親鸞会会員の誤解ー絵像や木像は間違った真宗の御本尊
頂いた情報では、来年には次の親鸞会製作の映画が出来るそうです。また会員を総動員して偽装ロングヒットさせるのでしょうね。あの年になっても新たなことをやり続ける高森会長のバイタリティーだけは称讃に値しますが、これ以上デタラメ創作教義をまき散らすのは止めてもらいたいものです。
それと23日(日)は富山で高森顕徹会長の話があったそうです。飛雲さんが挙げておられないことからご想像の通り、特に取り上げる価値も無い、毎度毎度の「絶対の幸福」話でした。幻想的な楽、ハッキリスッキリ体験が目当ての会員は勿論「現当二益」は得られません。そして後生の一大事の解決を目的としている会員でさえ、ベクトルが違う上に邪偽の教行信証を授けられているので「現当無益」は必至です。縦の線に近づいている、横の線の道を進んでいると思い込んで騙されている会員はどこまでも哀れ哀れです。
さて、ここから本日の本題に入っていきたいと思います。この記事を書こうと思ったきっかけは
「あながち間違っていない」というのが大問題
の記事に頂いた名無しさんからのコメントです。まぁその内容は何とも情けなく、親鸞会を批判するな、それよりあっちはどうなんだと本願寺や寺の僧侶を挙げて批判の矛先を別に向けろとでも言いたげなものです。
タイトルに示している通り、「親鸞会教義の誤りを紹介する」というのが当ブログの目的の一つです。本願寺や寺の僧侶の話は別問題ですし、親鸞会の与える社会的害悪の方が当然大きいので、私としては親鸞会が無くなるか、団体名から「浄土真宗」「親鸞」の名を外すかしない限りは教義批判をやめるつもりはありません。
で、名無しさんのことは置いておいて、今回取り上げたいことは
「絵像や木像は間違った真宗の御本尊」
という親鸞会会員の誤解です。どうも会員は、絵像や木像を本尊にしていては助からない、絵像や木像を本尊にしている本願寺の僧侶も門徒も信心獲得していない、と思っている節があります。まず申し上げておきます。阿弥陀如来の絵像や木像は、浄土真宗の御本尊であって間違いではありません。親鸞会は本願寺攻撃の唯一と言っていい足掛かりとして、この本尊の問題を執拗に取り上げているだけです。
親鸞会では、
・本尊なほもつて『観経』所説の十三定善の第八の像観より出でたる丈六八尺随機現の形像をば、祖師あながち御庶幾御依用にあらず。天親論主の礼拝門の論文、すなはち「帰命尽十方無礙光如来」をもつて真宗の御本尊とあがめましましき。(『改邪鈔』(2) 一 絵系図と号して、おなじく自義をたつる条、謂なき事。)
・他流には、名号よりは絵像、絵像よりは木像といふなり。当流には、木像よりは絵像、絵像よりは名号といふなり。 (『御一代記聞書』(69))
等を根拠に
・親鸞聖人は名号のみを本尊とされ、絵像や木像は排斥された
・そのためにそれまで掲げられていた弥陀三尊の絵像などもすべて捨て去り、名号本尊を徹底された
・蓮如上人も親鸞聖人同様、名号のみを本尊にされ、絵像や木像は廃された
などと主張しています。この親鸞会の主張が間違いであることは、既に
・『あさ川進の、宗教と私』(参考資料)「親鸞会の本尊論を再考する」(1)
・『元会員から見た浄土真宗親鸞会』親鸞会の本尊論について
等で取り扱われています。なお、親鸞会では「何事も何事も親鸞聖人のなされた通りにせよ」とうるさいですが、本当に何事も何事も親鸞聖人のなされた通りにするのなら、現存する親鸞聖人御真筆の名号は十字名号、「帰命尽十方無碍光如来」が一番多いそうですから、それに倣って十字名号を本尊とすべきです。
ちなみに、正しい本尊だと思って会員の皆さんが礼拝合掌している親鸞会の本尊は、貼り合わせの偽造本尊であることが既に明らかになっています。 ⇒ 『用管窺天記』コピー&ペースト正本尊
林遊さんのご指摘の通り、
切り抜き貼り付けのコラージュ偽造の本尊を会員にレンタルしてたなんて、会長は切腹もの
と私も思います。
それにしても、絵像、木像とは言え阿弥陀如来を「排斥された」、「すべて捨て去り」、「廃された」と教えるとは、親鸞会は日蓮系の新興宗教そのものです。「絶対の幸福」「正本堂」等の用語もかの団体のパクリですから、名実ともに謗法罪の集団です。その証拠に、阿弥陀如来のご絵像を
「気持ちが悪いもの」
と誹謗する講師部員があったと嶋田元講師は証言しています。
