高森の教行信証(総序編) - 阿弥陀仏の本願は、苦しみの波の絶えない人生の海を明るく楽しくわたす大船である。この船に乗ることこそが人生の目的(=絶対の幸福)だ
親鸞聖人が「真実の教行信証」を教えられたのに対して、高森顕徹会長は独自の教行信証を会員に説き与えています。「真実の教行信証」と親鸞会の教えの違いは歴然で、浄土亜流どころか全く別物、まさに「高森教」「高森の教行信証」と名付けるのがふさわしいかと思います。
それが証拠に、『教行証文類』総序のお言葉の解説からして既に「浄土真宗」ではありません。
ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。
会員なら誰でも知っている言葉だと思いますが、これを高森顕徹会長は
「弥陀の誓願は、私たちの苦悩の根元である無明の闇を破り、苦しみの波の絶えない人生の海を、明るく楽しくわたす大船である。この船に乗ることこそが人生の目的だ」(『なぜ生きる』p.115)
と訳しています。これで正しいだろうと信じ込んでいる会員ばかりでしょうが、違います。「難思の弘誓」「難度海」「無碍の光明」「無明の闇」どれも正しくありません。
「難思の弘誓」=「弥陀の誓願」≠「どんな人をも 必ず助ける 絶対の幸福に」
ですし、
「無明の闇」=「疑情」=「自力疑心」≠「後生暗い心」
ですし、
「無碍の光明」=「無明の闇を破する恵日」≠「後生明るくする、智慧の太陽」(『なぜ生きる』p.282)
です。どれをとっても「高森教」が混じっているので、会員は親鸞聖人の仰せをそのままお受けできません。
「難度海」にしても当然「高森教」が混じっています。高森会長は「苦しみの波の絶えない人生の海」とか言っていますが、そんな低レベルの話ではないのです。そもそも「難度海」という言葉は、『十住毘婆沙論』易行品
かの八道の船に乗じて、よく難度海を度す。みづから度し、またかれを度せん。われ自在人を礼したてまつる。
にあって、聖人はこれを「行文類」に引文されています。龍樹菩薩は、聖道門の八聖道(八道)を船に譬え、その船に乗って難度海を度するとされたのです。
「難度海」とは生まれてから死ぬまでの人生だけの事ではありません。「海」とは、過去無量劫から未来永劫に亘って生まれ変わり死に変わりを繰り返し、永遠に苦しみ彷徨い続ける、この迷いの世界の広く果てしないさまを例えたものです。それは、「難度海」を「生死の苦海」と表現されていることからもお判りになるかと思います(『高僧和讃』)。そして「度し難い」とは、こうした広く果てしない迷いの世界を出ることが難い、つまり我らは六道から離れられない、出離できないことを仰ったものです。この世を生きていくことが苦しいとか、そういった低次元の話ではないのです。
このようなことですから、「阿弥陀仏の本願」が「難度海」を「度する大船」であるというのは、この広く果てしない迷いの世界を自分の力では出離できないことを知って、「阿弥陀仏の本願」が成就したすがたである「南無阿弥陀仏」という「大悲の願船」によって迷いを離れなさいと、18願に帰依することを教えられたものです。要は二種深信の言い換えです。これは世間的な幸福云々を越えた出離を目指した上での非常にレベルが高い話であって、人生を明るく楽しく生きるだとかいう低レベルの話ではないのです。
この非常にレベルが高い話を、低俗な話に貶めている一つが、「難度海」の説明の際に必ずと言っていいほど出てくる丸太や板切れの話です。「難度海」にはたくさんの丸太や板切れが浮いていて、それらは金や財産、地位や名誉、友人や恋人、妻子、才能、健康、仕事、趣味、生き甲斐などである。私達はそれらにすがっては裏切られ、すがっては裏切られを繰り返してやがて力尽きて死んでゆく等と言っていますが、親鸞聖人の上にはそういった丸太や板切れについての言及はありません。聖人は先ほども申し上げたように、世間的な幸福云々を越えた出離を目指した上で、自分の力では出離できないことを知って18願に帰依し、念仏成仏せよと教えられた方です。「木の深信」という珍しい信心を獲た人物がこだわっている丸太や板切れなどは、最初から問題外なのです。
