浄土真宗は「阿弥陀仏を拝んだり、念仏を称えたり、阿弥陀仏の本願を信じなさいと教える」宗教
高森顕徹会長が先日、他の宗教と比較するために例のタメゴロー発言をしたことは紹介した通りです。
・『飛雲』親鸞聖人の仰ったことを、「そんなことは口が腐っても言ってはならない」と完全否定する高森顕徹会長
・阿弥陀仏の木像や絵像、名号を拝むことも、念仏を称えることも、阿弥陀仏の本願を信じることも否定し、それでいて肝心の聞くべき阿弥陀仏の本願を説かない高森顕徹会長
高森会長曰く、他の宗教が「何かを拝んだり、口で唱えたり、信じなさいと教える」のに対して、浄土真宗は
・「聞」の宗教
・「聞くことを教えている宗教」
だというのです。別にこの部分を否定するつもりはありません。ただし、浄土真宗も
「阿弥陀仏を拝んだり、念仏を称えたり、阿弥陀仏の本願を信じなさいと教える」
宗教です。高森会長のこの度の説では、ただ
「阿弥陀仏の本願を聞きなさい」
とだけ教えられていて、
「阿弥陀仏を拝んだり、念仏を称えたり、阿弥陀仏の本願を信じなさいとは教えられていない」
とでも言わんばかりです。今回はその誤りを正したいと思います。
まず、親鸞会が大好きで唯一の本願寺攻撃の足掛かりと言っていい本尊論ですが、浄土真宗の本尊は言うまでも無く「阿弥陀如来」(南無阿弥陀仏)です。本尊について高森顕徹会長は、
言うまでもなく仏教で本尊とは、本来最も尊重されるべきものであり、根本に尊ぶべきものでありますから、信奉者にとっては唯一、絶対、永遠、普遍、不可分のものでなければなりません。
(中略)
親鸞聖人はそれまで寺院などで本尊としていた、弥陀三尊の絵図などを捨て去り、ただ名号のみを御本尊とされ、みなさんにもお勧めになっていかれたのはその為であります。(『こんなことが知りたい③』p.183~p.184)
と書いています。親鸞聖人が本当に「弥陀三尊の絵図などを捨て去」ったのか、また「ただ名号のみを御本尊とされ」たのかなど、色々ツッコミどころはありますが、重要なのは「みなさんにもお勧めになっていかれた」という点です。では、何のためにお勧めになっていかれたのでしょうか? 当然、本願の名号を信受して頂くためでしょうが、我々浄土真宗の信奉者が礼拝・合掌する対象としてでしょう? 親鸞聖人が
「阿弥陀仏を拝みなさい」
とお勧めになっていかれたのではないのでしょうか?
天親菩薩は、阿弥陀仏の浄土に往生するための行として『浄土論』に五種の行を示しておられますが、その第一が「礼拝門」です。これは身に阿弥陀仏を敬い拝むことであり、
「阿弥陀仏を拝みなさい」
と勧められています。この天親菩薩の教えは誤りですか?
また、善導大師は「散善義」に浄土往生の行業として五種の正行を教えられていますが、その第三が「礼拝正行」です。阿弥陀仏を礼拝することであり、やはり
「阿弥陀仏を拝みなさい」
と勧められています。この善導大師の教えは誤りですか?
蛇足ですが、高森顕徹会長は宿善が厚くなる二番目に「五正行の実践」と教えています。高森会長が作った『教学聖典』には、先ほどの「礼拝正行」について
礼拝正行(阿弥陀如来一仏を礼拝すること)
とあります。それで、親鸞会では朝晩の勤行の際は勿論、説法の前後や、仏間に出入りする時にもお仏壇に合掌・礼拝したり、一礼したりすることを当たり前の動作としています。それでも
「阿弥陀仏を拝みなさい」
とはどこにも教えられていないとでも言うつもりでしょうか? ぜひとも高森会長に聞いてみたいところです。
次に念仏についてですが、親鸞聖人は『行文類』にて
・大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。
・しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。
と、浄土真実の行を「無碍光如来の名を称する」、いわゆる「南無阿弥陀仏」と口に称える「念仏」であると教えられています。そして、
・あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。
・しかれば真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆゑに、これを歓喜地と名づく。これを初果に喩ふることは、初果の聖者、なほ睡眠し懶堕なれども二十九有に至らず。いかにいはんや十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力といふ。ここをもつて龍樹大士は「即時入必定」(易行品 一六)といへり。曇鸞大師は「入正定聚之数」(論註・上意)といへり。仰いでこれを憑むべし。もつぱらこれを行ずべきなり。
と、念仏を称えることをお勧めになっています。ですから様々な和讃にも、
本師龍樹菩薩の
をしへをつたへきかんひと
本願こころにかけしめて
つねに弥陀を称すべし
不退のくらゐすみやかに
えんとおもはんひとはみな
恭敬の心に執持して
弥陀の名号称すべし(龍樹讃)
極悪深重の衆生は
他の方便さらになし
ひとへに弥陀を称してぞ
浄土にうまるとのべたまふ(源信讃)
信心のひとにおとらじと
疑心自力の行者も
如来大悲の恩をしり
称名念仏はげむべし(誡疑讃)
等々、挙げればキリがないほど念仏を勧められたお言葉があります。これらは、親鸞聖人が
「念仏を称えなさい」
とお勧めになっていかれた文証なのではないのでしょうか?
