「聞く」に「聞いたことを実行する」ことを含めるなら「聞く一つ」ではないし、我々の側に「○○しなければならない」という条件は無いし、「聞く」内容に「因果の道理」「19願」「定散二善」「三願転入」などは無いし、実行するなら念仏一つであって雑行ではない

最近、長い時間、感覚としては8時間以上連続して寝ていると腰が痛くなります。若い頃はどれだけ寝ても痛くならなかったのに、つくづく老いたものです。起きると痛くて随分と不快な気分になりますが、道宗は48本の割り木を並べてその上に眠り、目が覚める度に合掌、念仏されていたというのですからとんでもない方ですね。

さて、『飛雲』レベルが下がり続けて、言っていることが訳判らなくなった高森顕徹会長にも上がっていますが、日曜日は高森顕徹会長の話がありました。本当に、毎回同じことの繰り返しのようで、今回も

映画『なぜ生きる』の中の蓮如上人のお言葉
「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです。」
とはどういうことでしょうか?


という質問に答えるものだったそうです。内容は上のリンク先をご覧頂くとして、当ブログでは別の角度から高森教の邪義を検証していきます。


まずは、高森会長は映画の蓮如上人に

『聞く一つで、大船に乗せる』

と言わせていますが、実際に親鸞会で聞いていきますと聞く一つで大船に乗れるというのは大ウソで、聞いたことを実行しなければ横の道を進んで助かるということは無いようです。「聞く」に「聞いたことを実行する」ことを含めるなら、当然「聞く一つ」ではありません。この二つは、当たり前ですが一つのことではないからです。

「聞く」と「聞いたことを実行する」二つで、大船に乗せる

と訂正すべきでしょう。

教えを聞くのを「教学」、聞いた教えを実行することを「行学」と呼び、「教学」と「行学」は車の両輪で、どちらか一方だけでは前に進まないというのは、特に幹部会員経験者なら耳タコと思います。しかし、本願に救われるに当たって、我々の側に「○○しなければならない」という条件はありません。

蓮如上人は『御文章』に数多く「やうもなく」「なにのやうもなく」と書かれていますが、阿弥陀仏に救われるに当たって、我々の側に「○○しなければならない」という条件は無い、一方的な本願力のはたらきかけによる救いだということです。

なにのやうもなく、一心一向に阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、後生たすけたまへと申さんひとをば、みなみな御たすけあるべしとおもひとりて、さらに疑のこころゆめゆめあるべからず。(5帖目3通)

何の造作も要らず、阿弥陀仏を一心に二心無く信じ、念仏以外の余善に心を散らさずして、後生をひとえに弥陀におまかせする人を、みなみな御たすけ下さることを説かれています。
元々、阿弥陀仏は普く一切の衆生を平等に救うために、その本願において一切の諸善を選び捨て、ただ念仏一行を選び取って本願の行とされたのでした。この念仏には五劫永劫の願行が成就されていますから、我々が南無阿弥陀仏のいわれを聞き受け念仏すれば自ずから功徳が行者の身に満ちるように仕上がっているのです。

ゆゑに知りぬ、念仏は易きがゆゑに一切に通ず。諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。『選択本願念仏集』難易義

造像起塔」「智慧高才」「多聞多見」「持戒持律」といった「自余の諸行」をする者を助ける本願としたなら、大多数の者は救いから落ちこぼれ、往生の望みを絶たねばなりません。同じように、「聞いて、聞いたことを実行」する者を助ける本願としたなら、実行する内容次第ではやはり大多数の者は救いから落ちこぼれ、往生の望みを絶たねばならなくなります。では親鸞会では何を実行せよと教えられるかと言えば、教義上

廃悪修善」「19願」「定散二善」「六度万行

などです。本願において選び捨てられた「自余の諸行」そのものです。これはあくまで教義上であって、実際に勧められるのは

高森会長の話を聞くこと
親鸞会に献金すること
親鸞会に人を誘うこと
会長や上司の指示に無条件で従うこと

が主ですから、善もどきの善です。このような悪行が本願の行に入らないのは言うまでもありません。


また、我々が聞くべき内容は

本願の名号」「即得往生住不退転の道理」「仏願の生起本末」「南無阿弥陀仏の六字のいはれ

ですが、親鸞会ではどうでしょうか? 言葉だけはこのようなことが出てきても、実際は

因果の道理」「19願」「定散二善」「三願転入

といったことで、横の道を進んで縦の線で救われるには「善をせよ」ということばかりではないでしょうか?


そして、敢えて「聞いたことを実行する」というなら往生行として念仏一行を専らにするというのが我々のすべきことですが、親鸞会ではどうでしょうか? 念仏は列記したような善もどきの善の影にすっかり隠れて、お勤めの時、聴聞の前後に辛うじて出てくる位ではないでしょうか? 

一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥時節の久近を問はず念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるがゆゑに。(観経疏)

と言われるように、「行住坐臥時節の久近を問はず」「一心にもつぱら」念仏しなさいと教えられています。しかし親鸞会の勧めは教義上でさえ「自余の諸行」、すなわち「雑行」です。これだけ違うのに「浄土真宗」の話だとか言っているんですから、こんな教えを聞いていて正しい信心が獲られる方がおかしいというものです。


「聞く」に「聞いたことを実行する」ことを含めるなら「聞く一つ」ではないし、我々の側に「○○しなければならない」という条件は無いし、「聞く」内容に「因果の道理」「19願」「定散二善」「三願転入」などは無いし、実行するなら念仏一つであって雑行ではありません。会員の皆さんには、このような浄土真宗からかけ離れた高森教とは一刻も早くおさらばし、本物の浄土真宗を聞くことをお勧めします。
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プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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