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【考察】念仏往生の法義と信心正因、平生業成について(3)

桐谷順忍和上は次のように仰せと紹介されています。

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では、どうして衆生の称名が諸仏の称名(名号)と不二になるのかというに、その重要な表現の一に「称即名とまきあがる」というものがある。それがこの学轍の不二の最要の表現であるとも思われるのである。それは衆生の称名がそのまま諸仏の称名である名号と「位が同じく」なるという意味であり、自分の称えた称名がそのまま聴聞の名号の位にまきあがるのだと主張するのである。
ここに空華学轍のいう「称名」の意味が、善導・法然によって説かれてきた、称名念仏と、称名の意味、念仏の意味が大いに異なるものがあることに注意しなければならないのである。すなわち、行巻の「称無碍光如来名」とは、無碍光如来のみ名を称えることではあるが、それは在来、日本浄土教で用いられて来た称名ではなく、自分の口から出て下さる南無阿弥陀仏ではあるが、それは行巻で示される「本願招喚の勅命」としての南無阿弥陀仏とするのである。

だから、この六字釈の意味からいえば「称無碍光如来名」の称名は、信後の報恩の称名ではなく、自分の口から出るものではあるが阿弥陀如来が「我に帰せよ」の招喚の勅命であり、自分にとっては聞きものという立場に立つものである。この意味で「称即名とまきあがる」というのである。

この行巻の六字釈がなければ、諸仏の称名と衆生の称名とが不二一体であるという意味が、十分理解することが出来ないのではないか。名号が称えられているのだから、能称と所称とが不二だといわれても十分ではないが、私の称名が単なる仏名を称するものではなく、如来のよび声であり、本願招喚の勅命であり、称えながら聞きものである場合でハッキリと称即名といえるのである。
それは諸仏の称名は、私にとって聞きものである。もし私の口から出て下さる南無阿弥陀仏が如来のよび声であったら、私の口から出るものではあるが、私にとっては「聞きもの」である。諸仏の称名も聞きものであり、私の称名も聞きものであるという立場にたったとき、はじめて純粋に「私の称名」が「諸仏の称名」と不二一体になるのである。そこにはじめて能所不二であり、しかも、所称の法体の名号を大行という説が成立するのである。
空華学轍の思想/桐谷順忍
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和上は、親鸞聖人の六字釈によって「諸仏の称名と衆生の称名とが不二一体である」ことが分かると仰っています。「自分の称えた称名がそのまま聴聞の名号の位にまきあがる」、つまり念仏を称えるというのは、私の口から出て下さるなんまんだぶを「本願招喚の勅命」として聞くことであるというのです。ですから念仏を称えるとは、本願の名号を聴聞するのと同じ、「称名」=「聞其名号」というわけですから、空華学派でも

そのまま聴聞の名号の位にまきあがる

という意味での称名念仏は勧められていることが分かります。どなたかのように六字釈によって

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

ことが分かるなどとは、上の文章内はもちろん、リンク先を全文読んでも欠片も見当たりません。


阿弥陀仏が17願において諸仏讃嘆の名号を誓われ、諸仏に称揚称讃せしめているのは、私に聞かせて称えさせるためでしょう。この無碍光如来の名号に破闇満願のはたらきがあるのだから、その名義にかなって称える我々の称名にまた破闇満願のはたらきがあると親鸞聖人は教えられたのです。

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。「行文類」破闇満願

こうした破闇満願のはたらきのある、浄土往生の正しき行業である称名念仏一行を本願の行として選び択られたのは他ならぬ阿弥陀仏です。私が選んで称えているのではなく、阿弥陀仏が選んで称えさせているのです。私が称えたから往生の業となるのではなく、阿弥陀仏が往生の業となるように選び択って与えて下さった行だから、自然に往生の業となって下さるのです。これを法然聖人は『選択集』不回向回向対にて

正助二行を修するものは、たとひ別に回向を用ゐざれども自然に往生の業となる。

と仰せられています。これを親鸞聖人は、念仏が行者の回向を用いない行であるということは、如来の方から回向されている本願力回向の行なのだと反顕されたのです。親鸞聖人が六字釈で明らかにされたのはむしろ念仏が我々の方からは不回向の行であり、他力回施の大行ということなのでした。

ところで、「本願招喚の勅命」としての南無阿弥陀仏とは、南無阿弥陀仏は「助けるぞ」「我にまかせよ」と喚んでおられる如来の仰せだということです。この如来の仰せを計らい無く聞いて仰せの通り後生をおまかせしたままが信心でありますから、念仏を称えることの他に信心があるのではありません。念仏が私の心に入ってきて、帰命の信心となって下さるわけで、法と機、行と信の別はありますが、同じ南無阿弥陀仏の名号を疑いなく信受して(信)、称える(行)という選択本願の行信が往生の因なのです。

それから信心の必然として名号が称えられ、その念仏をまた如来の喚び声と聞いて往生安堵と慶ぶのです。

私達は、ともすれば正定業としての念仏に計らいをまじえて、「どうぞ称えますから往生させて下さい」と往生を祈願する自力の念仏にしてしまいます。それだけならまだしも、阿弥陀さまの願いのお念仏を無病息災だとか、商売繫盛だとか、家内安全だとかという私達の願いを満たす念仏としてしまうのです。

念仏とは私達のそういう欲望を満たす功徳ではありません。それで私達としては、私達の念仏を称えるという行為に功を見ずに、南無阿弥陀仏の六字を如来の呼び声として聞き、そのまま受け容れることが大切なのです。これが信心であり、こうした信心が肝要ですから、ご開山は「本願招喚の勅命」としての南無阿弥陀仏という独自の解釈を加えられ、私達の自力疑心を誡めると同時に、選択本願の行を疑いなく信楽するという行信を勧められたのでしょう。


念仏がないから信心一つ
阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

このような説を平然と唱える人がありますが、あくまで信ずるのは

念仏往生の願(第十八願)

であり、それは

名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる
本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申す

という本願、また本願成就の名号、すなわち念仏です。成就文を重視する方は、得てして念仏軽視、信心重視のきらいがあります。そうではないと仰るかも知れませんが、念仏抜きの本願でもなければ本願成就の名号でもありません。そうしたことでは、阿弥陀仏の選択の願心に背くことになるやも知れません。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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