【考察】選択本願の行信について(9)
これまで何回かに分けて、信心正因称名報恩説について論じてきました。このカテゴリーはタイトルに示している通り【考察】なので、調べたことを元に淳心房なりの視点や考え方から書いていることです。勿論、調査不足もありましょうし、異議異論のある方もあるでしょう。皆さんから新たな資料を頂くことで別の視点が開けることもありましょうから、こんな文献もある、こんな考え方もあるという方はどうぞご教示下さい。
ところで、この信因称報説を、
「(成就文に)念仏がないから(助かるには)信心一つ」
「念仏は信後報謝に限る」
と誤解し、念仏を軽視したのが親鸞会です。
親鸞会では信心を重視するあまり(その信心も間違っていますが)、念仏は信心のオマケ、信前の念仏は信心獲得するのに無意味、という異安心に陥っています。そのくせ、善の勧めと称して因果の道理や七仏通戒偈、十九願や『観経』の定散二善等を根拠に善(雑行)を勧めています。また、かつては
「称名念仏は、すべて信後報謝に限るからです」
と言い切り、未信の者の後生の一大事は「地獄必定の一大事」だとした上で
この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり(『御文章』2帖目2通)
の文を断章取義して
自力念仏の者は必堕無間
とまで言っていました。ここまで来ると、もはや念仏軽視どころではなく念仏誹謗です。このように親鸞会では、蓮如上人の言われる「正雑二行の沙汰」が全く理解できていないし、なされていないことが分かると思います。
「正雑二行の沙汰」とは、往生行として正当な行(正行)とそうでない行(雑行)とがあり、往生浄土のためには雑行を捨てて正行を立てよという教えです。仏教に説かれる様々な諸善万行は元々この土(世界)でさとりを開くための聖道門の行であって、往生行にするためには「この諸善万行をもって往生したい」と願いを発し、その功徳を阿弥陀仏、また浄土に回向、つまり振り向けなければなりません。このように往生行としては正当でない、邪雑の行だということで雑行と言われます。諸善万行ですから悪ではないのですが、往生行として正当な行でないことから正行に対して雑行と言われます。
その行体は無数にあって、そのほんの一例が「五雑行」と言われるものです。雑行に「五雑行」と「諸善万行」とがあり、「五雑行」はやってはダメだがその他の「諸善万行」はやらねば信仰が進まない(=助からない)とする親鸞会の説は全くのデタラメです。善をするのは良いことだというのと、往生行として相応しいというのとは当然ながら違います。親鸞会ではこの二つをごちゃ混ぜにするので、教義上は「雑行を捨てて」と言っていても、会員は実質的には真宗の教えに反して雑行をやりまくっている状態です。
それに対して「正行」(実質的には称名のみ)は、正当な往生行であり、阿弥陀仏が本願において選び定めて下さったものですから、行者が別して回向しなくても自然に往生の業となるというので、これを「不回向の行」であると法然聖人は教えられています。これを承けて親鸞聖人は、行者が別して回向しなくても自然に往生の業となるということは、阿弥陀仏が与えて下さっている本願力回向の行であるからだと反顕されたのです。
それで我々末代不善の凡夫が往生しようと思ったら、雑行をいくらやっていても助からないから雑行を捨てよ、そして正当な往生行である正行(念仏一行)を専ら修せよと教えられたのが「正雑二行の沙汰」でした。こうした「正雑二行の沙汰」もろくにできていないのに、いきなり「信心が正因だ」「自力を捨てて他力に帰せよ」と言われても分かるわけがありません。真宗で問題にされる自力、他力とは、往生行として念仏一行を修する行者の信心のことだからです。これは見た目では区別がつきません。双方とも、体では同じように弥陀一仏に向かって合掌礼拝し、口では同じように念仏一行を称えているからです。
