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いくら親鸞聖人であっても、知らないものは知らない

親鸞会では、獲信したら「さとりの52位」の中、51段高とびして正定聚不退転の明らかな大自覚が起きる、現生で十種の幸せに生かされると言い、仏智満入、仏智全領して相当の事が知らされるかのように説いています。それを聞いて会員は、信心決定すると仏智を体得して相当のことが判ると考えているに違いありません。

よく「さとりの52位」を示し、これを山登りに例えて、登れば登るほど見える範囲が広がってゆき頂上では360度見渡せるというような話が会内でなされます。会員は信心決定の暁には頂上付近から相当の範囲を見渡せるように、51段の高みから今まで分からなかった多くのことがハッキリ分かる、見えるようになると信じ込んでいる節がありますが、残念ながらそうはなりません。獲信しても等覚のさとりを開くわけでも、等覚に等しい智慧を獲るわけでもありません。七高僧方は死後に正定聚に入るとしか仰っていないので、獲信しても冒頭述べたようなことにはなりません。

信心決定しても、智慧のない凡夫は変わりません。それを示されたのが、

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。執持鈔

のお言葉です。「往生という後生の一大事」、「仏智の不思議」は「補処の弥勒菩薩」でさえ判らないのですから、まして況や「凡夫の浅智」で判るわけがないのです。その判らないことを「凡夫の浅智」で判るなんて考えるのは、今生で仏のさとりを開ける、今生で極楽に往生できる、という一益法門の異安心です。

親鸞会は体験談を否定しつつ最後は「一念の体験」にしがみつく「体験至上主義」の集団ですが、もし「念仏」が「まことに浄土に生るるたね」だと体験として知ることができたなら、それは弥勒菩薩を超えて、阿弥陀仏の五劫思惟に智慧が及んだということでしょう。少なくとも「念仏」の果報が現れる死後の世界、浄土に往ったことがあるか、浄土の様相が今現に見えるかしていなくては「体験として知った」とは言えないはずです。

親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人も、極楽が判った、地獄が見えた、とは全く仰っていませんし、判る筈もないのです。もし極楽、地獄が判る、見えるということならば、その人は最低でも定善は容易くできることでしょう。しかし、そのような智慧は親鸞聖人でも体得されていませんでした。ですから、

念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。『歎異抄』第二条

の「総じてもつて存知せざるなり」はその文字通り

知らない

です。いくら親鸞聖人であっても、知らないものは知らないのです。実際のところ、阿弥陀仏の救済の仕組みは阿弥陀仏でなければ判りません。であるから「仏智の不思議」なのです。我々が判る程度の事なら不思議でも何でもありません。ですからここでは、

親鸞は念仏が本当に浄土に生まれるたねか、逆に地獄に堕ちる行いなのかは知らない、判らないが、ただよきひと法然聖人より受けし教えを信じて念仏するほかには何もありません

と言われているのです。そうした親鸞聖人の信心が、この直前の

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。

というお言葉に端的に表れています。無有出離之縁の煩悩具足の凡夫が「ただ念仏」して「浄土に生るる」というのは弥勒菩薩でも到底思慮の及ばない「仏智の不思議」です。そんなことを知りすぎた知らんだと言う人がいたら、その人は仏のさとりを開いた仏陀か、知ったかぶりして覚者を演じる悪知識かのどちらかです。


私は「念仏よりほかに往生のみち」は無いとの法然・親鸞聖人の教えをそのまま受け止め、お念仏を申し浄土を願って生きておりますが、それは本願を信じて念仏すれば仏に成るという理屈、道理がハッキリ理解できてのことではなりません。何にも分からないが、分からんまんま、よきひとの仰せの通り「なんまんだぶ」と念仏を申して本願のはたらきに身も心もおまかせしているだけです。何しろ、サークル活動の延長のような親鸞会の活動も満足に出来ず根を上げてしまう機根最劣の凡夫ですから、このような者は「念仏」以外に手立てがないという善知識方の仰せを聞き受けて信ずることの他に何にもありません。

『歎異抄』は、これほど信心のありのままを顕した書物は無いと言えるとても有難いお聖教ですが、念仏も信心も無い「創価学会の信心」の者が扱えば非常に危険な書物です。これ以上珍説を世間に晒して恥をかき、多くの会員を更に迷わせる前に止めておけばいいものを、幸福のなんとかの真似をしてまた映画を出すそうですから呆れてしまいます。その映画製作に関してまた財施が募られていると思いますが、どれだけ財施したところでそういった活動は「大悲の願船」に乗るには「一切要らない(※)」そうですから、会員の皆さんはよく考えた方がよろしいかと思います。

我々が獲信・往生するには「念仏一つ」、それ以外の行は「一切要らない」捨てものです。その「一切要らない」捨てものを事実上「絶対必要」だと教えるのが高森教です。会員の皆さんはそのような偽の教えを捨て離れ、また「このようにしていかなければ信心決定できないだろう」とか「信心決定したらこうなるはずだ」という高森教で得た概念も捨てて、ただよき人の仰せの通り本願をふたごころなく深く信じて念仏して頂きたいと思います。



【参照】
『飛雲』そろそろ勉強しておかないと、と思いながらまだ何も始めてない高森会長

【追記】
梯 實圓和上「歎異抄二条のこころ」を林遊さんが紹介して下さいましたので、記事上にも載せておきます。
関心のある方はぜひ聴聞されたらよいと思います。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
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プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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