ブログ「あなたの白道」(嶋田久義元講師)の案内                               及び 成就文から念仏も死後のことも取り去ってニセモノの本願を説く高森顕徹会長

『私の白道』で知られる嶋田久義元講師が新たなブログを書かれていますので以下に紹介します。

『あなたの白道』

当ブログのリンク先(右下)にも追加しています。関心のある方はどうぞご覧下さい。



さて、前回の続きです。まずは聖人のお言葉を今一度挙げます。

『無量寿経』(下)のなかに、あるいは「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」と説きたまへり。「諸有衆生」といふは、十方のよろづの衆生と申すこころなり。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。

「歓喜」といふは、「歓」は身をよろこばしむるなり、「喜」はこころによろこばしむるなり、うべきことをえてんずと、かねてさきよりよろこぶこころなり。「乃至」は、おほきをもすくなきをも、ひさしきをもちかきをも、さきをものちをも、みなかねをさむることばなり。

「一念」といふは、信心をうるときのきはまりをあらはすことばなり。「至心回向」といふは、「至心」は真実といふことばなり、真実は阿弥陀如来の御こころなり。「回向」は、本願の名号をもつて十方の衆生にあたへたまふ御のりなり。「願生彼国」といふは、「願生」は、よろづの衆生、本願の報土へ生れんとねがへとなり。「彼国」はかのくにといふ、安楽国ををしへたまへるなり。「即得往生」といふは、「即」はすなはちといふ、ときをへず、日をもへだてぬなり。

また「即」はつくといふ、その位に定まりつくといふことばなり。「得」はうべきことをえたりといふ。真実信心をうれば、すなはち無碍光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚の位につき定まるを「往生を得」とはのたまへるなり。
一念多念証文


今回は「乃至一念」からでありますが、それについては、

「乃至」は、おほきをもすくなきをも、ひさしきをもちかきをも、さきをものちをも、みなかねをさむることばなり。 「一念」といふは、信心をうるときのきはまりをあらはすことばなり。

とお示しです。「乃至」とは、数が多いとか少ないとか、時間が長いとか短いとか、次第の前とか後とか、そういったもののすべてが包摂されている言葉だというのです。この「乃至」からは、念仏は百遍でも十遍でも一遍でも、あるいは一遍も無くてただ本願の名号を聞くだけでも往生が可能であるように成就されているのが本願名号の救いであるということと、信一念より命終わるまで念仏の行者は一生涯に亘って念仏を相続していくということの、二つの方向が含まれていることが伺えます。

一念」については、『一念多念証文』では「信心をうるときのきはまりをあらはすことば」であるとされ、信心がおこる時の極限を顕した言葉であるといわれています。いわゆる「信の一念」、「信楽開発の時剋の極促を顕」されたお言葉ですが、では本願成就文の「一念」には「信の一念」の時剋釈のみで「行の一念」、すなわち念仏は無いのかと言ったら「称名の一念」の意味があると存覚上人は仰せです。詳しくは

『飛雲』念仏往生の願の成就文に「念仏の意味はない」としか考えられない浅はかな高森顕徹会長

をご覧下さい。本願を「念仏往生の願」と言われるからには、その「念仏往生の願」成就の文には当然念仏があるのです。その当然あるはずの念仏を成就文から除いて、訳の分からない「信心」を教えているのが高森顕徹会長です。恥ずかしいことに高森会長は『教学聖典(3)』にて

問 阿弥陀如来の本願でハッキリせぬ四つのことが、釈尊の『本願成就文』でどのようにハッキリするかを示せ。
答 (中略)
  ○信心が正因か念仏が正因か判らぬ ― 念仏がないから信心一つ

という珍回答を載せています。はぁ? 「念仏がない」だぁ? こうして念仏が除かれ、訳の分からない「信心」が独り歩きして、「地獄一定と極楽一定が同時にハッキリしたことだ」とか、「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽が獲られたことのように誤解している会員の皆さんがほとんどかと思われますが、飛雲さんの言葉を借りれば「生死出離の強縁ひとへに念仏往生の一道にあるべし」が信心です。念仏と離れた「信心」は浄土真宗の信心ではありません。「信心正因」「信心為本」「唯信独達」とは言っていても、肝心の「信心」が何なのか全くもって知らないのが高森顕徹会長と愉快な仲間達です。


次に、先日の講師部講義でチラッと出てきた「至心回向」についてですが、親鸞聖人は

「至心回向」といふは、「至心」は真実といふことばなり、真実は阿弥陀如来の御こころなり。「回向」は、本願の名号をもつて十方の衆生にあたへたまふ御のりなり。

と仰せです。阿弥陀如来が、真実の御心をもって、「本願の名号」すなわち南無阿弥陀仏を十方衆生に与えて下されるというのです。高森会長は「何を」与えて下されると言ったのか、或いは「何を」の部分は話をしなかったのか、頂いた情報のみからは分かりかねますが、南無阿弥陀仏を頂くのです。それが心に頂かれたのを「信心」といい、口に出れば「念仏」といいます。「信心」も「念仏」も体は同じ、南無阿弥陀仏の名号であります。であるから、往生のみちは「ただ念仏して」と言われるのです。これに「信心」という言葉を付け加えるなら、「ただ『念仏一つで助かる』という信心で念仏して」となります。もう一度言いますが、念仏と離れた「信心」は浄土真宗の信心ではありません。