高森会長のこの例えは、当てにならないものを信じて生きているという点では判り易いですが、「難度海」を説明するには大分不適切です。例えでは、大船に乗るには丸太や板切れを捨てなければなりませんが、本願を信じ念仏するようになっても丸太や板切れにすがる人生は変わりません。相変わらず信じて、たよりにして、あて力にして生きていくのです。命や健康を信じて生きているし、金や財、妻子をあてにして生きています。滅多なことはなかろう、今日も無事に過ごせるだろうと日々暮らすことは変わりません。時に信じているものに裏切られることもありますが、そうしたら大なり小なり苦しむのです。信心獲得したら丸太や板切れをあて力にしない人生になるように錯覚する方もあるかも知れませんが、そうではありません。
第一、丸太や板切れの話をするのであれば、「高森会長も丸太」「親鸞会も板切れ」と、知識や組織をあてにすることをも捨てよと説かねばなりません。ところが現実はどうでしょう? 会内では「誰が何と言おうと高森先生が正しい」「親鸞会に間違いない」ということを強調する話ばかりで、会員の皆さんは教義や組織への批判には耳を塞いで頑なに信じ込んでいませんか? 疑問に思うことがあっても、「教義は正しいがついていけない自分が悪い」と親鸞会を絶対視していませんか? 本当にまことなのは「ただ念仏のみ」「南無阿弥陀仏」だけだと言わなければ丸太や板切れの話にはならないのですが、そんなことを言ったら「謗法罪」だとか言って「除名」になってしまうので誰も言いません。高森会長や組織に捨てられるのを恐れているのです。
ところで、高森会長は崇高な本願を低俗な本願に貶めるだけに留まらず、阿弥陀仏の救済法についても間違った認識を聞く者に植え付けています。「救助の大船の厳存と、方角を明示されているのが親鸞聖人である(『なぜ生きる』p.182)」などと言い、高森会長が指し示す方角の先に大船があって、そこまで泳いで求めていった先に大船に乗れるかのような印象を与えています。しかし、大船に乗せられるのは現在只今であり、すべて阿弥陀仏のお力によってであり、私の力は必要なく、また私がどこかまで泳いでいく必要はありません。逆に私が何かしなければならないと自力を加えること自体が間違いになります。ここの所は、一部では真実らしい説明もあると言えばあるのですが、「高森の教行信証」が頭に染み付いていると、突然そんなことを言われても今まで受けてきた教えが邪魔をして受け容れられないでしょう。
それから、実際に海で溺れ苦しんでいる人が救助されて船に乗れば、その前と後でガラリと変わるし、変わったことがハッキリ分かるでしょう。しかし、あくまでも譬えですから、実際に救助された時のような体験をするわけではありません。私達としては、ただ「助けるぞ」の仰せを聞き受けて念仏し、後生・往生という大事は私の手に負える問題ではないと自力を離れるだけです。本願力におまかせして念仏するようになっても、私は何も変わっていないし、周囲も何も変わりません。
「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わります」
だとか映画の蓮如上人に言わせていますが、私達の悪業煩悩は絶えず、また罪が全て消えるわけではありませんからこうは言えません。相変わらず欲まみれであり、些細な事ですぐに腹を立てるような私達です。物事がうまくいかなかったり、悪事災難がやってきたら当然苦しみますよ。信心獲得のその時から、念仏と何の関係があるのか分からないがとにかくとてつもなく大きな幸福感に満たされてそれがずっと続くなどということはありません。幸福感は外からの作用や、内からの煩悩によって常に変化します。
「他力の信心」≠「絶対に崩れない、変わらない幸福感」
です。幻想的な幸福感を夢見て、そんな幸せになりたい、なれるんだと親鸞会で聞いている人は多いと思いますが、そんな幸福感を獲たのが「他力の信心」などとは思わないことです。
譬如日月覆雲霧 雲霧之下明無闇(『正信偈』)
のお言葉にしても、どんなに煩悩が逆巻こうとも煩悩が往生の妨げとはならないことを言われたのであって、私達の心が明るく愉快になることを譬えられたわけではありません。
以上、延々と述べて来ましたが、要は高森会長の教えは
「阿弥陀仏の本願は、苦しみの波の絶えない人生の海を明るく楽しくわたす大船である。この船に乗ることこそが人生の目的(=絶対の幸福)だ。聞く一つで、人生を明るく楽しく生きることができる。だからワシの話だけをド真剣に聞け」
という程度のもので、まかり間違っても「浄土真宗」でもなければ「仏教」でもありません。幻想的な楽をエサに組織拡大を図らんとする、ただの一新興宗教であり、「高森教」と名づけるのが相応しいと冒頭申し上げた通りです。仏語や浄土真宗の言葉はそれを真実らしく見せかけるだけの装飾品に過ぎません。会員の皆さんは、こうした一新興宗教の教義に満足せずに、正しい浄土真宗を聞き受けて念仏して頂きたいと思います。
