親鸞会会員の誤解―方便だからやらなければならない(4)

定善の行、中でも第九真身観の観仏三昧行が成就したら、すなわち阿弥陀仏及び諸仏を見たてまつることができ、行者は勝れた利益を得ることができます。ところが『観経』流通分に至って釈尊は、観仏の法を嫌って阿難に授けず、念仏の法を選んで阿難に授けられています。

しかるをいま『観経』の流通分に至りて、釈迦如来、阿難に告命して往生の要法を付属流通せしむるちなみに、観仏の法を嫌ひてなほ阿難に付属せず、念仏の法を選びてすなはちもつて阿難に付属したまふ。観仏三昧の法、なほもつて付属したまはず。いかにいはんや日想・水想等の観においてをや。しかればすなはち十三定観は、みなもつて付属せざるところの行なり。しかるに世の人、もし観仏等を楽ひて念仏を修せざるは、これ遠く弥陀の本願を乖くのみにもあらず、またこれ近くは釈尊の付属に違ふ。行者よろしく商量すべし。念仏付属章

定善十三観は全て付属されなかった行であるから、もし観仏を行じて念仏しない者は遠く弥陀の本願に背くだけでなく、近くは釈尊の念仏一行を付属された本意にもたがうというのです。であるから、行を修める者はよく考えをめぐらすべきであると教えられています。
このことからも、定散二善を根拠に善を勧める親鸞会が、釈迦弥陀二尊の勧めに反することを教えていることは明白です。尤も、『観経』に忠実に定散二善を説いて勧めるならまだしも、言葉のみを利用し実際に主立って勧めていることは会への献金・勧誘、会長や上司への無条件服従ですから、親鸞会は浄土真宗どころか、浄土他流でもなく、単なる新興宗教であり外道なんですけどね。

次に、散善についても、これを修める行者はすなわち往生すると教えられています。ところが、定善に同じく散善十一行も付属流通されていません。釈尊はただ念仏一行を阿難に授けて後世に弘めようとされています。

つらつら経の意を尋ぬれば、この諸行をもつて付属流通せず。ただ念仏の一行をもつて、すなはち後世に付属流通せしむ。

この理由が、直後の以下のお言葉です。

知るべし、釈尊の諸行を付属したまはざる所以は、すなはちこれ弥陀の本願にあらざるゆゑなり。また念仏を付属する所以は、すなはちこれ弥陀の本願のゆゑなり。いままた善導和尚、諸行を廃して念仏に帰する所以は、すなはち弥陀の本願たる上、またこれ釈尊の付属の行なり。

釈尊が定善・散善の諸行を付属されなかったのは弥陀の本願ではないから、また念仏を付属されたのは弥陀の本願だからだというのです。善導大師が諸行を廃して念仏に帰依されたのも、それが弥陀の本願であり、釈尊付属の行だからだと知りなさいと教えられています。法然聖人が弥陀の本願ではないと断言されている定散二善を独自の善の勧めに利用しているのですから、親鸞会は浄土宗でも浄土真宗でもありません。団体名から「浄土真宗」「親鸞」を外し、高森教とでも名乗るのが相応しいと思います。

ゆゑに知りぬ、諸行は機にあらず時を失す。念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐せんや。まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。

「この故に知られる。念仏以外の諸善は根機に適せず、末法の今の時に合わない。 対して念仏往生は根機に適し今の時にかなって、 その承ける利益は決して空しくない。 そこでよく知るべきである、 他に随って説く場合には、 しばらく定散諸行の門を開かれるけれども、 仏自らの本意を説かれた上は、 かえって定散諸行の門は閉じられるのである。 一たび開かれて後、 永遠に閉じられないのは、 ただ念仏の一門のみである。 弥陀の本願や釈尊の付属の思し召しはここにある。 行者はまさに知るべきである」と仰っています。

この「随他」、「随自」というのが親鸞会会員の誤解―方便だからやらなければならない(1)で示したように

随他」=随他意の法門権仮方便
随自」=随自意の法門善巧方便

です。未熟な機を導くために暫く仮に開かれたが、ひとたび機が真実の法門に入ったならば不要となり還りて廃せられるのが定散諸行の法門です。私達は弥陀の本願が真実であると教えられ、弥陀の本願によって救われよう、救われたいと既に願っているわけですから、今さら定散諸善の法門からやらなければならない道理がないのです。『観経』十九願の教えを「浄土の要門」と言われ、これを親鸞会では重要な教え、必要な教え、必ず通らなければならないかなめの教え等と説明して邪義を吹き込んでいますが、

浄土の要門」=「浄土の雑行

ということですから、定散諸善を勧めることは雑行を勧めることに他なりません。私達は弥陀の本願にあらず、付属されなかった定散二善ではなく、弥陀の本願であり、ただ一行付属された念仏を往生の行として立てるべきなのです。これが遠くは弥陀の本願のお心に合いかない、近くは釈尊が念仏一行を付属された本意に沿うことにあり、また法然聖人・親鸞聖人方のお勧めに順うことになるのです。もしも修善が我々の獲信・往生に必要不可欠なら、釈尊が定散諸善を付属されないわけがないではありませんか。『選択本願念仏集』を読んで少し考えを巡らせばすぐに分かることです。であるから、高森会長が講師部員などに七祖聖教を読むことを禁じたのも至極当然なことです。騙しの手口が分かってしまいますからね。

言葉だけ見れば「善の勧め」とは良い事のように思えますが、それは釈迦・弥陀・善知識の善巧方便に背くことであり、実態は現世利益をちらつかせて組織拡大に都合の良いことを勧めているだけだということに、会員の皆さんは早く気が付いて下さい。



【参照】
選択集(現代語版)
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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