Abcさんからのコメントに返信
今回は、もしこの世の苦しみを何とかしようというのならこの世での成仏を目指すべきだし、信を獲たとて我々の罪が消えるわけではないので、当然その報いは信前と変わらず苦果として現れてくるの記事に頂いたAbcさんのコメントに返信します。
親鸞会会員と思しき名無しさんとしては、私が
「苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わる」などと説くことは、二種深信以外の要素、つまり三業で信心の有無を判定していることに他ならない
等と書いたことに反論を試みたいのでしょう。しかし彼らは、
「(信心獲得すると同時に)私達の苦しみの人生は幸せな人生にガラリと変わります」
と明言しているし、彼らが描いた蓮如上人は
「幸せな人生にガラリと変わっても必ずしも他力の信心を獲ているとは限りません」
とも言っていないので、「親鸞会は『幸せな人生にガラリと変わる』だとかいう二種深信以外の要素、つまり三業で信心の有無を判定している」と私は言いました。その反論を
真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。(信文類)
のお言葉を基に試みているだけです。本当に愚かな事だとお判りになると思います。
>「喜びが沸き上がらない」ということに関しましては、善信房と唯円房のやりとりのなかにありますので、そちらをご覧になられてください。
第九条ですね。「踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと」、「定聚の数に入ること」「真証の証に近づくこと」を喜ばないのは、「愛欲の広海」「名利の大山」といった煩悩のため
にて書かせて頂きました。信心を獲ても喜びの心はそれほどに湧き上がらず、早く浄土へ往きたいという心もない。ただ親鸞会では絶対の幸福だとかいう幻想的な楽をちらつかせて、幸せな人生にガラリと変わると会員に夢見させています。『歎異抄』のこうした話はされなくはないですが、会員としては絶対に変わらない崩れない安心、満足、喜びの境地に出る、いわゆる
「(信心獲得すると同時に)苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わる」
と信じていることでしょう。浄土往生はオマケで、これ目当てに聞いているのが本心という人は少なくないと思います。
自力、他力についての解説については
まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。(御消息第六通)
でしょうか。あくまで本願を聞いて疑い無いことを他力とか、本願に対する無疑心を真実信心と言われているので、我々の心に起こった喜びとか、変化をもって信心を語られていないことを親鸞会はよく知るべきですね。成就文でも、身も心も喜びに満ち溢れた「歓喜」ではなく、二心なき「信心」が真実報土の正因だと教えられているので、信心以外の要素で「信心獲得したらこう変わる」と話す際には十分注意しなければなりません。
アニメ『世界の光 親鸞聖人』第1巻の法然聖人のセリフ
「捨てようとする心も捨てよ!」
ですが、自力を捨てようとするのも自力なので、これはこれでいいです。が、その後親鸞聖人が「ハッ!」となって泣いて念仏する描写がいけません。あれと親鸞会教義を合わせて考えると、
・一度は地獄の釜底に堕ちて苦しい体験をし、そこから救い摂られるのだろう
・救われた瞬間(信一念)はあのようにハッキリ自覚する、自覚できるのだろう
・救われるとあのように感泣して念仏を称えるのだろう
という先入観が出来てしまいます。そして、そこまでは真剣必死な聞法求道をしなければならないと教えられ、会員の皆さんは他力信心とはまるで無関係な事に従事しているのです。
親鸞会ではこれまで批判に応じて説く内容を変えてきました。その結果ダブルスタンダードな教義となっています。それで批判者が一つを否定すると「そんな事は言っていない」と反論しにかかって来るということがしばしば起こります。会員は説く内容が変わるたびにそれまでの教義との整合性を図らねばならず、矛盾した教義を正しいと信ずるに無理な脳内変換をしております。しかし浄土真宗は矛盾する教義は特にありませんし、煎じ詰めれば「本願を信じ念仏すれば仏に成る」という極めて分かりやすい教えです。