【参照】
『WikiArc』難度海
『飛雲』木の深信が立った高森顕徹会長
『飛雲』愉快な信心の高森顕徹会長と愉快な仲間たち
それが証拠に、『教行証文類』総序のお言葉の解説からして既に「浄土真宗」ではありません。
ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。
会員なら誰でも知っている言葉だと思いますが、これを高森顕徹会長は
「弥陀の誓願は、私たちの苦悩の根元である無明の闇を破り、苦しみの波の絶えない人生の海を、明るく楽しくわたす大船である。この船に乗ることこそが人生の目的だ」(『なぜ生きる』p.115)
と訳しています。これで正しいだろうと信じ込んでいる会員ばかりでしょうが、違います。「難思の弘誓」「難度海」「無碍の光明」「無明の闇」どれも正しくありません。
「難思の弘誓」=「弥陀の誓願」≠「どんな人をも 必ず助ける 絶対の幸福に」
ですし、
「無明の闇」=「疑情」=「自力疑心」≠「後生暗い心」
ですし、
「無碍の光明」=「無明の闇を破する恵日」≠「後生明るくする、智慧の太陽」(『なぜ生きる』p.282)
です。どれをとっても「高森教」が混じっているので、会員は親鸞聖人の仰せをそのままお受けできません。
「難度海」にしても当然「高森教」が混じっています。高森会長は「苦しみの波の絶えない人生の海」とか言っていますが、そんな低レベルの話ではないのです。そもそも「難度海」という言葉は、『十住毘婆沙論』易行品
かの八道の船に乗じて、よく難度海を度す。みづから度し、またかれを度せん。われ自在人を礼したてまつる。
にあって、聖人はこれを「行文類」に引文されています。龍樹菩薩は、聖道門の八聖道(八道)を船に譬え、その船に乗って難度海を度するとされたのです。
「難度海」とは生まれてから死ぬまでの人生だけの事ではありません。「海」とは、過去無量劫から未来永劫に亘って生まれ変わり死に変わりを繰り返し、永遠に苦しみ彷徨い続ける、この迷いの世界の広く果てしないさまを例えたものです。それは、「難度海」を「生死の苦海」と表現されていることからもお判りになるかと思います(『高僧和讃』)。そして「度し難い」とは、こうした広く果てしない迷いの世界を出ることが難い、つまり我らは六道から離れられない、出離できないことを仰ったものです。この世を生きていくことが苦しいとか、そういった低次元の話ではないのです。
このようなことですから、「阿弥陀仏の本願」が「難度海」を「度する大船」であるというのは、この広く果てしない迷いの世界を自分の力では出離できないことを知って、「阿弥陀仏の本願」が成就したすがたである「南無阿弥陀仏」という「大悲の願船」によって迷いを離れなさいと、18願に帰依することを教えられたものです。要は二種深信の言い換えです。これは世間的な幸福云々を越えた出離を目指した上での非常にレベルが高い話であって、人生を明るく楽しく生きるだとかいう低レベルの話ではないのです。
この非常にレベルが高い話を、低俗な話に貶めている一つが、「難度海」の説明の際に必ずと言っていいほど出てくる丸太や板切れの話です。「難度海」にはたくさんの丸太や板切れが浮いていて、それらは金や財産、地位や名誉、友人や恋人、妻子、才能、健康、仕事、趣味、生き甲斐などである。私達はそれらにすがっては裏切られ、すがっては裏切られを繰り返してやがて力尽きて死んでゆく等と言っていますが、親鸞聖人の上にはそういった丸太や板切れについての言及はありません。聖人は先ほども申し上げたように、世間的な幸福云々を越えた出離を目指した上で、自分の力では出離できないことを知って18願に帰依し、念仏成仏せよと教えられた方です。「木の深信」という珍しい信心を獲た人物がこだわっている丸太や板切れなどは、最初から問題外なのです。
高森会長のこの例えは、当てにならないものを信じて生きているという点では判り易いですが、「難度海」を説明するには大分不適切です。例えでは、大船に乗るには丸太や板切れを捨てなければなりませんが、本願を信じ念仏するようになっても丸太や板切れにすがる人生は変わりません。相変わらず信じて、たよりにして、あて力にして生きていくのです。命や健康を信じて生きているし、金や財、妻子をあてにして生きています。滅多なことはなかろう、今日も無事に過ごせるだろうと日々暮らすことは変わりません。時に信じているものに裏切られることもありますが、そうしたら大なり小なり苦しむのです。信心獲得したら丸太や板切れをあて力にしない人生になるように錯覚する方もあるかも知れませんが、そうではありません。
