「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽を獲たいというのは、「ご利益が欲しいという欲望から作った信心」に他ならない
昨日も富山では高森顕徹会長の話があったと教えて頂きました。
映画『なぜ生きる』の中の蓮如上人のお言葉
「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです」
とはどんなことでしょうか?
という質問に答えるという内容だったそうです。既に
高森顕徹会長の解釈は、教え以前に国語の問題で躓いている
で扱われています。本願文の若不生者の「生」について、今回も高森顕徹会長は従来の解釈を繰り返し、若不生者の「生」は私達の心を「信楽」の心に生まれさせると説明したそうです。これについては
「若不生者」の「生」とお聖教中の「生」との結び付け方が無理矢理な高森顕徹会長
でも触れていますし、改めて言うまでもないことですが親鸞聖人のなされなかった解釈です。これで「親鸞聖人の教えを正確に、迅速に・・・」などと言っているのですからギャグ漫画以外の何だと問いたいです。
さて、話の中で『帖外御文』にあるという、
「信心という二字をば、まことの心と読めるなり、まことの心と読む上は、凡夫自力の迷心に非ず。全く仏心なり」
という文章を出して話があったそうです。ただ、この文章は調べても親鸞会関係のサイトでしかヒットしませんでした。
ただ、『御文章』1帖目15通には、
信心といへる二字をば、まことのこころとよめるなり。まことのこころといふは、行者のわろき自力のこころにてはたすからず、如来の他力のよきこころにてたすかるがゆゑに、まことのこころとは申すなり。
とあり、覚如上人の書かれた最要鈔には、
この信心をば、まことのこゝろとよむうえは、凡夫の迷心にあらず、またくの仏心なり。
という御文がありますので、蓮如上人がそのような文章を書かれていたとしても不思議ではありません。が、ちょっとモヤモヤしますので、もしご存じの方は前後の文章を含めて教えて頂きたく思います。
1帖目15通のお言葉は様々な所で解説されていますが、今は下の文章を紹介します。
世間の人びとは、ご利益を求めて祈願祈祷することが信心だと思い、水垢離やお百度参り、跣参りに熱心です。自力の信心です。
これに対して真宗の信心は、他力の信心、詳しく言えば「他力回向の信心」、阿弥陀さまから頂いた信心ですから、「ご利益が欲しいという欲望から作った信心」ではなくて、仏の真実心(まことのこころ)が衆生の心に届けられてできた信心です。
そこを解説されたのが、この『御文章』です。
「信心という二文字は、信(まこと)の心と読めます。信の心というのは、衆生の悪い自力の心では助からず、如来の他力の良き心によって助かるので、信の心というのです。」と。
自力の信心と他力の信心の違いを鮮明にし、信心の実体を明示されました。
(御聖教の御文(43) まことのこころより)
真宗の信心は、穢れた凡夫の心で起こす信心ではなく、如来より回向せられる信心です。この信心が正因となって本願の実報土に往生させて頂くわけです。本願文で言えば、「我々に信楽を獲させ、その信楽を因として我国(浄土)に生まれさせる」ということです。これが、「我々に信楽を獲させ、その信楽を因として信楽(信心)に生まれさせる」では意味が判らないでしょう。飛雲さんの仰るように国語の問題でつまづいているのが高森顕徹会長です。
また高森顕徹会長は現世利益を強調したいがために、創価学会の言葉をもじって「絶対の幸福」になるだとか言っています。それを聞いて会員の皆さんはどうお思いでしょうか? 浄土往生も有難いが、それよりも今の、現実のこの苦しみを救うてもらいたい。今、絶対に崩れない壊れない、たとえ死が来ても崩れない絶対の幸福になりたいという気持ちが強くはないでしょうか? 否、むしろそれしかないのではないでしょうか? それはまさに上で紹介した文章中の、「ご利益が欲しいという欲望から作った信心」です。その信心でもって、正しい真宗の教えを説かず、私利私欲を満たすために法を説いている者から話を聞いていても、本願の信楽が獲られるわけがありません。
「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽を獲たいというのは、「ご利益が欲しいという欲望から作った信心」に他ならないことを知って、会員の皆さんはそんな目先の幻想的な楽を追い求めるのではなく、阿弥陀仏の崇高な願いを聞いて頂きたいものです。
映画『なぜ生きる』の中の蓮如上人のお言葉
「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです」
とはどんなことでしょうか?
