どこまでも「念仏」についての話は避け続け、邪義を唱え続ける高森顕徹会長
先日日曜日(25日)の高森顕徹会長の話は、またいつもの
映画『なぜ生きる』の中の蓮如上人のお言葉
「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです。」
とは、どんなことでしょうか?
という質問に対して答えるというものでした。
今回も、相変わらず「聞其名号」の「聞」を強調するあまりに
世界の多くの宗教が信じる宗教だが、信じることも要らない、聞く一つ
だとか言っていました。これでは、過去の説との整合性も、自身の教義との整合性も取れていません。過去の説との整合性についてはこの記事などに書いています。自身の教義との整合性については高森の教行信証(行編)に書いた通りで、実際は「聞く一つ」などとは大ウソです。
映画を観られた方の多くの方から、「大船に乗せて頂くには、修行をしなければならないのではないか?」「学問が必要ではないか?」「修養が要るのではないか?」という感想が寄せられている
らしいですが、事実大いに助正間雑、雑行、悪業悪行(聞邪義、弘宣邪義、献金、服従)といった「高森の行」に励まなければならないではありませんか。「宿善を求めよ、厚くせよ」という教えからは、聴聞の他に破邪顕正や財施などの行が不可欠です。親鸞会流「二河白道の譬え」からも、煩悩と闘っての求道が不可欠です。親鸞会流「三願転入の教え」からも、19願の行の実践は不可欠です。高森教を聞いている限り、どう考えても「修行」「学問」「修養」などが要るという事にしかなりません。これは会員の皆さんの聞き誤りではありません。正しく聞いているからこそ思う事であり、率直な感想なのです。それに対して
それらは一切要らない
とは一体どの口がこんな事を言っているのでしょうか。
だから、何十年と「一切要らない」行に励んでいる講師部員や幹部会員が救われていないのです。まぁそこは「後生の一大事」だ、「100年や200年」では獲られない信心だと言って救われないことを正当化していますが、この世ではまず獲られない、求め切れないようなものを求めさせておいて「人生の目的」とか「完成がある」とか、「平生業成」「現生不退」などと言っているのはお笑い以外の何物でもありません。
また、「それら(修行、学問、修養等)は一切要らない」と聞いて、会員の皆さんは「縦の線では一切要らないが横の道を進むには必要」などと忖度しているのかも知れませんが、結局それでは救われるまでのトータルで考えると一切必要ということになります。では本当のところは要るのか要らないのかと言えば、
・しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。(「信文類」総決)
・しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。(『口伝鈔』善悪二業の事)
とあるように、往生の行も信もすべて阿弥陀仏の回向によるものであり、我々の善悪は報土往生のプラスにもマイナスにもならないということですから、要らないが正解です。早く聴聞を含めた一切の「高森の行」を捨てましょう。「高森の教」は聖教に基づかない外道の教えですから、いくら聞いていても「真実の行信」は獲られません。「信じることも要らない」と言って信心も不要だと説いているのですから、こんなものは浄土真宗でも何でもないただの新興宗教であるということに会員の皆さんは気付くべきです。
ところで、今年から『歎異抄』と関連づけることの多い高森会長ですが、今回も『歎異抄』第二条
◎念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。
たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。
のお言葉の一部分を「聞く一つであることを仰った生々しい親鸞聖人のお言葉」として紹介したようです。これのどこがと思う方がほとんどでしょうが、いつもの断章取義です。頂いた情報からは説明したのは下線部についてであり、やはり「念仏」については何の説明も無かったようです。それに、
総じてもつて存知せざるなり。
については
分かり過ぎていることを聞いてくる者に対して使われる「知らん」
だと従来の説明を繰り返していました。これについては
『飛雲』そろそろ勉強しておかないと、と思いながらまだ何も始めてない高森会長
やそのリンク先に既に述べられていますので、詳しくはそちらを参照して下さい。
高森会長は『教行証文類』を始めとする聖典を体験記だと勘違いして久しいですが、そうではありません。親鸞聖人の著作、特に『教行証文類』は、聖人が多くの資料や文献を集め、それらをまとめて私見を述べられた学術論文です(※)。そこに書かれていることのほとんどは体験として知らされたことではなく、これらの事からこうした結論が導き出されるとか、あるいはこうでなくては理屈が通らないという親鸞聖人の理論です。親鸞聖人のその他の著述にしても、経典や論や釈のお言葉を引いて解説されたり、それらを基に教えを書かれたりということがほとんどです。そこには、体験から知らされた内容ではなく、経典や七高僧方や先哲の釈文から、理屈の上で知らされた内容が書かれているのです。
