親鸞会の教えは、いわば求めれば求めるほど自殺したくなる教え、絶望するしかない教え
『飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~』親鸞聖人が大変重要視なされた龍樹菩薩の獲信までの体験
のコメント欄に、R1000さんと管理人さんのやり取りがあります。会員の自殺についてと、親鸞会で求めている時の心境が綴られています。バリバリ活動していた方は勿論、そこそこ力を入れて活動した経験のある方なら、ほとんどがR1000さんの書き込みに共感されると思います。私も同じ思いです。
実際に自殺した会員を直接知らないので真偽の程は私には確かめようがありませんが、聞いて求めていても自殺したくなる、この点が問題でしょう。『なぜ生きる』には、
生きる目的がハッキリすれば、勉強も仕事も健康管理もこのためだ、とすべての行為が意味を持ち、心から充実した人生になるでしょう。病気がつらくても、人間関係に落ち込んでも、競争に敗れても、
「大目的を果たすため、乗り越えなければ!」
と”生きる力”が湧いてくるのです。(p.35)
などと書かれてはいますが、まず親鸞会で言うところの「大目的」というのが後生の一大事(死ねば無間地獄に堕ちるという一大事)の解決という、非常に分かりづらく、具体性のない曖昧な、そして人智の及ばない途方もない問題ですので、それを聞いた最初の頃はよくても時間が経過する毎に現状の困難に対して「乗り越えなければ!」なんて気持ちはどうしてもなくなっていきます。それに拍車をかけるのが、
・解決までのプロセスも、延々と聴聞に励んだり、おつとめを欠かさずしたり、善をしたりして信仰(?)を進めていかねばならないというもの。
・自分が横の線のどこまで進んでいるかということも全く分からない。
・自分より遥かに長く、懸命に活動していそうな講師部員、幹部会員でさえ救われていない様子。
というような問題でしょう。自分にこんな大目的が果たせるのか、臨終までに間に合うのか、今日死なねばならないとなったらどうするのか、このような課題に直面した時、もはや絶望するしかないのではないかと思います。それでも死ねば必堕無間だからと求めるが、求めるのも苦しい。今も苦しいし、未来も必堕無間の苦しみ。こんな苦しい中求めて、最後解決できずに終わったら、今死んだ方がマシだと自殺したくなったことが、私にも何度あったか分かりません。
「どれくらいの値打ちがあるだろう?
僕が今生きているこの世界に
すべてが無意味だって思える
ちょっと疲れてんのかなぁ」(Mr.Children HANABI)
という歌詞に共感し、涙を流した日々は簡単には忘れられません。
親鸞会の教えは、いわば求めれば求めるほど自殺したくなる教え、絶望するしかない教えです。当ブログでは教義の概要に何度も触れていますが、求めていく毎に様々なことを知らされ、知らされては求め、求めては知らされを延々と繰り返して、最後地獄のどん底に突き落とされないと阿弥陀さまに助けて頂けない教えです。そこまで辿り着いた人は、親鸞会の中では高森会長と、たまーに新聞に載る高齢の方が数名で、周囲には全く見かけませんでした。
このように書くと高森信心の方たちは決まって、「それはあなたの聞き誤りだ」と言いますが、果たしてそうでしょうか? 例えば、阿弥陀仏が「善をせよ」と勧めておられ、その通りに善を実行してゆかなければ、善のできない自分だと知らされない、救われない、ということならば、結局のところ「善をしなければ救われない」のではありませんか? 私は間違ったことを言っていますか?
親鸞会を非難するもの、親鸞会を去るものを全て聞き誤りの人達だと決めつけ、自分達は正しく聞いているつもりの会員の皆さんは、一刻も早く間違った浄土真宗を聞かされ、体よく利用されているという事実に気が付くべきです。そして、R1000さんが仰るように、救いに善も何も要らない、今の救いが平生業成、浄土真宗だということを知って頂きたいと思います。
のコメント欄に、R1000さんと管理人さんのやり取りがあります。会員の自殺についてと、親鸞会で求めている時の心境が綴られています。バリバリ活動していた方は勿論、そこそこ力を入れて活動した経験のある方なら、ほとんどがR1000さんの書き込みに共感されると思います。私も同じ思いです。
実際に自殺した会員を直接知らないので真偽の程は私には確かめようがありませんが、聞いて求めていても自殺したくなる、この点が問題でしょう。『なぜ生きる』には、
生きる目的がハッキリすれば、勉強も仕事も健康管理もこのためだ、とすべての行為が意味を持ち、心から充実した人生になるでしょう。病気がつらくても、人間関係に落ち込んでも、競争に敗れても、
「大目的を果たすため、乗り越えなければ!」
と”生きる力”が湧いてくるのです。(p.35)
などと書かれてはいますが、まず親鸞会で言うところの「大目的」というのが後生の一大事(死ねば無間地獄に堕ちるという一大事)の解決という、非常に分かりづらく、具体性のない曖昧な、そして人智の及ばない途方もない問題ですので、それを聞いた最初の頃はよくても時間が経過する毎に現状の困難に対して「乗り越えなければ!」なんて気持ちはどうしてもなくなっていきます。それに拍車をかけるのが、
・解決までのプロセスも、延々と聴聞に励んだり、おつとめを欠かさずしたり、善をしたりして信仰(?)を進めていかねばならないというもの。
・自分が横の線のどこまで進んでいるかということも全く分からない。
・自分より遥かに長く、懸命に活動していそうな講師部員、幹部会員でさえ救われていない様子。
というような問題でしょう。自分にこんな大目的が果たせるのか、臨終までに間に合うのか、今日死なねばならないとなったらどうするのか、このような課題に直面した時、もはや絶望するしかないのではないかと思います。それでも死ねば必堕無間だからと求めるが、求めるのも苦しい。今も苦しいし、未来も必堕無間の苦しみ。こんな苦しい中求めて、最後解決できずに終わったら、今死んだ方がマシだと自殺したくなったことが、私にも何度あったか分かりません。
「どれくらいの値打ちがあるだろう?
僕が今生きているこの世界に
すべてが無意味だって思える
ちょっと疲れてんのかなぁ」(Mr.Children HANABI)
という歌詞に共感し、涙を流した日々は簡単には忘れられません。
親鸞会の教えは、いわば求めれば求めるほど自殺したくなる教え、絶望するしかない教えです。当ブログでは教義の概要に何度も触れていますが、求めていく毎に様々なことを知らされ、知らされては求め、求めては知らされを延々と繰り返して、最後地獄のどん底に突き落とされないと阿弥陀さまに助けて頂けない教えです。そこまで辿り着いた人は、親鸞会の中では高森会長と、たまーに新聞に載る高齢の方が数名で、周囲には全く見かけませんでした。
このように書くと高森信心の方たちは決まって、「それはあなたの聞き誤りだ」と言いますが、果たしてそうでしょうか? 例えば、阿弥陀仏が「善をせよ」と勧めておられ、その通りに善を実行してゆかなければ、善のできない自分だと知らされない、救われない、ということならば、結局のところ「善をしなければ救われない」のではありませんか? 私は間違ったことを言っていますか?
親鸞会を非難するもの、親鸞会を去るものを全て聞き誤りの人達だと決めつけ、自分達は正しく聞いているつもりの会員の皆さんは、一刻も早く間違った浄土真宗を聞かされ、体よく利用されているという事実に気が付くべきです。そして、R1000さんが仰るように、救いに善も何も要らない、今の救いが平生業成、浄土真宗だということを知って頂きたいと思います。
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