「よき人の仰せ」=「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」とは絶対に話さない高森顕徹会長

『飛雲』親鸞聖人は法然上人の教えを聞いて救われた、と言いながら法然上人の教えを完全否定する高森顕徹会長

に挙がっているように、日曜日は富山で高森顕徹会長の話がありました。

映画『なぜ生きる』の中の蓮如上人のお言葉
「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです。」と
は、どんなことでしょうか。


という質問に対して、「聞く」とはどういうことか、歎異抄第二章を通して解説をしたそうです。

年頭所感でも、当然「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を説かない高森顕徹会長でも紹介したように、歎異抄第二章は『顕正新聞』年頭所感で高森会長が触れた御文であること、また、親鸞会の「歎異抄をひらく」が映画化することに伴って今回根拠として用いたのだと思われます。

歎異抄第二章は、田畑を売り、命がけで京都の親鸞聖人を訪ねた同行達に聖人が仰ったお言葉であり、その中でも教えが詰まっているとして高森会長が紹介した言葉が

親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり。

でした。しかし高森会長が説明したことと言えば、よき人とは善知識であり、善知識の説明に

善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。『御文章』2帖目11通

という根拠を用いたこと。善知識の元祖がお釈迦様だということ。親鸞聖人にとってよき人、善知識は法然上人だということ。「よき人の仰せを被りて」は「法然上人から教えを聞いて」ということ。とまぁこの程度で、肝心のよき人、法然聖人の仰せとはどんな教えなのかを示すことは最後までありませんでした。それでいて

聞く一つの教えであること、『聞く一つで、大船に乗せる』ということが阿弥陀仏の本願であることが歎異抄第二章の聖人のお言葉からも明らかである

などとはどの口が言っているのか、滑稽至極とはこの事であります。


『歎異抄』第二条は、関東の同行が京都の聖人の元まで「ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがため」に赴き、関東の同行に対してなされた聖人の教えが説かれています。ここで「往生極楽のみち」とは、直後に

しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し・・・

と仰っていることからも判るように「往生極楽のみち」=「念仏」です。親鸞聖人が教えられたことは「念仏」以外には無かったことが知られます。そのことは、次のお言葉

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。

によってより明らかになります。親鸞聖人が法然聖人から受けた教え、つまり「よきひとの仰せ」とは

ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし

これ以外無かったのです。法然聖人が諸善を廃してただ念仏一行を勧められたのはこの記事にも書いていますが、それほどに諸善を廃し念仏一行を立てる教えであったので、こうした『選択本願念仏集』を読んでそれまで法然聖人に対して「深く仰信を懐」いていた明恵上人高弁が、『摧邪輪』という書物まで著して徹底的に批判することともなったのです。親鸞会の会員は、朝廷と聖道諸宗が結託して恨み妬みの心で承元の法難を起こした位にしか捉えていないでしょうが、無知もいいところです。そして親鸞会は、当時聖道諸宗が法然聖人を攻撃したのと同じような理論で18願一つ説く真宗宗派や退会者を非難していることをよく知るべきです。(※)

さて、そういった法然聖人、親鸞聖人の「念仏一行」の教えに対して、高森顕徹会長の教えは全く異なります。高森の教行信証(行編)でも示した通り、高森会長の勧める行は

悪業悪行(聞邪義、弘宣邪義、献金、服従)、助正間雑、雑行

です。対する法然聖人、親鸞聖人の教えは

それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲はば、正・雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正・助二業のなかに、なほ助業を傍らにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに三選の文(行文類引文)

とあるように、

聖道門を閣きて、雑行を抛ちて、助業を傍らにして、選んで正定(仏の名を称する)をもつぱらにすべし

です。「高森の行」は、『教学聖典』に依れば(1)熱心な聞法、(2)五正行の実践、(3)六度万行の実践であって

自力で命がけでワシの話を聞け。助業もやれ。雑行もやれ。

ということですから真逆です。このように教えが真逆であることはここ10年や20年の話ではなく、遅く見積もっても『会報』や『こんなことが知りたい①』等が発行された昭和40年代からの話ですので、そんな親鸞会の教えしか聞いてこなかった者がそれをまともに信じて法然聖人や親鸞聖人と同じ信心になれるわけがないのです。


念仏は私が称える私の行ではなく、阿弥陀仏がただ一行選び取って与えて下された如来回向の行ですから、「南無阿弥陀仏(必ず往生させるから、安心してまかせなさい)」と深く信じて称える者は必ず報土の往生を遂げさせて頂くのです。私が称えるからでは往生するのではなく、「称えた者を往生させる」という本願に順ずるが故に往生するのです。

諸行に対して念仏一行を徹底されたのが法然聖人ですので、よく行行相対と言われますが、親鸞聖人はそこから更に、行行相対して往生には念仏一行となった者の中に、自力の信心の念仏者と他力の信心の念仏者がいるということを仰ったわけです。それで、自力の信心の念仏者は化土にとどまるとこれを誡め、他力の信心を具えた念仏を称えなさいとお勧めになっているのです。ただ高森に言われるがままに邪義を聞き続け、助正間雑し、雑行を修め悪業悪行をやっている者が「信心」がどうのこうのと言っても、それこそ「コンマ以下」です。念仏一行にもなっていない者が浄土真宗の信心を語るなど、それこそ不届き千万であります。

「よき人の仰せ」=「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」とは絶対に話さず、念仏を本願と置き換えて「全ての人を 必ず助ける 絶対の幸福に」などという低俗なものに貶め、ありもしない信心を教えありもしない道程を指し示して私利私欲を満たさんとする悪知識の話を、会員の皆さんはいつまで信じ続けるのでしょうか。高森会長は皆さんを信心獲得させようなどとは微塵も考えていないことを、教えが真逆であることを通してどうか気付いて頂きたいと思います。
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プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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