では、親鸞聖人は「念仏」が「浄土に生るるたね」であると体験から知らされたのかというと、違います。当時まだ聖人は御存命であって、浄土にはお生まれになっていません。一方、阿弥陀仏や浄土については、煩悩が眼をさえぎって見たてまつることができないと仰っています。そんな状態で、どうして凡夫の側から念仏を浄土に生まれるたねだと言えるのかという話です。見たことも往ったこともない浄土が、どうして私達の自覚の上でハッキリするでしょうか。親鸞聖人はよき人法然聖人からの教えを、体験からではなく、そのままわれも信じ私達にもそのまま教えて下さったのです。その信心の表明が『歎異抄』第二条です。凡夫の浅智で分かることはほとんどありません。
ここのところを親鸞会の会員は、信心決定したならば、阿弥陀仏から智恵を賜って相当のことが判ると考えていると思います。信心決定を神秘的なものとして聞かされていますのでそのようにしか考えられないでしょうが、しかし凡夫の浅智は信前信後変わらないのです。よって「知らん」は文字通り「知らん」、「分からん」で、「浄土へ往けるかどうか詳しくは阿弥陀仏か法然聖人にお尋ねになって下さい」ということです。
私達はただ、阿弥陀仏に死後どのような処へ行くのかも含めてすべておまかせするのみです。「他力の信心」とはそういうことです。「往生一定」は、力強い本願力に依るが故に「往生一定」、釈尊や七高僧、先哲の教えから「往生一定」なので、凡夫の側から「極楽参り間違いなしとハッキリする」のとは違うことを知って下さい。
◎のお言葉に戻ります。ここで大事なのは「念仏」です。現代語訳は
念仏は本当に浄土に生まれる因なのか、逆に地獄に堕ちる行いなのか、まったくわたしの知るところではありません。たとえ法然上人にだまされて、念仏したために地獄へ堕ちたとしても、決して後悔はいたしません。
ですが、これはどう見ても、「聞く一つ」と言うより「念仏一つ」と仰っているお言葉です。しかし「念仏一つ」とは高森会長は絶対に言いません。教義が根底から覆されるからです。どこまでも「念仏」についての話は避け続け、邪義を唱え続けています。言うまでもありませんが、『歎異抄』第二条は「往生極楽のみち」は「ただ念仏」であることが教えられているのです。「念仏」を説かずして聖人の教えは分かりません。この直前のお言葉
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。
にあるように、よきひと法然聖人の仰せは
ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし
でした。その仰せを仰せの通りに頂いて、信じて念仏する他に、親鸞何にもございませんというお言葉です。そこから◎のお言葉へとつながるわけですが、「よきひと(法然)の仰せ」も「ただ念仏して」も「信じて」も「弥陀にたすけられまゐらすべし」も何にも分からない高森会長は、分からない部分をすっ飛ばして自分の都合の良い部分だけを切り取り、独自の解釈を加えて「正しい解説」をしているつもりなのでした。
ではどうして「騙されて念仏して地獄へ堕ちても後悔ない」と言えるのかというと、その答えが次です。
そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
念仏以外の善を励んで仏に成れるような身なら、念仏して地獄へ堕ちたら「騙された」という後悔もあるだろう。しかし、どのような行も満足に修めることができない私は、地獄より他に住み家がないのだ、との仰せです。そういう親鸞だから、よき人の仰せをそのまま受けて信じ念仏する他に何にもない、それで地獄へ堕ちても元々地獄なのだから後悔しないと仰っているのです。会員には分からないかも知れませんが、「決して騙されない身になった」からこういうことを仰っているのではなく、信心のありのまま、そのままを語られているのです。我々には他の方便は無く、ただ念仏して浄土に生まれるという教えを、法然聖人から受けて親鸞もそのまま信じている、受け容れているということです。それは
極悪深重の衆生は
他の方便さらになし
ひとへに弥陀を称してぞ
浄土にうまるとのべたまふ(『高僧和讃』源信讃)
のお言葉によってもお判りになるでしょう。
こうした法然聖人、親鸞聖人の教えに対して、高森会長は「念仏」を全く説きません。それどころか、今までは間違ってはいたものの強調していた「信心」も要らない、聞く一つだと宣っています。こんな「念仏」も「信心」も無い、ハッキリスッキリ体験が根拠の高森教をいくら聞く一つと聞き続けても、法然・親鸞聖人と同じ信心になり、同じく念仏して、同じ浄土へ参ることはありません。会員の皆さんは、間違ったオリジナルの『歎異抄』講釈を始めて更に惑わそうとする高森教から離れて、早く「往相の回向」である大行と大信を賜り、本願を信じ念仏して頂きたいと思います。
映画『なぜ生きる』の中の蓮如上人のお言葉
「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです。」
とは、どんなことでしょうか?
