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親鸞会会員の誤解―活動しなければ救われない(7)

『飛雲』釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途をむなしくする高森顕徹会長と親鸞会

に挙がっていますが、昨日の講師部講義にて高森顕徹会長は、

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。(『信文類』)

のお言葉を出し、「阿弥陀仏がどんな者のために、どのようにするとお約束されているか」という話から

真実の自己を知る、それが究極の目的
真実の自己を「機の真実」と言い、それは五逆、謗法、闡提
真実の自己をハッキリ知らされるところまで聞き抜く、これが「聞」

などと説明したそうです。以前からの繰り返しで、「仏願の生起」の部分に邪義を織り交ぜた話に終始し、「仏願の本末」の部分はありません。「南無阿弥陀仏の六字のこころ」とは縁の無い話ばかりです。それでいて、

「・・・するところまで」聞き抜く

と教え、聞き抜くまでは「因果の道理」「廃悪修善」「宿善を求めよ、厚くせよ」等とこれまた「南無阿弥陀仏の六字のこころ」とは縁の無い教えを吹き込んで、会員を組織拡大活動に利用し搾取し続けるのでしょう。何とか親鸞会教義の誤りと、本当の浄土真宗を分かってもらいたいのですが、こればかりは「まことに宿善まかせ」です。早く18願の法を信じる因縁が熟することを願うばかりです。



さて、本日は高森顕徹会長が「宿善を求めよ、厚くせよ」というデタラメ教義の根拠に利用している五重の義について見ていきたいと思います。まずは、五重の義について書かれている『御文章』2帖目11通全文です。

 それ、当流親鸞聖人の勧化のおもむき、近年諸国において種々不同なり。

これおほきにあさましき次第なり。そのゆゑは、まづ当流には、他力の信心をもつて凡夫の往生を先とせられたるところに、その信心のかたをばおしのけて沙汰せずして、そのすすむることばにいはく、「十劫正覚のはじめよりわれらが往生を弥陀如来の定めましましたまへることをわすれぬがすなはち信心のすがたなり」といへり。

これさらに、弥陀に帰命して他力の信心をえたる分はなし。さればいかに十劫正覚のはじめよりわれらが往生を定めたまへることをしりたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心のいはれをよくしらずは、極楽には往生すべからざるなり。またあるひとのことばにいはく、「たとひ弥陀に帰命すといふとも善知識なくはいたづらごとなり、このゆゑにわれらにおいては善知識ばかりをたのむべし」と[云々]。これもうつくしく当流の信心をえざる人なりときこえたり。そもそも善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。これによりて五重の義をたてたり。

一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。されば善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり。しかれども帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、おほきなるあやまりなりとこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

  [文明六年五月二十日]


このお手紙では、最初に「当流親鸞聖人の勧化のおもむき」が「近年諸国において種々不同なり」と注意されています。親鸞聖人の教えを勧化、つまりお伝えする時に、その内容が様々に違っているというのです。

それで、蓮如上人は「十劫安心」と「知識帰命」の2つの邪義を取り上げられ、このどちらも誤りであるとお諭しです。「十劫安心」については安心論題/五重義相の第四段を、「知識帰命」については第五段をご覧下さい。

蓮如上人は「われらが往生すべき他力の信心のいはれをよく」知って、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」「阿弥陀仏に帰命せよ」と教えられています。そのように教える方が「善知識」であり、その「善知識」には「宿善開発」して遇うというのです。このように「宿善」があって「善知識」に遇い、「光明」の御はたらきによって「信心」を獲得し、御恩報尽の「名号」を称える。これを「五重の義」と示されています。

ここでまず注意すべきは、「宿善」の順番です。

・「宿善」があって「善知識」に遇う

ですから、ここでの「宿善」とは覚如上人が仰る

善知識に遇う因縁、18願の法を信じる因縁

と見るのが妥当です。「宿世の善根」「前世に浄土を欣い求めて、阿弥陀仏を念じていたこと」の意味を含められなくもないですが、あくまで「宿世」「前世」です。もし「宿善」を「今生」において、しかも「善知識」に遇ってから「信心」獲得までの間にどうにかしなければならないものなら、「善知識」の後に重ねて「宿善」がなければなりません。ところが、「善知識」の後には「光明」、「信心」、「名号」の順に続き、「宿善」は有りません。つまり、「善知識」にお遇いしてから「信心」獲得するまでの間には「宿善」云々という教義は存在しないのです。

これから信心獲得しようとする者が、未来の救いに遇うために修めていく善根功徳

親鸞会では「宿善」にこんな意味を持たせていますが、蓮如上人が言われる「宿善」にはこのような意味はありません。それが証拠に、蓮如上人は「獲信の因縁(宿善)として聞法や破邪顕正等の善を修せよ」とはただの一箇所も教えられておりません。もし親鸞会が自らの教義の正当性を主張するなら、「獲信の因縁(宿善)として聞法や破邪顕正等の善を修せよ」と教えられた根拠を示すべきです。それができなければ、親鸞会の教義は浄土真宗にあらざる邪義、異義であります。「浄土真宗」とか「親鸞」の名を団体名から外し、高森教とでも名乗るべきでしょう。


次に、「善知識」はどのようなことを勧めるかについてです。「善知識」とは「獲信の因縁(宿善)として聞法や破邪顕正等の善を修せよ」などと勧める方なのかどうか。それについて蓮如上人は、

そもそも善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。
されば善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。

と仰っています。「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」「阿弥陀仏に帰命せよ」と教える方が「善知識」だというのです。

高森先生は「阿弥陀仏一仏に向け」「阿弥陀仏のみを信じよ」と教えられているではないか!

