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南無阿弥陀仏のことについて触れておきながら、「私たちを絶対の幸福にするはたらきがある」と、どこまでも創価学会の信心は外さない高森顕徹会長

日曜日の高森顕徹会長の話は、いつもと違って

「映画『なぜ生きる』で、自ら命を投げ出した了顕を見ると、命よりも大切なものがあるように感じました。仏教では、なぜ人の命は尊いと教えられるのでしょうか。」

という演題についてでした。内容の一部は既に

『飛雲』 『阿弥陀経』を読んだことがあっても意味は知らない高森顕徹会長

に紹介されています。当ブログでも頂いた情報を基に今回どんな話があったか紹介したいと思います。

まず人の命は尊い、人命は地球より重いということを、盲亀浮木の譬えや「人身受け難し」、横川法語のお言葉を挙げて説明しています。それは人間に生まれなければ果たせない大事な目的があるからで、その人間に生まれた目的、「なぜ生きるか」を教えられたのが仏教。それは「絶対の幸福」になることだというおなじみの話がされたようです。その後、

南無阿弥陀仏には私たちを絶対の幸福にするはたらきがある。
釈迦は南無阿弥陀仏を頂いて絶対の幸福になると教えられている。
ところが「仏法聞き難し」と言われ、南無阿弥陀仏の法は聞き難い。


などという話から、『阿弥陀経』に説かれる六方諸仏の証誠のお言葉を挙げて話をしています。加えて

利他の信楽うるひと『高僧和讃』(79))は信心獲得した人、絶対の幸福になった人

と説明し、獲は現益、得は当益と無理やり現当二益を結び付け、

それまで(絶対の幸福になるまで)重ねて聞きなさい

と言ってまたしても救いはお預けの話でした。「生きる目的」を伝える『教行信証』の証の巻を命を投げ出して守ったのが了顕だとのことでしたが、聞く者にいつまでも大事な「生きる目的」というのを果たさせない高森顕徹という人物には憤りしか感じません。『教行信証』もまともに読んだことがない高森会長は、「生きる目的」という親鸞聖人が直接論じていないことを論じ、目的達成に向けて進んで行きましょうという方向で話をしています。これが本願力回向という真宗の要の教義に真っ向から反していることを会員の皆さんは早く知るべきでしょう。


そんな人物を無二の善知識だと勘違いしているところにいつまでも騙され続ける要因があります。親鸞聖人が教える浄土真宗の救いは、今であり、ここであり、この私を救うというものです。高森会長の話では、平成業成と言いながら救いは聞き続けていった未来、求め続けていった未来であって「今」ではありません。また、救いは光に向かって進んでいった処であって「ここ」ではありません。そして、宿善を求めて厚くなった人、三願転入の道を進んで決勝点にたどり着いた人が救われるんであって、「今」「ここ」にいる「この私」は救われません。

本願は成就して南無阿弥陀仏と成り、今、私の上にはたらいています。それは昨日の話でもなければ明日の話でもなく、今日、「今」の話です。また、私のいないどこかの世界で空転しているのではなくて、今、私がいる「ここ」ではたらいているんです。そして、何かの行をやっていって救われるに値する人物をでもなくて、抱えきれない罪業を抱えてどうすることもできないでいる「この私」を仏にするとはたらいているんです。

はたらいているのになぜ救われないのか。計らいが邪魔をしているんです。自力心が邪魔をしているんです。自分には後生なんてとても手に負える問題じゃないと素直に手を放して如来におまかせすればいいのに、何もしなくていいなんてそんなわけがない、それでは無力(むりき)だ、それでは救われるはずがないと計らっているから本願のはたらきを受け容れられずにいるのです。

南無阿弥陀仏というのは、もうこの阿弥陀はお前を仏にする仏に成ったよ、だから安心してまかせなさい、と我々に救いを告げている名乗りです。要は南無阿弥陀仏とは

阿弥陀仏がこの私目がけて「助けるぞー」と喚んでおられる声

なのです。この「助けるぞ」の仰せを聞くのがすなわち信、喚び声が心に届いたのが信心です。この如来招喚の勅命の他に信心はありません。また、この如来の仰せが口に出れば念仏です。念仏は、私を必ず往生させるという本願のはたらきがそのまま出てきたのであって、我が計らいの心をもって往生を祈願する自力の念仏とは違います。本願の仰せを疑いなく受け容れ、はたらきのまま出てくる自然法爾の念仏です。

成就した南無阿弥陀仏の名号が心に届いたら南無阿弥陀仏という信心、口に出れば南無阿弥陀仏という念仏で、真宗はどこまでも南無阿弥陀仏以外にはありません。だから蓮如上人は、

当流の安心の一義といふは、ただ南無阿弥陀仏の六字のこころなり。たとへば南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏のたすけたまへるこころなるがゆゑに、「南無」の二字は帰命のこころなり。「帰命」といふは、衆生の、もろもろの雑行をすてて、阿弥陀仏後生たすけたまへと一向にたのみたてまつるこころなるべし。このゆゑに衆生をもらさず弥陀如来のよくしろしめして、たすけましますこころなり。
これによりて、南無とたのむ衆生を阿弥陀仏のたすけまします道理なるがゆゑに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、すなはちわれら一切衆生の平等にたすかりつるすがたなりとしらるるなり。されば他力の信心をうるといふも、これしかしながら南無阿弥陀仏の六字のこころなり。このゆゑに一切の聖教といふも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなりといふこころなりとおもふべきものなり。
『御文章』5帖目9通

それ、南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わづかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきはまりなきものなり。されば信心をとるといふも、この六字のうちにこもれりとしるべし。さらに別に信心とて六字のほかにはあるべからざるものなり。『御文章』5帖目13通

等と仰って繰り返し南無阿弥陀仏の六字のこころを説き示されています。下線部は一昨日の話の中で出てきた根拠のようですが、その前後に大事な南無阿弥陀仏の六字のこころが説かれているのです。全くもって会員の皆さんは大事なところを教えられていません。これは故意に教えられていないと言わざるを得ません。

蓮如上人は宿善だ三願転入の教えだなどと言って、19願や定散二善を根拠に善(もどきの善)をやれなんて一言も言われてないんです。「弥陀をたのめ」、つまり本願のはたらきにおまかせして念仏せよ、これしか仰っていないんです。高森会長が邪義をまき散らして『阿弥陀経』の顕説にも反することを説いているのは飛雲さんの記事に書かれている通りです。


せっかく南無阿弥陀仏のことについて触れておきながら、

私たちを絶対の幸福にするはたらきがある

と、どこまでも創価学会の信心は外さないとは・・・。自利の一心でもない信心と雑行とを勧める高森会長には浄土真宗を説く気がないことは明白です。会員の皆さんには、今回挙げられた『御文章』の前後に目をつけ、南無阿弥陀仏の六字のこころを聞き受けて、本願のはたらきにまかせてお念仏して頂きたいと思います。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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