それから「阿弥陀仏の本願を信じなさい」についてですが、これは『飛雲』に詳しく書かれていますので割愛します。以上の事から、序盤に申し上げた通り、浄土真宗は
「阿弥陀仏を拝んだり、念仏を称えたり、阿弥陀仏の本願を信じなさいと教える」
宗教であることがお判り頂けると思います。
ただ、他の宗教と違うところは、こちらから「どうかお助け下さい」とお願い、祈願請求する自力の礼拝、念仏、信心ではないということです。「まかせよ、助ける」のお喚び声、勅命に対する「おまかせいたします」の他力の礼拝、念仏、信心です。本尊である阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)は本願招喚の勅命であり、助ける法であり、限りない智慧と慈悲を形像で現したすがたです。我々はその先手のお助けに「仰せの通りおまかせします」と順い、手を合わせ、拝むのです。信心は名号を心に頂いたすがたであり、念仏は心に頂いた名号が口に出たすがたです。
単に、「阿弥陀仏の本願を聞きなさい」とだけ教えられたのが親鸞聖人ではありません。聖人の仰ったことを完全否定し、聖人の教えでないことを話し、それでいて本当の親鸞聖人の教えだと謳い、お布施だけはちゃっかり受け取る。高森会長はこうしたことを平然とやっています。そういえば、本尊について調べている時に
聖人の教えでないことを話し、お布施だけはちゃっかり受け取る、ということでは搾取であり、詐欺でしょう。(『親鸞会批判の真実』浄土真宗の正しい御本尊は?)
という一文を発見しました。高森顕徹会長と愉快な仲間達のことを言い得て妙です。会員の皆さんは、こうした偽の親鸞聖人の教えを説く悪知識の元から即刻離れることを強くお勧めします。
【参照】
『WikiArc』五念門
『WikiArc』五正行
・『飛雲』親鸞聖人の仰ったことを、「そんなことは口が腐っても言ってはならない」と完全否定する高森顕徹会長
・阿弥陀仏の木像や絵像、名号を拝むことも、念仏を称えることも、阿弥陀仏の本願を信じることも否定し、それでいて肝心の聞くべき阿弥陀仏の本願を説かない高森顕徹会長
高森会長曰く、他の宗教が「何かを拝んだり、口で唱えたり、信じなさいと教える」のに対して、浄土真宗は
・「聞」の宗教
・「聞くことを教えている宗教」
だというのです。別にこの部分を否定するつもりはありません。ただし、浄土真宗も
「阿弥陀仏を拝んだり、念仏を称えたり、阿弥陀仏の本願を信じなさいと教える」
宗教です。高森会長のこの度の説では、ただ
「阿弥陀仏の本願を聞きなさい」
とだけ教えられていて、
「阿弥陀仏を拝んだり、念仏を称えたり、阿弥陀仏の本願を信じなさいとは教えられていない」
とでも言わんばかりです。今回はその誤りを正したいと思います。
まず、親鸞会が大好きで唯一の本願寺攻撃の足掛かりと言っていい本尊論ですが、浄土真宗の本尊は言うまでも無く「阿弥陀如来」(南無阿弥陀仏)です。本尊について高森顕徹会長は、
言うまでもなく仏教で本尊とは、本来最も尊重されるべきものであり、根本に尊ぶべきものでありますから、信奉者にとっては唯一、絶対、永遠、普遍、不可分のものでなければなりません。
(中略)
親鸞聖人はそれまで寺院などで本尊としていた、弥陀三尊の絵図などを捨て去り、ただ名号のみを御本尊とされ、みなさんにもお勧めになっていかれたのはその為であります。(『こんなことが知りたい③』p.183~p.184)
と書いています。親鸞聖人が本当に「弥陀三尊の絵図などを捨て去」ったのか、また「ただ名号のみを御本尊とされ」たのかなど、色々ツッコミどころはありますが、重要なのは「みなさんにもお勧めになっていかれた」という点です。では、何のためにお勧めになっていかれたのでしょうか? 当然、本願の名号を信受して頂くためでしょうが、我々浄土真宗の信奉者が礼拝・合掌する対象としてでしょう? 親鸞聖人が
「阿弥陀仏を拝みなさい」
とお勧めになっていかれたのではないのでしょうか?