という質問に対して答えるというものでした。
今回も、相変わらず「聞其名号」の「聞」を強調するあまりに
世界の多くの宗教が信じる宗教だが、信じることも要らない、聞く一つ
だとか言っていました。これでは、過去の説との整合性も、自身の教義との整合性も取れていません。過去の説との整合性についてはこの記事などに書いています。自身の教義との整合性については高森の教行信証(行編)に書いた通りで、実際は「聞く一つ」などとは大ウソです。
映画を観られた方の多くの方から、「大船に乗せて頂くには、修行をしなければならないのではないか?」「学問が必要ではないか?」「修養が要るのではないか?」という感想が寄せられている
らしいですが、事実大いに助正間雑、雑行、悪業悪行(聞邪義、弘宣邪義、献金、服従)といった「高森の行」に励まなければならないではありませんか。「宿善を求めよ、厚くせよ」という教えからは、聴聞の他に破邪顕正や財施などの行が不可欠です。親鸞会流「二河白道の譬え」からも、煩悩と闘っての求道が不可欠です。親鸞会流「三願転入の教え」からも、19願の行の実践は不可欠です。高森教を聞いている限り、どう考えても「修行」「学問」「修養」などが要るという事にしかなりません。これは会員の皆さんの聞き誤りではありません。正しく聞いているからこそ思う事であり、率直な感想なのです。それに対して
それらは一切要らない
とは一体どの口がこんな事を言っているのでしょうか。
だから、何十年と「一切要らない」行に励んでいる講師部員や幹部会員が救われていないのです。まぁそこは「後生の一大事」だ、「100年や200年」では獲られない信心だと言って救われないことを正当化していますが、この世ではまず獲られない、求め切れないようなものを求めさせておいて「人生の目的」とか「完成がある」とか、「平生業成」「現生不退」などと言っているのはお笑い以外の何物でもありません。
また、「それら(修行、学問、修養等)は一切要らない」と聞いて、会員の皆さんは「縦の線では一切要らないが横の道を進むには必要」などと忖度しているのかも知れませんが、結局それでは救われるまでのトータルで考えると一切必要ということになります。では本当のところは要るのか要らないのかと言えば、
・しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。(「信文類」総決)
・しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。(『口伝鈔』善悪二業の事)
とあるように、往生の行も信もすべて阿弥陀仏の回向によるものであり、我々の善悪は報土往生のプラスにもマイナスにもならないということですから、要らないが正解です。早く聴聞を含めた一切の「高森の行」を捨てましょう。「高森の教」は聖教に基づかない外道の教えですから、いくら聞いていても「真実の行信」は獲られません。「信じることも要らない」と言って信心も不要だと説いているのですから、こんなものは浄土真宗でも何でもないただの新興宗教であるということに会員の皆さんは気付くべきです。
ところで、今年から『歎異抄』と関連づけることの多い高森会長ですが、今回も『歎異抄』第二条
◎念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。
たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。
のお言葉の一部分を「聞く一つであることを仰った生々しい親鸞聖人のお言葉」として紹介したようです。これのどこがと思う方がほとんどでしょうが、いつもの断章取義です。頂いた情報からは説明したのは下線部についてであり、やはり「念仏」については何の説明も無かったようです。それに、
総じてもつて存知せざるなり。
については
分かり過ぎていることを聞いてくる者に対して使われる「知らん」
だと従来の説明を繰り返していました。これについては
『飛雲』そろそろ勉強しておかないと、と思いながらまだ何も始めてない高森会長
やそのリンク先に既に述べられていますので、詳しくはそちらを参照して下さい。
高森会長は『教行証文類』を始めとする聖典を体験記だと勘違いして久しいですが、そうではありません。親鸞聖人の著作、特に『教行証文類』は、聖人が多くの資料や文献を集め、それらをまとめて私見を述べられた学術論文です(※)。そこに書かれていることのほとんどは体験として知らされたことではなく、これらの事からこうした結論が導き出されるとか、あるいはこうでなくては理屈が通らないという親鸞聖人の理論です。親鸞聖人のその他の著述にしても、経典や論や釈のお言葉を引いて解説されたり、それらを基に教えを書かれたりということがほとんどです。そこには、体験から知らされた内容ではなく、経典や七高僧方や先哲の釈文から、理屈の上で知らされた内容が書かれているのです。