「名号が仏心の表象であれば、形像もまた仏心の顕現に他ならぬ」とはまことその通りです。名号も形像も、共に「必ず助けるから、安心してまかせなさい」という仏心、南無阿弥陀仏の六字のこころを、字で、すがたで顕したものです。それを形にこだわり、名号本尊にのみ固執しているのが親鸞会です。
名号本尊が一番良いことは珍しく正しいのですが、「絵像や木像は間違った真宗の御本尊」というのは誤りです。もしそうなら、親鸞聖人以前の高僧方は何を本尊とされていたか。親鸞会に言わせれば「木像や絵像本尊を排して名号本尊となされたのは、親鸞聖人が最初であった」そうですけど、なら七高僧方は間違った本尊を礼拝・起行の対象としていたのか。そのような七高僧方の信心は正しくないのか。蓮如上人に言わせれば、七高僧方は「他流」だというのか。「他流」のことを親鸞会では「地獄行きの人々」などと言ったりするが、七高僧方は「地獄行きの人々」なのか。
また、山科本願寺に木像を据えられたり、門徒に絵像や木像を下付されたりしたこともある蓮如上人はどうなるのか。名号のみを本尊とし、門徒にも下付されていない蓮如上人も「他流」「地獄行きの人々」の仲間なのか。
更に言えば、高森顕徹会長やそのお母さんのいた寺の本尊はどうなのか。谷口春子さんのいた寺は名号本尊ではないようだが、彼らは親鸞会ではお墨付きの獲信者だ。彼らも「他流」「地獄行きの人々」の仲間なのか。
・・・と、このような問題に発展してしまいます。親鸞会は極端すぎるんです。
でも、そうしないと本願寺攻撃の足掛かりを失うので絶対にその主張を曲げません。高森会長は会員の獲信・往生は眼中に無く、「打倒本願寺」を目的に生きてきたような人物ですから、とにかく本願寺が困るようなことばかりするのです。かつての本願寺座り込み事件しかりです。そして、都合の悪いことには答えませんし、本願寺の主張を会員に故意に捻じ曲げて伝え、さも高森会長、親鸞会が正しいように偽装しています。やっていることが実に幼稚です。やり方がお隣の国と同じだ、と言えば失礼でしょうか。
本尊が名号だから救うとか、絵像・木像本尊だから救わないなんて、そんな差別は阿弥陀如来には一切ありません。名号のいわれを聞く、阿弥陀如来の御姿を拝してそのこころに気付かせて頂くことが大事なんです。
参考までに西本願寺の見解はこうです(『浄土真宗本願寺派』よくある質問 >ご本尊は?より)。
Q.ご本尊は?
A.阿弥陀如来です。「阿弥陀(あみだ)」とは、インドの言葉「アミターバ」(無量光(むりょうこう))、「アミターユス」(無量寿(むりょうじゅ))の「アミタ」(無量)を音写した言葉です。阿弥陀如来とは、「無量光」と空間的に制約のない救済活動を表し、「無量寿」と時間的に制約のない救済活動を表しています。無限にすくいを届けられる仏さまなのです。
この阿弥陀如来を表して親鸞聖人は南無阿弥陀仏、帰命尽十方無礙光如来、南無不可思議光如来などの名号を書かれました。これが「名号本尊」「尊号」と呼ばれるものです。また、阿弥陀如来をお姿で表したご本尊が「絵像」や「木像」です。
これらのご本尊は、苦悩の底に沈み、自ら抜けきることのできない者のために、阿弥陀仏の方から、その中に入りこみ苦悩の者を助けるという阿弥陀如来の究極的なお慈悲のはたらき(本願他力)を表したものです。
ご家庭のお仏壇は、ご本尊を安置し、私が阿弥陀仏のお慈悲にあい、気付かせていただく場です。「うちには亡くなった人がいないから、仏壇はまだいらない」というのは誤りです。
名号に限らず、絵像や木像も「苦悩の底に沈み、自ら抜けきることのできない者のために、阿弥陀仏の方から、その中に入りこみ苦悩の者を助けるという阿弥陀如来の究極的なお慈悲のはたらき(本願他力)を表し」ています。私達は名号や形像を通してその究極的なお慈悲のはたらきに気付かせて頂くことが大事なのです。
その大事なことを高森会長は教えません。やれ因果の道理だ、やれ廃悪修善だ、やれ19願だ、やれ修諸功徳だ、やれ定散二善だ、やれ光に向かって進めだ、やれ善をしなければ信仰は進みませんだとか言って、名号のいわれ、形像に込められた阿弥陀如来のこころを正しく説きません。こんな諸行往生もどきの外道の教えをまともに聞いていて、会員の皆さんが正しい信心も安心もあるわけないじゃないですか。
形にこだわり、本質を見失っている。それどころか、デタラメ創作教義にまみれているのが親鸞会です。会員の皆さんは、高森会長の本心が皆さんの獲信・往生とは別にあると早く気付き、邪義とは決別して、浄土真宗の正意に基づいて頂きたいと思います。
それと23日(日)は富山で高森顕徹会長の話があったそうです。飛雲さんが挙げておられないことからご想像の通り、特に取り上げる価値も無い、毎度毎度の「絶対の幸福」話でした。幻想的な楽、ハッキリスッキリ体験が目当ての会員は勿論「現当二益」は得られません。そして後生の一大事の解決を目的としている会員でさえ、ベクトルが違う上に邪偽の教行信証を授けられているので「現当無益」は必至です。縦の線に近づいている、横の線の道を進んでいると思い込んで騙されている会員はどこまでも哀れ哀れです。
さて、ここから本日の本題に入っていきたいと思います。この記事を書こうと思ったきっかけは
「あながち間違っていない」というのが大問題
の記事に頂いた名無しさんからのコメントです。まぁその内容は何とも情けなく、親鸞会を批判するな、それよりあっちはどうなんだと本願寺や寺の僧侶を挙げて批判の矛先を別に向けろとでも言いたげなものです。
タイトルに示している通り、「親鸞会教義の誤りを紹介する」というのが当ブログの目的の一つです。本願寺や寺の僧侶の話は別問題ですし、親鸞会の与える社会的害悪の方が当然大きいので、私としては親鸞会が無くなるか、団体名から「浄土真宗」「親鸞」の名を外すかしない限りは教義批判をやめるつもりはありません。
で、名無しさんのことは置いておいて、今回取り上げたいことは
「絵像や木像は間違った真宗の御本尊」
という親鸞会会員の誤解です。どうも会員は、絵像や木像を本尊にしていては助からない、絵像や木像を本尊にしている本願寺の僧侶も門徒も信心獲得していない、と思っている節があります。まず申し上げておきます。阿弥陀如来の絵像や木像は、浄土真宗の御本尊であって間違いではありません。親鸞会は本願寺攻撃の唯一と言っていい足掛かりとして、この本尊の問題を執拗に取り上げているだけです。
親鸞会では、
・本尊なほもつて『観経』所説の十三定善の第八の像観より出でたる丈六八尺随機現の形像をば、祖師あながち御庶幾御依用にあらず。天親論主の礼拝門の論文、すなはち「帰命尽十方無礙光如来」をもつて真宗の御本尊とあがめましましき。(『改邪鈔』(2) 一 絵系図と号して、おなじく自義をたつる条、謂なき事。)
・他流には、名号よりは絵像、絵像よりは木像といふなり。当流には、木像よりは絵像、絵像よりは名号といふなり。 (『御一代記聞書』(69))
等を根拠に
・親鸞聖人は名号のみを本尊とされ、絵像や木像は排斥された
・そのためにそれまで掲げられていた弥陀三尊の絵像などもすべて捨て去り、名号本尊を徹底された
・蓮如上人も親鸞聖人同様、名号のみを本尊にされ、絵像や木像は廃された
などと主張しています。この親鸞会の主張が間違いであることは、既に
・『あさ川進の、宗教と私』(参考資料)「親鸞会の本尊論を再考する」(1)
・『元会員から見た浄土真宗親鸞会』親鸞会の本尊論について
等で取り扱われています。なお、親鸞会では「何事も何事も親鸞聖人のなされた通りにせよ」とうるさいですが、本当に何事も何事も親鸞聖人のなされた通りにするのなら、現存する親鸞聖人御真筆の名号は十字名号、「帰命尽十方無碍光如来」が一番多いそうですから、それに倣って十字名号を本尊とすべきです。
ちなみに、正しい本尊だと思って会員の皆さんが礼拝合掌している親鸞会の本尊は、貼り合わせの偽造本尊であることが既に明らかになっています。 ⇒ 『用管窺天記』コピー&ペースト正本尊
林遊さんのご指摘の通り、
切り抜き貼り付けのコラージュ偽造の本尊を会員にレンタルしてたなんて、会長は切腹もの
と私も思います。
それにしても、絵像、木像とは言え阿弥陀如来を「排斥された」、「すべて捨て去り」、「廃された」と教えるとは、親鸞会は日蓮系の新興宗教そのものです。「絶対の幸福」「正本堂」等の用語もかの団体のパクリですから、名実ともに謗法罪の集団です。その証拠に、阿弥陀如来のご絵像を
「気持ちが悪いもの」
と誹謗する講師部員があったと嶋田元講師は証言しています。
「名号が仏心の表象であれば、形像もまた仏心の顕現に他ならぬ」とはまことその通りです。名号も形像も、共に「必ず助けるから、安心してまかせなさい」という仏心、南無阿弥陀仏の六字のこころを、字で、すがたで顕したものです。それを形にこだわり、名号本尊にのみ固執しているのが親鸞会です。
名号本尊が一番良いことは珍しく正しいのですが、「絵像や木像は間違った真宗の御本尊」というのは誤りです。もしそうなら、親鸞聖人以前の高僧方は何を本尊とされていたか。親鸞会に言わせれば「木像や絵像本尊を排して名号本尊となされたのは、親鸞聖人が最初であった」そうですけど、なら七高僧方は間違った本尊を礼拝・起行の対象としていたのか。そのような七高僧方の信心は正しくないのか。蓮如上人に言わせれば、七高僧方は「他流」だというのか。「他流」のことを親鸞会では「地獄行きの人々」などと言ったりするが、七高僧方は「地獄行きの人々」なのか。
また、山科本願寺に木像を据えられたり、門徒に絵像や木像を下付されたりしたこともある蓮如上人はどうなるのか。名号のみを本尊とし、門徒にも下付されていない蓮如上人も「他流」「地獄行きの人々」の仲間なのか。
更に言えば、高森顕徹会長やそのお母さんのいた寺の本尊はどうなのか。谷口春子さんのいた寺は名号本尊ではないようだが、彼らは親鸞会ではお墨付きの獲信者だ。彼らも「他流」「地獄行きの人々」の仲間なのか。
・・・と、このような問題に発展してしまいます。親鸞会は極端すぎるんです。
でも、そうしないと本願寺攻撃の足掛かりを失うので絶対にその主張を曲げません。高森会長は会員の獲信・往生は眼中に無く、「打倒本願寺」を目的に生きてきたような人物ですから、とにかく本願寺が困るようなことばかりするのです。かつての本願寺座り込み事件しかりです。そして、都合の悪いことには答えませんし、本願寺の主張を会員に故意に捻じ曲げて伝え、さも高森会長、親鸞会が正しいように偽装しています。やっていることが実に幼稚です。やり方がお隣の国と同じだ、と言えば失礼でしょうか。
本尊が名号だから救うとか、絵像・木像本尊だから救わないなんて、そんな差別は阿弥陀如来には一切ありません。名号のいわれを聞く、阿弥陀如来の御姿を拝してそのこころに気付かせて頂くことが大事なんです。
参考までに西本願寺の見解はこうです(『浄土真宗本願寺派』よくある質問 >ご本尊は?より)。
Q.ご本尊は?
A.阿弥陀如来です。「阿弥陀(あみだ)」とは、インドの言葉「アミターバ」(無量光(むりょうこう))、「アミターユス」(無量寿(むりょうじゅ))の「アミタ」(無量)を音写した言葉です。阿弥陀如来とは、「無量光」と空間的に制約のない救済活動を表し、「無量寿」と時間的に制約のない救済活動を表しています。無限にすくいを届けられる仏さまなのです。
この阿弥陀如来を表して親鸞聖人は南無阿弥陀仏、帰命尽十方無礙光如来、南無不可思議光如来などの名号を書かれました。これが「名号本尊」「尊号」と呼ばれるものです。また、阿弥陀如来をお姿で表したご本尊が「絵像」や「木像」です。
これらのご本尊は、苦悩の底に沈み、自ら抜けきることのできない者のために、阿弥陀仏の方から、その中に入りこみ苦悩の者を助けるという阿弥陀如来の究極的なお慈悲のはたらき(本願他力)を表したものです。
ご家庭のお仏壇は、ご本尊を安置し、私が阿弥陀仏のお慈悲にあい、気付かせていただく場です。「うちには亡くなった人がいないから、仏壇はまだいらない」というのは誤りです。
名号に限らず、絵像や木像も「苦悩の底に沈み、自ら抜けきることのできない者のために、阿弥陀仏の方から、その中に入りこみ苦悩の者を助けるという阿弥陀如来の究極的なお慈悲のはたらき(本願他力)を表し」ています。私達は名号や形像を通してその究極的なお慈悲のはたらきに気付かせて頂くことが大事なのです。
その大事なことを高森会長は教えません。やれ因果の道理だ、やれ廃悪修善だ、やれ19願だ、やれ修諸功徳だ、やれ定散二善だ、やれ光に向かって進めだ、やれ善をしなければ信仰は進みませんだとか言って、名号のいわれ、形像に込められた阿弥陀如来のこころを正しく説きません。こんな諸行往生もどきの外道の教えをまともに聞いていて、会員の皆さんが正しい信心も安心もあるわけないじゃないですか。
形にこだわり、本質を見失っている。それどころか、デタラメ創作教義にまみれているのが親鸞会です。会員の皆さんは、高森会長の本心が皆さんの獲信・往生とは別にあると早く気付き、邪義とは決別して、浄土真宗の正意に基づいて頂きたいと思います。