第一、丸太や板切れの話をするのであれば、「高森会長も丸太」「親鸞会も板切れ」と、知識や組織をあてにすることをも捨てよと説かねばなりません。ところが現実はどうでしょう? 会内では「誰が何と言おうと高森先生が正しい」「親鸞会に間違いない」ということを強調する話ばかりで、会員の皆さんは教義や組織への批判には耳を塞いで頑なに信じ込んでいませんか? 疑問に思うことがあっても、「教義は正しいがついていけない自分が悪い」と親鸞会を絶対視していませんか? 本当にまことなのは「ただ念仏のみ」「南無阿弥陀仏」だけだと言わなければ丸太や板切れの話にはならないのですが、そんなことを言ったら「謗法罪」だとか言って「除名」になってしまうので誰も言いません。高森会長や組織に捨てられるのを恐れているのです。
ところで、高森会長は崇高な本願を低俗な本願に貶めるだけに留まらず、阿弥陀仏の救済法についても間違った認識を聞く者に植え付けています。「救助の大船の厳存と、方角を明示されているのが親鸞聖人である(『なぜ生きる』p.182)」などと言い、高森会長が指し示す方角の先に大船があって、そこまで泳いで求めていった先に大船に乗れるかのような印象を与えています。しかし、大船に乗せられるのは現在只今であり、すべて阿弥陀仏のお力によってであり、私の力は必要なく、また私がどこかまで泳いでいく必要はありません。逆に私が何かしなければならないと自力を加えること自体が間違いになります。ここの所は、一部では真実らしい説明もあると言えばあるのですが、「高森の教行信証」が頭に染み付いていると、突然そんなことを言われても今まで受けてきた教えが邪魔をして受け容れられないでしょう。
それから、実際に海で溺れ苦しんでいる人が救助されて船に乗れば、その前と後でガラリと変わるし、変わったことがハッキリ分かるでしょう。しかし、あくまでも譬えですから、実際に救助された時のような体験をするわけではありません。私達としては、ただ「助けるぞ」の仰せを聞き受けて念仏し、後生・往生という大事は私の手に負える問題ではないと自力を離れるだけです。本願力におまかせして念仏するようになっても、私は何も変わっていないし、周囲も何も変わりません。
「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わります」
だとか映画の蓮如上人に言わせていますが、私達の悪業煩悩は絶えず、また罪が全て消えるわけではありませんからこうは言えません。相変わらず欲まみれであり、些細な事ですぐに腹を立てるような私達です。物事がうまくいかなかったり、悪事災難がやってきたら当然苦しみますよ。信心獲得のその時から、念仏と何の関係があるのか分からないがとにかくとてつもなく大きな幸福感に満たされてそれがずっと続くなどということはありません。幸福感は外からの作用や、内からの煩悩によって常に変化します。
「他力の信心」≠「絶対に崩れない、変わらない幸福感」
です。幻想的な幸福感を夢見て、そんな幸せになりたい、なれるんだと親鸞会で聞いている人は多いと思いますが、そんな幸福感を獲たのが「他力の信心」などとは思わないことです。
譬如日月覆雲霧 雲霧之下明無闇(『正信偈』)
のお言葉にしても、どんなに煩悩が逆巻こうとも煩悩が往生の妨げとはならないことを言われたのであって、私達の心が明るく愉快になることを譬えられたわけではありません。
以上、延々と述べて来ましたが、要は高森会長の教えは
「阿弥陀仏の本願は、苦しみの波の絶えない人生の海を明るく楽しくわたす大船である。この船に乗ることこそが人生の目的(=絶対の幸福)だ。聞く一つで、人生を明るく楽しく生きることができる。だからワシの話だけをド真剣に聞け」
という程度のもので、まかり間違っても「浄土真宗」でもなければ「仏教」でもありません。幻想的な楽をエサに組織拡大を図らんとする、ただの一新興宗教であり、「高森教」と名づけるのが相応しいと冒頭申し上げた通りです。仏語や浄土真宗の言葉はそれを真実らしく見せかけるだけの装飾品に過ぎません。会員の皆さんは、こうした一新興宗教の教義に満足せずに、正しい浄土真宗を聞き受けて念仏して頂きたいと思います。
【参照】
『WikiArc』難度海
『飛雲』木の深信が立った高森顕徹会長
『飛雲』愉快な信心の高森顕徹会長と愉快な仲間たち
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