と会員の皆さんは思うかも知れませんが、そういう方は「一心一向に弥陀に帰命」するとはどういうことかがよく理解できていないと伺えます。「一心一向に弥陀に帰命」とは、親鸞会でもよく出てくる「一向専念無量寿仏」のことですが、これについて法然聖人は次のように教えられています。

しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。「一向」は二向・三向等に対する言なり。例するにかの五竺(印度)に三寺あるがごとし。一は一向大乗寺、この寺のなかには小乗を学することなし。二は一向小乗寺、この寺のなかには大乗を学することなし。三は大小兼行寺、この寺のなかには大小兼ね学す。ゆゑに兼行寺といふ。まさに知るべし、大小の両寺には一向の言あり。兼行の寺には一向の言なし。いまこの『経』(同・下)のなかの一向もまたしかなり。もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。もし寺に准ぜば兼行といふべし。すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。(選択本願念仏集)

往生行として諸善を廃してただ念仏一行を立てるのが「一向」です。

一心一向に弥陀に帰命」=「一向専念無量寿仏」=「念仏一行

ということです。もし念仏の他にまた布施や持戒等の諸善を加えたら、もはや「一向」ではないのです。それを三寺の例で言えば「兼行」ということです。では高森顕徹会長は、会員の皆さんに何を勧めているでしょうか。

そうです。教義上では十九願の「諸功徳」、『観経』の「定散二善」、また菩薩の修行内容である「六度万行」です。つまり「雑行」です。「念仏」の勧めは無いも同然ですが、有りとしても「念仏」と「雑行」の「兼行」です。これだけでも「一向専念無量寿仏」とは如何にかけ離れた教えかが判るでしょう。

これが如実の善なら化土往生の道くらいは開かれるかも知れませんが、実態は酷いものです。「デタラメ教義の聴聞・教学」に始まり、「お布施」という名の「献金(金集め)」、「破邪顕正」という名の「勧誘(人集め)」、また「高森顕徹会長及び上司への無条件服従」が主な会員の活動です。「勤行」「親孝行」「親切」「言行一致」といった勧めも無くはありませんが、高森顕徹会長からしてまともに実践しているとは言い難い現実があります。過去に、高森顕徹会長が導師を務めた勤行において御和讃を一つすっ飛ばしたり、『飛雲』からの公開法論の申し込みを5年以上無視し続けたり・・・。会員の方もデタラメ教義に染まっていますから『正信偈』や『御和讃』、『御文章』の内容など分かるはずもなく、勤行をキチンとやらないと助からない、親鸞学徒ではないなどと言われるからやっているだけの人が多いと見受けられます。

諸功徳」「定散二善」「六度万行」等いわゆる「諸善万行」は「雑行」であり、真宗においては「捨てて」としか言われない行です。「雑行をなげすてて」等と言われるのは、我々の報土往生には「雑行」は役に立たないどころか、これに執心している内は「一向専念無量寿仏」できないからです。まして「雑行」とも言い難い上述のような「雑行もどき」、すなわち「高森教の組織拡大活動」に執心してこれを修める者が「一向専念無量寿仏」できないのは小学生でも容易に理解できる道理です。ところが脳が高森教に浸食されていますと思考能力が失われてしまうらしく、東大クラスの頭脳の持ち主さえ

無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。(『なぜ生きる2』)

などという詭弁に簡単に騙されて利用・搾取されてしまうのです。「念仏一行」、すなわち「一向専念無量寿仏」を否定しておいて「一心一向に弥陀に帰命」せよとは訳が分からないでしょう? このように、本当の意味で「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」とは教えられていないということが分かれば、高森顕徹会長が正しい仏教を伝えるという「善知識」かどうかなど論じるまでもなく、一刻も早くこのような人物から離れた方が良いということに気が付けると思います。


ところで、参考文献として挙げている「安心論題」に、以下のような記述があります。

しかし、偽り邪な善知識の場合が問題であります。現実には「帰するところの弥陀をすてて」とまではいかないにしても、人々を説得し心服させる才能にたけた者が指導者となり、指導される人々はその人を阿弥陀仏と同等に生き仏として無条件に帰依尊崇するということになれば、どのような事態になるか。実に危険きわまりないものといわねばなりません。

親鸞会の事を言い得て妙だと言わざるを得ない内容です。

会長先生のご指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します。
上司の指示は会長先生の命と心得ます。


講師部聖則」なるものを作って、朝晩講師部員や学院生にこんな唱和をさせているのはどこの誰でしょうか? また、「尊き生き仏様会長先生」などと書いてある手紙をまとめた『絶対の幸福』なる書物を出版し、会員に読ませているのはどこの誰でしょうか? 会員の皆さんには、「高森教の組織拡大活動」という悪を止め、そんな悪を勧める人の手から離れて、本当の意味で「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と教える「善知識」にお遇いして法をお聞かせ頂き、本願を信じ念仏して往生を遂げる身となって頂きたいと思います。


【参考文献】
安心論題/五重義相
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プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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