「信心正因」というのは、そうやって念仏一行を修める行者に自力の信心の者と他力の信心の者がおり、自力の信心の者は方便化土にとどまる、他力の信心の行者のみが真実報土に往生できるから、自力を捨てて他力に帰せよと、他力の信心こそが往生の肝要、往生の正因であることを示されたものです。こういう表現が適切であるかどうかは分かりませんが、いわば真宗の奥義とでも言うべき教えで、往生を願ってもいない人、往生を願っていても「正雑二行の沙汰」ができていない人が聞いて直ちに「あぁそうですか」と素直に聞き受けるのは非常に難しいだろうと思います。
それは、適切な例えかどうか分かりませんが、ドラマや映画で言えば終盤のクライマックスシーンのようなものです。そこだけ見て感動する方/できる方もありましょうが、やはり最初から見て、主人公を始め登場人物の様々な過去や人間模様を理解した上での感動シーンでしょう。私達が念仏往生の教え、また信心正因の教えに感動するのは、我々の力ではいかんともし難い生死出離の問題を、しかも念仏往生の本願を信ずる一つで造作も無くお助け下さる点だと思います。本当に生死の問題に関して何にもできねぇ、煩悩妄念をどうしようもできねぇ、いや、何とかしようとも思わねぇ、それでいて幸せになりたいだ何だとないものねだりして三途に沈むよりない、三世の諸仏さえ見捨てた私を救おうと願い立たれた法蔵菩薩の願心が有難いのではないですか。
また、本来私が積まねばならない往生成仏の因徳を、片時も真実清浄の心を失わず、私を助けることに微塵の疑いも無く、私に与えることを第一として果てしない間ご苦労して下さったことが有難いのではないですか。対して私ときたら何もしないどころか、煩悩にまかせて悪業を積み重ねて平気でいるのです。寝てばかりで仕事もしない、それでいてあれやれこれやれと指図だけして言うこと聞かないと暴言暴力三昧の、不孝極まりないぐうたら息子みたいなものです。どんな親だって、こんな奴のために色々してやっているのがバカみたいと、皆さじを投げて見捨てていきますよ。それを決して見捨てることなく、お前が往生しなければ我も仏にならんと誓われ、全て如来の方でご用意下さった親心が有難いのではないですか。
そして、その功徳を我の元まで取りに来いというのでなしに、今、ここにいる、私目がけて与えられているというのが有難いのではないですか。しかも、聖者や善人を傍らにして、煩悩具足のこのどうしようもない悪人である私の救済を第一にされているという親心が有難いのではないですか。普通なら、何かご用意下さったのなら、せめて自分が足を運んで受け取りに参上するのが筋です。それに、その人の業績や徳に応じて相応の果報を与えるのが平等というものです。一生懸命働く人とサボって何もしない人が同じ賃金を貰って、一生懸命働いている人はそれで納得できますか? 極端な話、不祥事を起こして会社の金を横領するという悪をはたらいた者にも、賃金が貰えて当然と思えますか?
これが聖道門の理論です。だから、ただ念仏するばかりで善人も悪人も同じ浄土に生まれるという法然聖人の教えが理解できなかったんです。理解どころか、こんなものは因果の道理に反し、仏教を根本から覆す悪魔の教えだと痛烈に非難し、この世から抹殺すべきであると朝廷に迫ったのです。
しかし、厳しく戒律を守り、心を清らかにして煩悩妄念を断ち切り、さとりの智慧を磨くような教えは、反って多くの脱落者を生み出していきます。あの法然聖人や親鸞聖人のような方でさえそのような修行の器ものにあらずと聖道門を捨てて、お念仏の教えに帰依されたのです。まして私など、聖道門からは当然見放されています。
私は出家して修行することもなく、世俗の生活を送ってのほほんとしている。煩悩にまかせて悪業を犯し続けている。如来・浄土に向かってにじり寄ることもできない。そんな自分に恥じる気すら起きない。そんなどうしようもない私を、本願を信じ念仏を申す者に育て上げ、光明の内に摂取して捨てず、必ず浄土に迎えて仏にするからどうか我にまかせてくれ、一声でもよいから我が名を称えてくれと、そのように仰せの仏の大悲心が有難いのではないですか。