それから「願生彼国」にも触れておきましょう。これについては、

「願生彼国」といふは、「願生」は、よろづの衆生、本願の報土へ生れんとねがへとなり。「彼国」はかのくにといふ、安楽国ををしへたまへるなり。

とお示しです。かつて本願文の「若不生者」についての法論がなされていたおよそ9年前、教学講義にて「若不生者」の「」は「「信楽」に生まれさせることだ」とこだわる高森顕徹会長はこのように明言しました。

成就文には死後のことは説かれていないから、本願文に死後のことが説かれているはずがない

と。じゃあ「本願の報土へ生れ」るのはいつですか? 当然死後です。死後の「本願の報土へ生れんとねがへ」と仰せです。現生では必ず「本願の報土へ生れ」る位に定まり、臨終一念の夕べに「本願の報土へ生れ」るのです。ちゃんと「死後の往生を願え」と死後のことが説かれているじゃないですか。成就文に死後のことが説かれているから、本願文にも当然死後の往生が説かれています。それを親鸞聖人は

「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。(尊号真像銘文)

と仰っているのです。そもそも「往生」の語源は法然聖人の「捨此往彼 蓮華化生」(『往生要集大綱』)の語に由来し、その往と生で「往生」ですから、「生きているときの往生」などと言ったりはしないのです。「即得往生」の語は、「正定聚の位につき定ま」ったことをいうので、これを「生きているときの往生」などとは言いません。「不体失往生」にしても、平生に必ず往生すべき位に定まったことを「体失せずして往生す」と言われているのです。別に「生きているときの往生」と「死んでからの往生」と二つの「往生」があるのではありません。

生きているときの往生」=「不体失往生
死んでからの往生」=「体失往生

と親鸞会では捉えているでしょうが全く違います。『口伝鈔』一 体失・不体失の往生の事をよくお読み下さい。往生はあくまで死んでからです。その往生すべき位に定まるのが平生か臨終かというのが体失・不体失往生の諍論です。書かれているお二方の主張は以下の通りです。

親鸞聖人 ― 往生が平生に定まる ― 念仏往生の機 ― 18願 ― 不体失往生
証空上人 ― 往生が臨終に定まる ― 諸行往生の機 ― 19願 ― 体失往生


生きているときの往生」などというのは語義からの逸脱であり、高森顕徹会長の無知も甚だしいです。


このように成就文から念仏も死後のことも取り去ってしまうから、会員は念仏を軽視して信心のオマケのように思い、浄土往生ではなく「夢・幻のような現世の幸せ」を願ってしまうのでしょう。死後の浄土も結構だが、それよりも今のこの苦しみを何とかしてもらいたい、「絶対の幸福になりたい」「幸せな人生にガラリと変わりたい」が本音ではありませんか? そしてそのために推進される活動な活動に励んでいるのはありませんか? そんなだから、阿弥陀仏が遠く感じられてしまうのです。阿弥陀仏のねらいは私を浄土往生させることにあり、そのために本願を信じさせ、念仏を称えさせようとしているのです。試しに浄土往生を願って、様々な活動を止めて念仏一行を称えてごらんなさい。今まで遠かった阿弥陀仏が、近く感じられませんか?

親鸞聖人は念仏と諸善を様々に比較されていますが、その中で

親疎対、念仏は仏に親しく馴染み深いが、諸善は疎遠である。
近遠対、念仏は仏に近く、諸善は遠く離れている。


と教えられています。親鸞会の活動が諸善の中に入るとしても、それは雑行であり、阿弥陀仏から疎遠であり遠く離れた行であって、そんな雑行を修める者を阿弥陀仏の光明は摂め取っては下さいません。浄土真実の行である念仏一行を、本願を疑い無く聞き受けて称える者を、阿弥陀仏は必ず摂め取って決してお捨てにならないのです。会員の皆さんには、早く念仏と死後のことが抜けたニセモノの成就文、及び念仏の抜け落ちた訳の分からない信心を獲させるニセモノの本願を説く邪義と決別して本願を計らい無く聞き受け、本願の名号を専ら修めて往生を願う念仏の行者となって頂きたいものです。

以上、簡単ではありますが、成就文を介して本願のお心を伺いました。あらゆる人々が、諸仏が褒め称える南無阿弥陀仏の名号を聞いて、信じ喜ぶ心がおこるとき、それは阿弥陀如来が真実の心をもってお与えになったものであるから、本願の報土に生まれたいと願うその時に往生が定まり、正定聚不退転の位に住する。これが本願の救いだと明らかにされたのが釈尊であり親鸞聖人です。私達はこうした浄土真宗を計らいなく聞いて念仏申すのみです。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。


【参照】及び【参考文献】
一念多念証文(現代語訳)
『WikiArc』トーク;一念多念証文
親鸞聖人における現生正定聚の意義
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プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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