「助けるぞよ」の勅命が、この私一人に向けられている真実のお言葉であると受け容れたかどうか

『琴の糸』意外な結末に終わる のmashuさんのコメントより。

********************
「救われましたか?」「はい、救われました」というのに違和感を感じます。

「お救いの中にいる」という言い方だと、それほど違和感はありませんが。

********************

たしかに・・・。

私は、「救われましたか?」と聞かれれば

「後生の一大事助けられました」「阿弥陀仏にすべておまかせしました」

という意味で「はい、救われました」と答えますが、やっぱりちょっと違和感がありますね。「救い」と聞くと病気や怪我、災害などから命を救われること、あるいは心が重く沈んで苦しかった状態から幸福感で満たされた状態に変化することなどを想像するでしょうが、「阿弥陀仏の救い」は私達を浄土往生させ、仏に成すことであって、私達の想像している「救い」とは全く異なると思います。特に親鸞会で聞いてきた私は、実際の「阿弥陀仏の救い」と信前に抱いていた「阿弥陀仏の救い」に対するイメージとはまるで違いました。高森顕徹会長から長いこと聞いてきた者は、特に「阿弥陀仏の救い」について間違ったイメージを強く持っている場合が多く、実際に如来の願心を聞き受けても始めは混乱するのではないかと思います。この前、それについてこの記事にて述べさせて頂きました。

これが「お救いの中にいる」だとしっくりきますね。阿弥陀仏は五劫永劫の願行を成就され、南無阿弥陀仏と成りましまして既に私の元へ届いています。いつでも、どこにいても、絶えず「助けるぞよ」とお喚びづめです。「お救いの中にいる」のです。これは信前だろうと信後だろうと変わりません。変わるのは、「助けるぞよ」の勅命が、この私一人に向けられている真実のお言葉であると受け容れたかどうかです。本願の名号、なんまんだぶを聞いて疑いないのを「」といい、それを「信心」というのですから、世間的な意味の救い、また我々が今まで経験したことから想像している救いとはどうしたって異なるのです。

親鸞会では何が「」か、何が「信心」かということが正しく説かれません。それどころか、「」、「信心」に至るまでの道程を横の道として設け、善知識方が示されてもいない救済の方法論をでっち上げて会員の獲信・往生を妨げています。何かハッキリした自覚や、飛び上がるような喜びを想像してそれを追い求めているような人も少なくないかと思いますが、そんな自分の思いを優先して如来の願心を聞かない、お念仏申さないようでは情けないです。私の「こうなりたい」「ああなりたい」は私の欲望であって、それをかなえる本願ではありません。それにそれがかなったところで欲望はキリがなく、いつまでも満たされないことを如来はとうに知り尽くして、そのような私を救うべく南無阿弥陀仏と成りましました。私はそのような本願のお心を、己を空しくしてただ聞き受けるばかりです。どうか本願の仰せを首を垂れて聞き受け、念仏して浄土往生の本懐を遂げて頂きたいばかりです。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
スポンサーサイト
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード