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恥も外聞も無くデタラメ「二河白道の譬え」を説き続け、会員を騙し続ける高森顕徹会長

昨日は高森顕徹会長の話がありました。今までの二通りとは少し違い、

「大悲の願船に乗せて頂くとはどういうことか」
「そんな絶対の幸福があるとは信じられない」


といった映画を観た人(会員?)の感想に対する話でしたが、

『飛雲』あれだけ醜態を曝しながらいまだに二河白道の譬え話をする厚顔無恥な高森顕徹会長

に挙がっている通り何とも厚顔無恥であり、かつ中途半端なものでした。


まずは「死ぬまで求道」に対して「平生業成」の語を出し、

絶対の幸福は、これで求まったということがある

といつも通りの「創価学会の信心」は欠かさず話します。それから、

平生業成の身、絶対の幸福になるにはどうすればよいのか。その道程、道のりを明らかにされている。

として善導大師の「二河白道の譬え」を紹介し、

白道は聞法心を表している

と相変わらずのデタラメ創作教義を披露。しかし、

どこでどのように大悲の願船に乗せて頂けるのか、絶対の幸福になれるのか

善導大師は明らかにされているそうですが、その説明は途中で終わっています。そういえば、先日の降誕会でも高森会長は「譬如日光覆雲霧」の内、太陽(日光)の説明を「明日命があれば話す」とか言っておいて、結局話したのかどうか・・・。もはや一つの話を時間内に完結する能力も無くなっているのかも知れません。


この記事で紹介したように、親鸞会ではデタラメ「二河白道の譬え」を動画にして公開していますから、信前の

阿弥陀仏に救われるまでの心の道のり
信心獲得するまでの求道の道程を示すため


という主張を変えるつもりは毛頭ないでしょう。しかし、本当の「二河白道の譬え」は、信後の

他力の信心を守護する譬え

です。これは、「二河白道の譬え」を信後の真実信心を顕された「信文類」に引文され、自力信心、つまり信前である「化身土文類」には引文されていないという事実からも分かると思います。

このように、まず譬えたものが何か間違っています。だからその後、何もかもが狂ってくるのです。その上、更に高森会長は話を所々改変しています。信前の求道の譬えとし、話自体を変えることで、会員に

煩悩と闘って求道する
求道してゆこうとすると、必ず煩悩が邪魔になる
白道を進んでゆくと、必ず聞法求道をさまたげるものが出てくる

という邪義を植え付け、また会員の苦しい心情を掌握して「高森先生の仰ることに間違いない」と信じ込ませているのです。間違っても「会員の皆さん一人一人の後生を案じて」といった殊勝な心からしていることではないでしょう。もしそうなら、善導大師が

一句一字加減すべからず。 写さんと欲するものは、もつぱら経法のごとくすべし、知るべし。散善義

と記された『観無量寿経疏』のお言葉を勝手に加減・改変するのは考えられないことです。


さて、高森会長のデタラメ「二河白道の譬え」本当の「二河白道の譬え」では相違点がいくつもありますが、中でも違うのはやはり「白道」についての解釈と、

弥陀の招喚の言葉を、いつ、どのようなタイミングで聞くか

でしょう。「白道」については詳しくは『飛雲』をご覧頂くとしますが、少し言わせてもらいますと、聞法心と譬えるからには当然自力の聞法心、自力の信心です。真実の信心を譬えたという本当の譬えとは全く異なります。

さて、当ブログでは後者について再度扱います。

デタラメ「二河白道の譬え」では、釈迦の発遣の言葉は白道に踏み出す前の此岸で聞きますが、弥陀の招喚の言葉は白道を進んでいき、此岸と彼岸の中間ほどで絶体絶命の状態となった時に聞きます。

それに対して本当の「二河白道の譬え」では、釈迦の発遣と弥陀の招喚の言葉を双方とも此岸で聞きます。話の都合上、釈迦の発遣が先で弥陀の招喚は後に書かれていますが、この二尊のお言葉は同時と考えてよいでしょう。ともかく、白道に踏み出す前、此岸で弥陀の招喚の言葉を聞くのであって、白道を進んでいった先で聞くというのは間違いです。

すなはちみづから思念すらく、〈われいま回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり、かならず可度すべし〉と。
この念をなすとき、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く、〈きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。もし住まらばすなはち死せん〉と。
また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。
この人、すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分するに、(後略)


全文は「信文類」二河白道をご覧下さい。三定死、釈迦の発遣、弥陀の招喚、これらは全て白道に踏み出す前のことで、釈迦弥陀二尊の勅命を聞いて旅人は白道を一歩二歩と踏み出していることが分かります。

これは親鸞会流の、白道が聞法心だとか、譬えが信心獲得するまでの求道の道程を示したものだとかいった邪義を完全否定しています。今、ここにいる、この私に真実の教行信証が回向されている、それを今、ここで、この私一人を招喚したもうと聞くのです。煩悩と闘い、「高森の行」に邁進して、心身疲れ果てた先に聞くのとは違います。それは、

しかれば、「一心正念」といふは、正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。一心はすなはちこれ深心なり。(中略)大菩提心はすなはちこれ真実信心なり。浄土文類聚鈔

のお言葉によっても明らかに知られるでしょう。譬えで阿弥陀仏は「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ」と仰せですが、その「一心正念」とは真実信心による念仏です。「真実信心で念仏しなさい」という弥陀の招喚を白道に踏み出す前に聞くのですから、信心を獲るために煩悩と闘い、「高森の行」を修める必要は皆無です。それどころか「高森の行」は助正間雑、雑行、悪業悪行という雑多な行ですから、そんなものに執心して修めている内は弥陀の招喚を聞いて順うなど有り得ません。

〈人、道の上を行いて、ただちに西に向かふ〉といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。

とあるように、<道の上をまっすぐに西へ向かう>というのは、自力の行をすべてふり捨てて、ただちに浄土へ向かうことをたとえたものですから、「高森の行」など反って邪魔なだけです。ただちに捨てるべきものです。


以下、簡単ではありますが、高森会長のデタラメ「二河白道の譬え」本当の「二河白道の譬え」の相違点を挙げておきます。譬え話を勝手に加減・改変しているのは、会員の皆さんにより判り易くするためとかではなく、「高森の教」を真実と信じ込ませて「高森の行」を効率よくやらせるため、要は高森会長の私利私欲を満たすためです。

会員の皆さんは、原文をよく読んで、双方の違いをよく理解して下さい。そして、ただちに「高森の行」を捨て、「必ず助けるから、安心してまかせなさい」という阿弥陀仏の仰せをそのまま受け容れて念仏して下さい。


(1)二河白道の譬えとは

親鸞聖人 信後の、他力の信心を守護する譬え
――――――――――――――――――――――
高森会長 信前の、絶対の幸福になるまでの道のり


(2)白道とは

親鸞聖人 真実の信心
――――――――――――――――――――――
高森会長 (自力の)聞法心


(3)弥陀の招喚の言葉を、いつ、どのようなタイミングで聞くか

親鸞聖人 白道に踏み出す前、此岸で聞く
――――――――――――――――――――――
高森会長 白道を進んでいった先、此岸と彼岸の中間ほどで聞く


(4)信心を獲るために、煩悩と闘い、「高森の行」を修める必要はあるか

親鸞聖人 無い
――――――――――――――――――――――
高森会長 ある




【参照】
「信文類」二河白道
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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