天親菩薩は、阿弥陀仏の浄土に往生するための行として『浄土論』に五種の行を示しておられますが、その第一が「礼拝門」です。これは身に阿弥陀仏を敬い拝むことであり、
「阿弥陀仏を拝みなさい」
と勧められています。この天親菩薩の教えは誤りですか?
また、善導大師は「散善義」に浄土往生の行業として五種の正行を教えられていますが、その第三が「礼拝正行」です。阿弥陀仏を礼拝することであり、やはり
「阿弥陀仏を拝みなさい」
と勧められています。この善導大師の教えは誤りですか?
蛇足ですが、高森顕徹会長は宿善が厚くなる二番目に「五正行の実践」と教えています。高森会長が作った『教学聖典』には、先ほどの「礼拝正行」について
礼拝正行(阿弥陀如来一仏を礼拝すること)
とあります。それで、親鸞会では朝晩の勤行の際は勿論、説法の前後や、仏間に出入りする時にもお仏壇に合掌・礼拝したり、一礼したりすることを当たり前の動作としています。それでも
「阿弥陀仏を拝みなさい」
とはどこにも教えられていないとでも言うつもりでしょうか? ぜひとも高森会長に聞いてみたいところです。
次に念仏についてですが、親鸞聖人は『行文類』にて
・大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。
・しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。
と、浄土真実の行を「無碍光如来の名を称する」、いわゆる「南無阿弥陀仏」と口に称える「念仏」であると教えられています。そして、
・あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。
・しかれば真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆゑに、これを歓喜地と名づく。これを初果に喩ふることは、初果の聖者、なほ睡眠し懶堕なれども二十九有に至らず。いかにいはんや十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力といふ。ここをもつて龍樹大士は「即時入必定」(易行品 一六)といへり。曇鸞大師は「入正定聚之数」(論註・上意)といへり。仰いでこれを憑むべし。もつぱらこれを行ずべきなり。
と、念仏を称えることをお勧めになっています。ですから様々な和讃にも、
本師龍樹菩薩の
をしへをつたへきかんひと
本願こころにかけしめて
つねに弥陀を称すべし
不退のくらゐすみやかに
えんとおもはんひとはみな
恭敬の心に執持して
弥陀の名号称すべし(龍樹讃)
極悪深重の衆生は
他の方便さらになし
ひとへに弥陀を称してぞ
浄土にうまるとのべたまふ(源信讃)
信心のひとにおとらじと
疑心自力の行者も
如来大悲の恩をしり
称名念仏はげむべし(誡疑讃)
等々、挙げればキリがないほど念仏を勧められたお言葉があります。これらは、親鸞聖人が
「念仏を称えなさい」
とお勧めになっていかれた文証なのではないのでしょうか?
それから「阿弥陀仏の本願を信じなさい」についてですが、これは『飛雲』に詳しく書かれていますので割愛します。以上の事から、序盤に申し上げた通り、浄土真宗は
「阿弥陀仏を拝んだり、念仏を称えたり、阿弥陀仏の本願を信じなさいと教える」
宗教であることがお判り頂けると思います。
ただ、他の宗教と違うところは、こちらから「どうかお助け下さい」とお願い、祈願請求する自力の礼拝、念仏、信心ではないということです。「まかせよ、助ける」のお喚び声、勅命に対する「おまかせいたします」の他力の礼拝、念仏、信心です。本尊である阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)は本願招喚の勅命であり、助ける法であり、限りない智慧と慈悲を形像で現したすがたです。我々はその先手のお助けに「仰せの通りおまかせします」と順い、手を合わせ、拝むのです。信心は名号を心に頂いたすがたであり、念仏は心に頂いた名号が口に出たすがたです。
単に、「阿弥陀仏の本願を聞きなさい」とだけ教えられたのが親鸞聖人ではありません。聖人の仰ったことを完全否定し、聖人の教えでないことを話し、それでいて本当の親鸞聖人の教えだと謳い、お布施だけはちゃっかり受け取る。高森会長はこうしたことを平然とやっています。そういえば、本尊について調べている時に
聖人の教えでないことを話し、お布施だけはちゃっかり受け取る、ということでは搾取であり、詐欺でしょう。(『親鸞会批判の真実』浄土真宗の正しい御本尊は?)
という一文を発見しました。高森顕徹会長と愉快な仲間達のことを言い得て妙です。会員の皆さんは、こうした偽の親鸞聖人の教えを説く悪知識の元から即刻離れることを強くお勧めします。
【参照】
『WikiArc』五念門
『WikiArc』五正行
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