親鸞会会員の誤解―活動しなければ救われない(3)

今週19日は大阪会館落慶の座談会が富山であるそうです。大阪の会員が財施して建てた大阪の会館なのになぜ富山で座談会なのかというと、会長の体調が思わしくなく、大阪に行けないからだというのです。ならば、回復してから改めて大阪へ行って話をすればよいのにとか、高齢で不調の会長に代わって、布教局長(?)である息子なり何なりが出向けばよいのにとか思いますが(いや、息子では話にならんか・・・。それに迎える側の支部長や会員も迷惑だろうな・・・)、とにかく高森顕徹会長あっての仏法、親鸞会という思考が会員にあるため、富山での座談会に変更になっても疑問にも思わないのかも知れません。


さて、Abc様から「宿縁」の捉え方について「すこし異なっているのではないか」ということでコメントを頂きました。そこで今回は、そもそもの「宿善」という言葉の意味について見ていきたいと思います。この「宿善」という言葉は文脈によって様々に意味が別れるところです。そして、使う人や時代によって段々と意味が変わってくるというところが厄介です。

①宿世の善根
能臨終遇善知識十念成就者、皆是宿善業強、始得遇善知識十念成就。(浄土十疑論)

『浄土十疑論』という書物は天台大師智顗が著したようです。過去現在善をやったこともなく、五逆・十悪を造っている悪人が、平生に仏法をきくこともなく、臨終になって初めて仏法を聞きたいと言う気持ちになり、善知識から勧められたのは念仏1つで、勧められるまま念仏を十回称えて往生する、という信じられない『観無量寿経』下品下生の教説について、天台大師はこのように解釈しています。「臨終に善知識に遇って十回の念仏で往生を遂げる五逆罪を犯した者は、宿世に善を行ってきた宿善業の強い人であったので、往生できるのだ」というのです。

この解釈が聖覚法印のおられた当時は一般的だったのか、『唯信鈔』には以下の問答があります。

 つぎにまた人のいはく、「五逆の罪人、十念によりて往生すといふは、宿善によるなり。われら宿善をそなへたらんことかたし。いかでか往生することを得んや」と。
 これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。そのゆゑは、宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。


この段ではさかんに「宿善」の語が使われております。
ちなみに、この問い自体が「痴闇にまどへるゆゑ」のものだと言われています。つまり、聖道門的発想の宿善論で我々の往生の得否を考えることが間違いであるというのです。更に言えば、宿善の厚薄を問題にすることが間違いであるということです。となると、盗人である耳四郎や、大勢の者を殺した熊谷次郎直実などが早く救われたのは、(宿世に善を行ってきた)宿善の厚い人だったからだ、という親鸞会の説はどうなのでしょうか? とにかく分かるのは、親鸞会の説は聖道門的発想そのものだということです。


②前世に浄土を欣い求めて、阿弥陀仏を念じていたこと
かの一生に悪業を作りて、臨終に善友に遇ひて、わづかに十たび仏を念じて、すなはち往生することを得。かくのごとき等の類は、多くこれ前世に、浄土を欣求してかの仏を念ぜるものの、宿善うちに熟していま開発するのみ。 ゆゑに『十疑』にいはく、「臨終に善知識に遇ひて十念成就するものは、ならびにこれ宿善強くして、善知識を得て十念成就するなり」と。(往生要集)

【現代語訳】
かの一生涯の悪業を作ったものでも、臨終に善知識に遇い、わずかに十たび念仏して、ただちに往生することができる。このような人たちは、多くは前世に浄土を欣い求めて、かの阿弥陀仏を念じていた者で、その宿善が内に熟して、いま開発したのに外ならぬ。それ故に《十疑論》にいわれている。臨終に、善知識に遇うて、十念が成就する者は、みな宿善が強いので、始めて善知識に遇うことができて、十念が成就するのである。

源信僧都は、『浄土十疑論』を引用しながら意味を変えられ、「宿善」を

前世に、浄土を欣求してかの仏を念ぜる

と定義されています。これは『大無量寿経』に

もし人、善本なければ、この経を聞くことを得ず。

とあることや、『定善義』

この人は過去にすでにかつてこの法を修習して、いまかさねて聞くことを得てすなはち歓喜を生じ、正念に修行してかならず生ずることを得

と説かれているのも同様のことです。


③善知識に遇う因縁、18願の法を信じる因縁
覚如上人に至って「宿善」の意味合いが随分と変わってきています。①や②の意味で使われている箇所もありますが、覚如上人、蓮如上人が言われる「宿善」は大体この意味です。

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。
しかるに宿善開発する機のしるしには、善知識にあうて開悟せらるるとき、一念〔も〕疑惑を生ぜざるなり。
(口伝鈔)

かつはまた宿善のある機は正法をのぶる善知識に親しむべきによりて、まねかざれどもひとを迷はすまじき法灯にはかならずむつぶべきいはれなり。宿善なき機は、まねかざれどもおのづから悪知識にちかづきて善知識にはとほざかるべきいはれなれば、むつびらるるもとほざかるも、かつは知識の瑕瑾もあらはれしられぬべし。所化の運否、宿善の有無も、もつとも能・所ともに恥づべきものをや。(改邪鈔)

