【考察】念仏往生の法義と信心正因、平生業成について(4)
親鸞聖人が顕された真実の「行」は念仏です。以前に
本願のはたらきを「行」という
という話を聞いたことがありますが、これは「行」というよりは「他力」のことでしょう。Abcさんのコメントにあるように間違った表現ではありませんが、「行」というのは「行文類」の始めに
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。(「行文類」大行釈)
と釈され、経文の引証の後に
しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。
とも仰っていることから念仏であることは自明の理です。称名正因の異義に陥ることを恐れてなのか、衆生の無作を強調してなのか、自力を捨てて他力に帰するのが宗の極致と言いたいからなのか。よく判りませんが、とにかく信心正因称名報恩を掲げて信や聞を強調し、念仏という行を説かない方が散見されます。
称名念仏は、私の口から出るものですが、私の計らいによるものではなく、本願が成就して回向された他力の行です。本願のはたらきがそのまま私に現れたのが、「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と称え聞こえるお念仏だというのです。ですから大行釈の始めには「往相の回向を案ずるに、大行あり」と仰り、お念仏の出所は私ではなく、「真如一実の功徳宝海」より出で来たもうた大行であると言われるのです。
そのような本願力回向の「行」が念仏です。親鸞聖人は「行」について「おこなふとまうすなり」と左訓されています。また「真実の行業あり」(『如来二種回向文』)とも仰せですから、「行」とは「おこなう」「おこない」のことと見られていたことがわかります。もちろんその「おこない」は、それによって迷いの根源である無明煩悩が寂滅し、涅槃の境地に至ることのできるような徳をもった「まことのおこない」(真実行)のことです。
「行」とは、梵語チャリャー(caryā)の漢訳で、行為・動作・実践の意です。浄土往生する者の正しい行い、これが念仏という浄土真実の行、選択本願の行なのです。これは本願においてただ一つ選択され、誓われ、回向されている浄土往生の正しき行業ですから、正定業というのです。18願の「乃至十念」か、17願の「称我名」かという出拠の違いはありますが、ともあれ念仏は阿弥陀仏ご自身が選ばれた行です。
「行」のない宗教はありません。天台宗には天台宗の「行」があり、真言宗には真言宗の「行」があります。禅宗にも、日蓮宗にもそれぞれの「行」があります。これは何も仏教に限ったことではありませんね。キリスト教にはキリスト教の「行」があり、イスラム教にはイスラム教の「行」があります。ヒンズー教にしても、その他数多くの宗教にしても、それぞれの宗教の「行」があります。
「行」というのは、それを見たらその人がどのような生き方をしているか分かるものです。その人が何を拠り所とし、何を信じて生きているのか、それはその人の「行」を見たら分かるのです。「行」は、その人の生き方を表すのです。それくらい、「行」というのは大事なものなのです。
それが、なぜか知らないけれども、浄土真宗には「行」が無いかのように説くお坊さんがいます。おそらく一切の自力を捨てて他力に帰するという教えを誤解してか、何も「行」ずるものがないように思っているのでしょう。確かに、こちらから阿弥陀仏の救いに何かを加えることはありません。逆に何かを加えることが計らいであるとして、それを真宗では厳しく誡められています。
では浄土真宗には「行」が無いのかと言ったら違います。無いのなら、「教行証文類」なんて言わないでしょう。教えがあって、それを聞いて信心を頂いて、さとるというのなら、「教聞証文類」あるいは「教信証文類」じゃないですか。でも違う。親鸞聖人はご自身が書かれたあの大部な著書を「顕浄土真実教行証文類」と名づけています。これは「浄土に往生する真実の教と、行と、証に関する文を集めた書」ということでしょう?
だから浄土真宗にもちゃんと「行」があるんです。ただそれは私達の計らいによって如来、浄土に近づいていこうという「行」じゃなくて、如来、浄土より私に届いた「行」だというのが一般の宗教や他宗と違ったところです。それが南無阿弥陀仏、あるいは帰命尽十方無碍光如来、南無不可思議光仏と申す念仏です。これは先ほども述べたように阿弥陀仏ご自身が選ばれた行であり、私に「これを称えて生きよ」と与えて下さった真実の行であります。浄土往生する者の正しい行い、真実の行い、つまり正しい生き方、真実報土へ生まれてゆく生き方。これが念仏という阿弥陀仏より与えられた真実の行なのです。
だから、お念仏を申して生きるというのは、阿弥陀仏の本意にかなった生き方なんです。正しい行いというのは、つまり正しい生き方のことです。阿弥陀さまに、私達はどのように生きていったらいいですかとお尋ねすると、「我が真実なる誓願を疑いなく信じ、我が名を称えて生きなさい」というのです。これが一番心が安らぐ生き方であり、仏様を始め様々な人やものへ感謝していける幸せな生き方です。
そして、どんな頓教より速やかに真実報土へ往生してこの上ないさとりを開き、この世ではどうしてあげることもできなかった人々を、今度は責任をもって救ってゆくという、最高の仏道の生き方です。私達は阿弥陀さまからお念仏という、この上ない素晴らしい「行」を与えられているのです。それを
「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」
とか訳の分からないことを平然と言い、またそのように指導している人が本願寺内にいるというのですからゆゆしき事態です。しかも根拠が「行文類」親鸞聖人の六字釈だというのですから、どこをどう読めばそうなるのかと呆れてしまいます。
私達は、阿弥陀仏より素晴らしい「行」を賜っていることを慶び、もっぱらこの「行」に仕え、と同時に如来から賜った「信」を崇めてゆくべきであると思います。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
【補足】
Abcさんのコメントを承けて、記事内容を一部修正しました。Abcさん、ご解説ありがとうございます。
