと同様、第十九願要門も、未熟の機を育てて、第二十願真門、ひいては第十八願弘願に引き入れる権仮方便の教と見られているのが親鸞聖人です。「方便だからやらなければならない」というのなら、親鸞会はどうして第十九願要門は根拠として勧めるのに、同じく方便の教えである聖道門は勧めないのでしょうか。親鸞会教義は全く筋が通っていません。仮に親鸞聖人が、十八願による往生を願う人に十九願の行を勧めた根拠でもあれば親鸞会の理屈は通るのですが、そんな箇所は一つもありません。親鸞聖人によって弘願真実の教えを求めるようになった人には、聖道門と同様に、第十九願・第二十願の教えは還って廃せられる法門であるから勧められていないのです。

所詮は献金、勧誘、無条件服従をさせて組織拡大を図るために親鸞聖人の教えを都合よく利用しているに過ぎません。自力の修行や念仏では目的が果たせず、どうしても「善の勧め」が必要だったので、昔は「宿善」を利用し、今は「十九願」「定散二善」を利用しているのです。会員の皆さんは会長や一部幹部の私利私欲を満たすために利用されていることを一刻も早く知るべきです。

ところで、今日私が目的地へ向かう途中、創○学会の会館の周辺を掃き掃除している若者を何人か見かけました。恐らく学会員かその二世三世と思われます。そういえば以前家庭教師をしていた時にたまたま学会員の生徒を受け持ったのですが、彼らは震災や災害などが起こると進んでボランティアに行くという話を聞きました。ここで私が何を言いたいかというと、善なら親鸞会以外の宗教信者もやっているし、親鸞会会員以上に熱心な人も多いということです。親鸞会の中に、災害地にボランティアに飛んでいくような気概のある人がいるでしょうか。結局は親鸞会の活動優先、そんなことまでやっていられないという人がほとんどではないかと思います。災害救助活動も立派な善、大きな善ですが、「善の勧め」「善の勧め」とやかましい割には善を求める姿勢が他の宗教信者より低いと感じるのは私だけではないでしょう。
親鸞会会員は別の宗教信者のことを外道邪教徒と見下し、教祖に搾取される哀れな人達だと思っているでしょうが、実は自分達がそうであることにまるで気が付いていません。そこが何よりも哀れです。偽金をつかまされて喜んでいるのと同じ。いつ自分が手にしているのが偽金だと気付くのでしょうか。正見と教えられても、自分が聞いている教え、自分が信じている先生を正見するというのは大変難しいのだと知らされます。それでも何かの縁で親鸞会批判サイトを見て、自分がニセモノをつかまされていたこと、本当の阿弥陀仏の救いとはこういうことだと知らされればと思わずにはいられません。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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