という質問に答えるという内容だったそうです。既に
高森顕徹会長の解釈は、教え以前に国語の問題で躓いている
で扱われています。本願文の若不生者の「生」について、今回も高森顕徹会長は従来の解釈を繰り返し、若不生者の「生」は私達の心を「信楽」の心に生まれさせると説明したそうです。これについては
「若不生者」の「生」とお聖教中の「生」との結び付け方が無理矢理な高森顕徹会長
でも触れていますし、改めて言うまでもないことですが親鸞聖人のなされなかった解釈です。これで「親鸞聖人の教えを正確に、迅速に・・・」などと言っているのですからギャグ漫画以外の何だと問いたいです。
さて、話の中で『帖外御文』にあるという、
「信心という二字をば、まことの心と読めるなり、まことの心と読む上は、凡夫自力の迷心に非ず。全く仏心なり」
という文章を出して話があったそうです。ただ、この文章は調べても親鸞会関係のサイトでしかヒットしませんでした。
ただ、『御文章』1帖目15通には、
信心といへる二字をば、まことのこころとよめるなり。まことのこころといふは、行者のわろき自力のこころにてはたすからず、如来の他力のよきこころにてたすかるがゆゑに、まことのこころとは申すなり。
とあり、覚如上人の書かれた最要鈔には、
この信心をば、まことのこゝろとよむうえは、凡夫の迷心にあらず、またくの仏心なり。
という御文がありますので、蓮如上人がそのような文章を書かれていたとしても不思議ではありません。が、ちょっとモヤモヤしますので、もしご存じの方は前後の文章を含めて教えて頂きたく思います。
1帖目15通のお言葉は様々な所で解説されていますが、今は下の文章を紹介します。
世間の人びとは、ご利益を求めて祈願祈祷することが信心だと思い、水垢離やお百度参り、跣参りに熱心です。自力の信心です。
これに対して真宗の信心は、他力の信心、詳しく言えば「他力回向の信心」、阿弥陀さまから頂いた信心ですから、「ご利益が欲しいという欲望から作った信心」ではなくて、仏の真実心(まことのこころ)が衆生の心に届けられてできた信心です。
そこを解説されたのが、この『御文章』です。
「信心という二文字は、信(まこと)の心と読めます。信の心というのは、衆生の悪い自力の心では助からず、如来の他力の良き心によって助かるので、信の心というのです。」と。
自力の信心と他力の信心の違いを鮮明にし、信心の実体を明示されました。
(御聖教の御文(43) まことのこころより)
真宗の信心は、穢れた凡夫の心で起こす信心ではなく、如来より回向せられる信心です。この信心が正因となって本願の実報土に往生させて頂くわけです。本願文で言えば、「我々に信楽を獲させ、その信楽を因として我国(浄土)に生まれさせる」ということです。これが、「我々に信楽を獲させ、その信楽を因として信楽(信心)に生まれさせる」では意味が判らないでしょう。飛雲さんの仰るように国語の問題でつまづいているのが高森顕徹会長です。
また高森顕徹会長は現世利益を強調したいがために、創価学会の言葉をもじって「絶対の幸福」になるだとか言っています。それを聞いて会員の皆さんはどうお思いでしょうか? 浄土往生も有難いが、それよりも今の、現実のこの苦しみを救うてもらいたい。今、絶対に崩れない壊れない、たとえ死が来ても崩れない絶対の幸福になりたいという気持ちが強くはないでしょうか? 否、むしろそれしかないのではないでしょうか? それはまさに上で紹介した文章中の、「ご利益が欲しいという欲望から作った信心」です。その信心でもって、正しい真宗の教えを説かず、私利私欲を満たすために法を説いている者から話を聞いていても、本願の信楽が獲られるわけがありません。
「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽を獲たいというのは、「ご利益が欲しいという欲望から作った信心」に他ならないことを知って、会員の皆さんはそんな目先の幻想的な楽を追い求めるのではなく、阿弥陀仏の崇高な願いを聞いて頂きたいものです。
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