本願のはたらきを「行」という
という話を聞いたことがありますが、これは「行」というよりは「他力」のことでしょう。Abcさんのコメントにあるように間違った表現ではありませんが、「行」というのは「行文類」の始めに
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。(「行文類」大行釈)
と釈され、経文の引証の後に
しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。
とも仰っていることから念仏であることは自明の理です。称名正因の異義に陥ることを恐れてなのか、衆生の無作を強調してなのか、自力を捨てて他力に帰するのが宗の極致と言いたいからなのか。よく判りませんが、とにかく信心正因称名報恩を掲げて信や聞を強調し、念仏という行を説かない方が散見されます。
称名念仏は、私の口から出るものですが、私の計らいによるものではなく、本願が成就して回向された他力の行です。本願のはたらきがそのまま私に現れたのが、「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と称え聞こえるお念仏だというのです。ですから大行釈の始めには「往相の回向を案ずるに、大行あり」と仰り、お念仏の出所は私ではなく、「真如一実の功徳宝海」より出で来たもうた大行であると言われるのです。
そのような本願力回向の「行」が念仏です。親鸞聖人は「行」について「おこなふとまうすなり」と左訓されています。また「真実の行業あり」(『如来二種回向文』)とも仰せですから、「行」とは「おこなう」「おこない」のことと見られていたことがわかります。もちろんその「おこない」は、それによって迷いの根源である無明煩悩が寂滅し、涅槃の境地に至ることのできるような徳をもった「まことのおこない」(真実行)のことです。
「行」とは、梵語チャリャー(caryā)の漢訳で、行為・動作・実践の意です。浄土往生する者の正しい行い、これが念仏という浄土真実の行、選択本願の行なのです。これは本願においてただ一つ選択され、誓われ、回向されている浄土往生の正しき行業ですから、正定業というのです。18願の「乃至十念」か、17願の「称我名」かという出拠の違いはありますが、ともあれ念仏は阿弥陀仏ご自身が選ばれた行です。
「行」のない宗教はありません。天台宗には天台宗の「行」があり、真言宗には真言宗の「行」があります。禅宗にも、日蓮宗にもそれぞれの「行」があります。これは何も仏教に限ったことではありませんね。キリスト教にはキリスト教の「行」があり、イスラム教にはイスラム教の「行」があります。ヒンズー教にしても、その他数多くの宗教にしても、それぞれの宗教の「行」があります。
「行」というのは、それを見たらその人がどのような生き方をしているか分かるものです。その人が何を拠り所とし、何を信じて生きているのか、それはその人の「行」を見たら分かるのです。「行」は、その人の生き方を表すのです。それくらい、「行」というのは大事なものなのです。
それが、なぜか知らないけれども、浄土真宗には「行」が無いかのように説くお坊さんがいます。おそらく一切の自力を捨てて他力に帰するという教えを誤解してか、何も「行」ずるものがないように思っているのでしょう。確かに、こちらから阿弥陀仏の救いに何かを加えることはありません。逆に何かを加えることが計らいであるとして、それを真宗では厳しく誡められています。
では浄土真宗には「行」が無いのかと言ったら違います。無いのなら、「教行証文類」なんて言わないでしょう。教えがあって、それを聞いて信心を頂いて、さとるというのなら、「教聞証文類」あるいは「教信証文類」じゃないですか。でも違う。親鸞聖人はご自身が書かれたあの大部な著書を「顕浄土真実教行証文類」と名づけています。これは「浄土に往生する真実の教と、行と、証に関する文を集めた書」ということでしょう?
だから浄土真宗にもちゃんと「行」があるんです。ただそれは私達の計らいによって如来、浄土に近づいていこうという「行」じゃなくて、如来、浄土より私に届いた「行」だというのが一般の宗教や他宗と違ったところです。それが南無阿弥陀仏、あるいは帰命尽十方無碍光如来、南無不可思議光仏と申す念仏です。これは先ほども述べたように阿弥陀仏ご自身が選ばれた行であり、私に「これを称えて生きよ」と与えて下さった真実の行であります。浄土往生する者の正しい行い、真実の行い、つまり正しい生き方、真実報土へ生まれてゆく生き方。これが念仏という阿弥陀仏より与えられた真実の行なのです。
だから、お念仏を申して生きるというのは、阿弥陀仏の本意にかなった生き方なんです。正しい行いというのは、つまり正しい生き方のことです。阿弥陀さまに、私達はどのように生きていったらいいですかとお尋ねすると、「我が真実なる誓願を疑いなく信じ、我が名を称えて生きなさい」というのです。これが一番心が安らぐ生き方であり、仏様を始め様々な人やものへ感謝していける幸せな生き方です。
そして、どんな頓教より速やかに真実報土へ往生してこの上ないさとりを開き、この世ではどうしてあげることもできなかった人々を、今度は責任をもって救ってゆくという、最高の仏道の生き方です。私達は阿弥陀さまからお念仏という、この上ない素晴らしい「行」を与えられているのです。それを
「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」
とか訳の分からないことを平然と言い、またそのように指導している人が本願寺内にいるというのですからゆゆしき事態です。しかも根拠が「行文類」親鸞聖人の六字釈だというのですから、どこをどう読めばそうなるのかと呆れてしまいます。
私達は、阿弥陀仏より素晴らしい「行」を賜っていることを慶び、もっぱらこの「行」に仕え、と同時に如来から賜った「信」を崇めてゆくべきであると思います。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
【補足】
Abcさんのコメントを承けて、記事内容を一部修正しました。Abcさん、ご解説ありがとうございます。
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