では、親鸞聖人は「念仏」が「浄土に生るるたね」であると体験から知らされたのかというと、違います。当時まだ聖人は御存命であって、浄土にはお生まれになっていません。一方、阿弥陀仏や浄土については、煩悩が眼をさえぎって見たてまつることができないと仰っています。そんな状態で、どうして凡夫の側から念仏を浄土に生まれるたねだと言えるのかという話です。見たことも往ったこともない浄土が、どうして私達の自覚の上でハッキリするでしょうか。親鸞聖人はよき人法然聖人からの教えを、体験からではなく、そのままわれも信じ私達にもそのまま教えて下さったのです。その信心の表明が『歎異抄』第二条です。凡夫の浅智で分かることはほとんどありません。
ここのところを親鸞会の会員は、信心決定したならば、阿弥陀仏から智恵を賜って相当のことが判ると考えていると思います。信心決定を神秘的なものとして聞かされていますのでそのようにしか考えられないでしょうが、しかし凡夫の浅智は信前信後変わらないのです。よって「知らん」は文字通り「知らん」、「分からん」で、「浄土へ往けるかどうか詳しくは阿弥陀仏か法然聖人にお尋ねになって下さい」ということです。
私達はただ、阿弥陀仏に死後どのような処へ行くのかも含めてすべておまかせするのみです。「他力の信心」とはそういうことです。「往生一定」は、力強い本願力に依るが故に「往生一定」、釈尊や七高僧、先哲の教えから「往生一定」なので、凡夫の側から「極楽参り間違いなしとハッキリする」のとは違うことを知って下さい。
◎のお言葉に戻ります。ここで大事なのは「念仏」です。現代語訳は
念仏は本当に浄土に生まれる因なのか、逆に地獄に堕ちる行いなのか、まったくわたしの知るところではありません。たとえ法然上人にだまされて、念仏したために地獄へ堕ちたとしても、決して後悔はいたしません。
ですが、これはどう見ても、「聞く一つ」と言うより「念仏一つ」と仰っているお言葉です。しかし「念仏一つ」とは高森会長は絶対に言いません。教義が根底から覆されるからです。どこまでも「念仏」についての話は避け続け、邪義を唱え続けています。言うまでもありませんが、『歎異抄』第二条は「往生極楽のみち」は「ただ念仏」であることが教えられているのです。「念仏」を説かずして聖人の教えは分かりません。この直前のお言葉
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。
にあるように、よきひと法然聖人の仰せは
ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし
でした。その仰せを仰せの通りに頂いて、信じて念仏する他に、親鸞何にもございませんというお言葉です。そこから◎のお言葉へとつながるわけですが、「よきひと(法然)の仰せ」も「ただ念仏して」も「信じて」も「弥陀にたすけられまゐらすべし」も何にも分からない高森会長は、分からない部分をすっ飛ばして自分の都合の良い部分だけを切り取り、独自の解釈を加えて「正しい解説」をしているつもりなのでした。
ではどうして「騙されて念仏して地獄へ堕ちても後悔ない」と言えるのかというと、その答えが次です。
そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
念仏以外の善を励んで仏に成れるような身なら、念仏して地獄へ堕ちたら「騙された」という後悔もあるだろう。しかし、どのような行も満足に修めることができない私は、地獄より他に住み家がないのだ、との仰せです。そういう親鸞だから、よき人の仰せをそのまま受けて信じ念仏する他に何にもない、それで地獄へ堕ちても元々地獄なのだから後悔しないと仰っているのです。会員には分からないかも知れませんが、「決して騙されない身になった」からこういうことを仰っているのではなく、信心のありのまま、そのままを語られているのです。我々には他の方便は無く、ただ念仏して浄土に生まれるという教えを、法然聖人から受けて親鸞もそのまま信じている、受け容れているということです。それは
極悪深重の衆生は
他の方便さらになし
ひとへに弥陀を称してぞ
浄土にうまるとのべたまふ(『高僧和讃』源信讃)
のお言葉によってもお判りになるでしょう。
こうした法然聖人、親鸞聖人の教えに対して、高森会長は「念仏」を全く説きません。それどころか、今までは間違ってはいたものの強調していた「信心」も要らない、聞く一つだと宣っています。こんな「念仏」も「信心」も無い、ハッキリスッキリ体験が根拠の高森教をいくら聞く一つと聞き続けても、法然・親鸞聖人と同じ信心になり、同じく念仏して、同じ浄土へ参ることはありません。会員の皆さんは、間違ったオリジナルの『歎異抄』講釈を始めて更に惑わそうとする高森教から離れて、早く「往相の回向」である大行と大信を賜り、本願を信じ念仏して頂きたいと思います。