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【考察】なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか(1)

これから何回かに分けて「行文類」の「大行」について考察してみたいと思います。というのも、称名報恩といっても念仏は信後報謝としての意味ばかりではないだろう、それでは俺の腹はふくれない、という考えからです。

確かに本願に対して疑蓋無雑の「信心」が往生の正因だから、「称名」は行者の心持ちからしたら報恩感謝の意だと言われるのも分かります。蓮如上人の『御文章』を読んでいますと、このことばかりが書かれています。それはその通りなんだけれども、だとしたら「信心」が先で「称名」は後ではないか。また助かるだけで言ったら「信心」ばかりで「称名」は要らないということになりはしないか。まだまことの信心の行者ならいいが、素人がちょっと聞くと「信前の念仏は全て自力の念仏」「称えても無意味なもの」と捉え、「称名」を敬遠し廃することになりはしないか。

ところが『教行証文類』では「信心」に先駆けて「称名」すなわち「」が説かれている。そして、

名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。「行文類」 経文結釈「破闇満願」

と、「称名」に我々の一切の無明を破り、一切の志願を満たして下さるはたらきがある。「称名」すなわち「最勝真妙の正業」、正しく往生が決定する行業だと仰っています。蓮如上人とは教え方が随分と違っています。

もしお念仏が親鸞会の言うようにただの「お礼」であれば、ちっとも、というのは言い過ぎだけれども、有難くありません。しかし、私はお念仏を称えていると法の喜びが多くなり、本願のはたらきを感じられます。一声一声が「淳心房を救うぞ」という呼び声であり、後生を安心させて頂くと共に、何とかこの本願を伝えたいという気持ちも起きてきます。お念仏が信後報謝の意味しかないとしたら、なぜこんなに有難いのだろうか。

また、南無阿弥陀仏と称えることが単に「お礼」ということならば、どうして南無阿弥陀仏を本尊にして崇め奉るのか不明です。私達が拠り所とし、根本に尊ぶべきものが本尊であるはずなのに、「お礼」の言葉を本尊として掲げるというのはちとおかしくはないか。

まだあります。親鸞聖人のお言葉として『歎異抄』後序には

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします

と書かれています。「信心」が正因で「称名」に「お礼」の意味しかないとしたら、なぜ「ただ念仏のみぞまこと」と仰ったんだろうか。「ただ信心のみぞまこと」とか、あるいは「ただ本願のみぞまこと」「ただ名号のみぞまこと」とは仰らずに、どうして「ただ念仏のみぞまこと」と仰ったんだろうか。

親鸞聖人は、ただ南無阿弥陀仏の名号が「大行」であるというのでなしに、

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり大行釈

と、無碍光如来の名を称すること、南無阿弥陀仏の名号を称えることが「大行」だと仰っています。これが私達の口に称えられる念仏でないとしたら一体何だ。御開山の釈に合わないじゃないか。

もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。

総序のお言葉でも判るように、親鸞聖人は「信心」だけではなく「」を一緒に教え、「奉へ」よとお勧めです。

なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか? ここが分からないとお念仏の持つ意味合いが軽くなり、その有難みも薄れ、場合によっては無くなってしまう気がします。この謎を紐解くことが、如来広大の恩徳をより深く重く受け止め、味わうことにつながるだろうと思います。そこで私なりに様々な文献を参照しつつ、少しずつ区切って考察していこうと考えています。


何せ私は親鸞会時代に全くデタラメな教義を吹き込まれてきました。特に「」については第19願の「諸功徳」、『観経』顕説の「定散二善」、七仏通戒偈の「諸悪莫作 衆善奉行」、仏教の根幹、因果の道理の結論であるという「廃悪修善」、『浄土和讃』の「往生浄土の方便の善」、『御文章』の「宿善」等を根拠に

・高森顕徹会長の話を自力で命がけで聞くこと
・親鸞会に献金(財施)すること
・親鸞会に人を誘う(破邪顕正する)こと
・高森顕徹会長及び上司の指示に無条件で従うこと


およそこれらに代表される行為を「」だとし、「横の道を進む手段」「縦の線(信心獲得)に近づく手段」として勧められてきました。それらが獲信・往生に無関係であるだけでなく、「本願力回向」「往相回向」に真っ向から反することも知らずに。一方で、「念仏は信後報謝に限る」「信前も信後も念仏はお礼」と教えられ、成就文には「念仏がないから信心一つ」などと言われてきたものですから、救われるには関係の無いもの、意味の無いものと思って勤行や法話の前後位しか「称名」はせず、敬遠してきました。

またこんなこともありました。学生時代の夏合宿で『一枚起請文』のお言葉

ただ極楽往生のためには、南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思いとりて申すほかには、別の子細そうらわず。

を覚えようと読んでいたところ、大学院生と思われる他大学の先輩から「それじゃ称名正因の異安心だよ」と言われてしまったのです。この御文は親鸞会発行『教学聖典(8)』の中に載っていたのでそのことを告げると先輩は「あぁそうなのか」と言っていましたが、先輩の理解も自分と同様に「信前の称名は救われるために無意味」というものだったのでしょう。

それでいて上述した「高森の行」は「救われるまでに絶対に必要なもの、つまり意味のあるもの」と思って重視していました。振り返ると、信前の念仏は「無善根・無功徳・無福徳因縁」で意味のないもの位にとらえていたかも知れません。信後の自然法爾の念仏、心の底から吹き上がる報謝の念仏でなければならない、いくら称えていても助からない、逆に称え過ぎると「称名正因の異安心」に陥ってしまう恐れがあるから、あまり一生懸命称えない方がよいと考えていました。


このように、『教行証文類』と『御文章』の教え方の相違、「」についての理解がめちゃくちゃだったこと等から、改めて「真実行」について考えてみようと思ったのでした。これだけで随分長くなってしまったので、「行文類」に入るのは次回からにしますが、それにしても「行文類」は難しいです。しかし、だからこそ噛み締めて味わうほどよく味が出てくる。『御文章』も有難いが、遡り「行文類」に至ってようやくお念仏申す有難さが味わわれます。

今までお念仏をそれほど称えて来なかったことの口惜しさよと思いますが、これが阿弥陀さまのお育てかも知れませんし、今から縁に触れ折に触れ申してゆけばいい話ですね。また、どんな言葉巧みに話すよりも、有難い、おかげさまでとなんまんだぶ、なんまんだぶとお念仏申してゆくのが、本願が弘まってゆく真宗繫昌の根本かとも最近よく思われます。と言っても、言葉にしなければそのこころを伝えることはできませんから、どちらも大切ですね。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【後書】
『大悲にふれて』「お礼の念仏」は間違い ②

にありますが、「御恩報謝=お礼」と解釈するのはあまり適切ではないと思います。
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プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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