宿善あつきもの」「宿善のある機」は善知識に遇って18願の法を聞くことができますが、「宿福なきもの」「宿善なき機」は善知識から遠ざかって悪知識に近付いて18願の法を聞くことができないと教えられています。こうした覚如上人の宿善観を承けて、蓮如上人はしばしば『御文章』に「宿善・無宿善の機を沙汰すべし」と教えられています。

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。このおもむきをくはしく存知して、ひとをば勧化すべし。
(『御文章』3帖目12通)

正雑二行の沙汰をするときは」、「宿善・無宿善の道理を分別」して、「宿善の機」に「当流の法をばあたふべし」と仰っています。「往生には諸善を捨てて、念仏一行を専らにせよ」という18願の法を話す時は、それを聞いて信じる人か、疑い謗る人かをよく見定めて、信じる人に法を説きなさいというのです。法然聖人や親鸞聖人もこうした「専修念仏」の教えを説いたために、権力者の横暴によって流刑に遭われています。蓮如上人も幾度となく法難に遭われました。当時は今と違って信教の自由も保証されておらず、また治安も悪く、他宗の者からの寺の焼き討ちや門徒への暴力も平気でまかり通っていたようです。それで、蓮如上人は門徒の方々の生活を守りつつ、教えを伝え弘めるためにこのような掟を作られたのでしょう。


④信心獲得すること、如来のお育てのはたらき
一 他宗には法にあひたるを宿縁といふ。当流には信をとることを宿善といふ。信心をうること肝要なり。さればこの御をしへには群機をもらさぬゆゑに、弥陀の教をば弘教ともいふなり。(『御一代記聞書』234)
他宗では、仏法にあうことを宿縁によるという。浄土真宗では、信心を得ることを宿善が開けたという。信心を得ることが何より大切なのである。阿弥陀仏の教えは、あらゆる人々をもらさず救うので、弘教すなわち広大な教えともいうのである。

ここでは信心獲得することを「宿善」と言われています。あるいは、このお言葉と合わせて、直前の

一 蓮如上人仰せられ候ふ。宿善めでたしといふはわろし。御一流には宿善ありがたしと申すがよく候ふよし仰せられ候ふ。(『御一代記聞書』233)

のお言葉から、「宿善」を「如来のお育てのはたらき」であると釈する方もあります。梯實円和上はこれを、

「宿善めでたし」というのは、自分が善根を積んだからこそ、こうして法に逢うことが出来たと、宿善を自分の功績として誇っているから自力の宿善観になります。しかし「宿善ありがたし」というのは、自力の修行をしたことも含めて、すべては阿弥陀如来のお育てのたまものであったと味わう表現ですから、浄土真宗の宿善観として最もふさわしいといわれたものです。
 ともあれ宿善とは、自分がいま思いがけなく尊いみ教えに逢い、救われた慶びと感動を、遠い過去に遡って表現している言葉であって、宿善を積み重ねることによって教えに逢おうとするような次元の教説では決してなかったのです。


と解説されています。


このように、同じ「宿善」という言葉でも文脈によって意味を判断しなければなりません。一概に「宿世の善根」とは言えないことがお分かりでしょう。そして大事なのは、

宿善とは、自分がいま思いがけなく尊いみ教えに逢い、救われた慶びと感動を、遠い過去に遡って表現している言葉

であるということです。信心獲得の現在から過去を振り返って、阿弥陀仏のお育てのはたらきを慶ぶのであって、これから信心獲得しようとする者が、未来の救いに遇うために修めていく善根功徳ではないことに注意すべきです。この点、高森流の「宿善」の意味は、①、②に加えて

⑤これから信心獲得しようとする者が、未来の救いに遇うために修めていく善根功徳

だと言えましょう。

法然聖人までは、おおよそ①あるいは②の意味で「宿善」の語を用いられております。宗祖親鸞聖人は、引文以外では「宿善」の語を用いられておりません。そこから覚如上人が③のように大幅に意味を変えられて、それが蓮如上人へと引き継がれていった形となっています。ただ、どなたとして、

⑤これから信心獲得しようとする者が、未来の救いに遇うために修めていく善根功徳

の意味で教えられた方はおりません。ですから、高森顕徹会長が

同会の質問に対して、逆に私の方から「破邪顕正や財施を修することが獲信のための宿善となる」という文証があれば示してもらいたいと求めたのが、一昨年(昭和五十五年)の六月二十一日(57頁)であるから、もう八百日以上が経過していることになるが、これについては何の返答もないままである。(『派外からの異説について』)

とあるように紅楳英顕師の質問に答えられないのは当たり前なのです。無いのですから。


このように「宿善」について新たな定義を設け、

宿善を求めよ、宿善を厚くせよ、獲信の因縁として善を修せよ

という「珍らしき法」を弘めているのが高森顕徹会長であり親鸞会会員です。こんな教えを「唯一絶対にして真実の宗教」であるなどと盲信している愚かさに、会員の皆さんは早く気付いて頂きたいと思います。



【参考文献】
『飛雲』聖道門と同じ発想で宿善論を叫ぶ無恥な高森顕徹会長
『同』ちょっと話がややこしくなるだけで理解不能に陥る高森顕徹会長
『21世紀の浄土真宗を考える会』宿善といふこと
『WikiArc』トーク:口伝鈔
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プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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