こうした浄土真宗を捻じ曲げ、己の夢の実現、欲望の追求に利用する高森顕徹会長は本当に許せませんので、今後も誤った教義を批判していきたいと思っています。コメント、ありがとうございました。
親鸞会会員と思しき名無しさんとしては、私が
「苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わる」などと説くことは、二種深信以外の要素、つまり三業で信心の有無を判定していることに他ならない
等と書いたことに反論を試みたいのでしょう。しかし彼らは、
「(信心獲得すると同時に)私達の苦しみの人生は幸せな人生にガラリと変わります」
と明言しているし、彼らが描いた蓮如上人は
「幸せな人生にガラリと変わっても必ずしも他力の信心を獲ているとは限りません」
とも言っていないので、「親鸞会は『幸せな人生にガラリと変わる』だとかいう二種深信以外の要素、つまり三業で信心の有無を判定している」と私は言いました。その反論を
真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。(信文類)
のお言葉を基に試みているだけです。本当に愚かな事だとお判りになると思います。
>「喜びが沸き上がらない」ということに関しましては、善信房と唯円房のやりとりのなかにありますので、そちらをご覧になられてください。
第九条ですね。「踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと」、「定聚の数に入ること」「真証の証に近づくこと」を喜ばないのは、「愛欲の広海」「名利の大山」といった煩悩のため
にて書かせて頂きました。信心を獲ても喜びの心はそれほどに湧き上がらず、早く浄土へ往きたいという心もない。ただ親鸞会では絶対の幸福だとかいう幻想的な楽をちらつかせて、幸せな人生にガラリと変わると会員に夢見させています。『歎異抄』のこうした話はされなくはないですが、会員としては絶対に変わらない崩れない安心、満足、喜びの境地に出る、いわゆる
「(信心獲得すると同時に)苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わる」
と信じていることでしょう。浄土往生はオマケで、これ目当てに聞いているのが本心という人は少なくないと思います。
自力、他力についての解説については
まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。(御消息第六通)
でしょうか。あくまで本願を聞いて疑い無いことを他力とか、本願に対する無疑心を真実信心と言われているので、我々の心に起こった喜びとか、変化をもって信心を語られていないことを親鸞会はよく知るべきですね。成就文でも、身も心も喜びに満ち溢れた「歓喜」ではなく、二心なき「信心」が真実報土の正因だと教えられているので、信心以外の要素で「信心獲得したらこう変わる」と話す際には十分注意しなければなりません。
アニメ『世界の光 親鸞聖人』第1巻の法然聖人のセリフ
「捨てようとする心も捨てよ!」
ですが、自力を捨てようとするのも自力なので、これはこれでいいです。が、その後親鸞聖人が「ハッ!」となって泣いて念仏する描写がいけません。あれと親鸞会教義を合わせて考えると、
・一度は地獄の釜底に堕ちて苦しい体験をし、そこから救い摂られるのだろう
・救われた瞬間(信一念)はあのようにハッキリ自覚する、自覚できるのだろう
・救われるとあのように感泣して念仏を称えるのだろう
という先入観が出来てしまいます。そして、そこまでは真剣必死な聞法求道をしなければならないと教えられ、会員の皆さんは他力信心とはまるで無関係な事に従事しているのです。
親鸞会ではこれまで批判に応じて説く内容を変えてきました。その結果ダブルスタンダードな教義となっています。それで批判者が一つを否定すると「そんな事は言っていない」と反論しにかかって来るということがしばしば起こります。会員は説く内容が変わるたびにそれまでの教義との整合性を図らねばならず、矛盾した教義を正しいと信ずるに無理な脳内変換をしております。しかし浄土真宗は矛盾する教義は特にありませんし、煎じ詰めれば「本願を信じ念仏すれば仏に成る」という極めて分かりやすい教えです。
こうした浄土真宗を捻じ曲げ、己の夢の実現、欲望の追求に利用する高森顕徹会長は本当に許せませんので、今後も誤った教義を批判していきたいと思っています。コメント、ありがとうございました。
スポンサーサイト