我々の苦悩の現実から、法蔵の発願修行、本願名号の成就、そして回施に至るまでの「仏願の生起本末」を聞いて疑心有ること無し、これが「聞其名号」の「聞」です。名号を無名無実に聞くのではなく、名号が成就して回向されるまでのいきさつの一部始終を聞きなさいというのです。
速やかに生死の世界を離れようと思うなら、聖道門を捨てて浄土門に入り、雑行を捨てて正行に帰し、助業を傍らにして正定業(念仏一行)を専らにして、その最後の選び。念仏を自分の善根だとしてこれを称えて往生を願うことは自力のはからいであって、自力心のある間は報土往生はできない。念仏は、いずれの行にても生死を離れられない私に阿弥陀仏が大悲をもって回向して下さった往生成仏の法であるから、安心してこれにまかせよと捨自帰他を命じられた真宗の極意が「信心正因」ではなかろうかと思います。
親鸞会が「仏願の生起」に終始して「仏願の本末」を正しく説かないのに対して、どうも現今の浄土真宗では「名号のはたらき」という形で「仏願の末」は語られるが「仏願の生起」はおろそかになっているというのが私の印象です。勿論、「仏願の生起本末」をよどみなく説いて門徒や有縁の方を勧化されている方もいらっしゃるでしょうが、浄土真宗とはどのようなことを問題にし、何を目指して、そのためにどうせよと教える宗教なのかをハッキリ打ち出さないと、結局聞く方は念仏もその信心もよく分からないのではなかろうか、一大事の往生をし損なう恐れがあるのではなかろうかと危惧されてなりません。
念仏往生の法義を正しく言い表した、その肝要が「信心正因」です。「念仏する者を極楽に迎える」という本願を聞いて一声、十声と称えるのが行です。本願が建てられた一部始終を計らいをまじえずに聞くのが信です。この選択本願の行信を報土の因と定めて下された御心に順って、本願を疑い無く信じ念仏する者を、阿弥陀仏は光明の中に摂め取って決してお捨てになりません。どうぞそのように心得て、本願を信じお念仏して頂きたいと思います。
【参照】
・『WikiArc』正雑二行
ところで、この信因称報説を、
「(成就文に)念仏がないから(助かるには)信心一つ」
「念仏は信後報謝に限る」
と誤解し、念仏を軽視したのが親鸞会です。
親鸞会では信心を重視するあまり(その信心も間違っていますが)、念仏は信心のオマケ、信前の念仏は信心獲得するのに無意味、という異安心に陥っています。そのくせ、善の勧めと称して因果の道理や七仏通戒偈、十九願や『観経』の定散二善等を根拠に善(雑行)を勧めています。また、かつては
「称名念仏は、すべて信後報謝に限るからです」
と言い切り、未信の者の後生の一大事は「地獄必定の一大事」だとした上で
この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり(『御文章』2帖目2通)
の文を断章取義して
自力念仏の者は必堕無間
とまで言っていました。ここまで来ると、もはや念仏軽視どころではなく念仏誹謗です。このように親鸞会では、蓮如上人の言われる「正雑二行の沙汰」が全く理解できていないし、なされていないことが分かると思います。
「正雑二行の沙汰」とは、往生行として正当な行(正行)とそうでない行(雑行)とがあり、往生浄土のためには雑行を捨てて正行を立てよという教えです。仏教に説かれる様々な諸善万行は元々この土(世界)でさとりを開くための聖道門の行であって、往生行にするためには「この諸善万行をもって往生したい」と願いを発し、その功徳を阿弥陀仏、また浄土に回向、つまり振り向けなければなりません。このように往生行としては正当でない、邪雑の行だということで雑行と言われます。諸善万行ですから悪ではないのですが、往生行として正当な行でないことから正行に対して雑行と言われます。
その行体は無数にあって、そのほんの一例が「五雑行」と言われるものです。雑行に「五雑行」と「諸善万行」とがあり、「五雑行」はやってはダメだがその他の「諸善万行」はやらねば信仰が進まない(=助からない)とする親鸞会の説は全くのデタラメです。善をするのは良いことだというのと、往生行として相応しいというのとは当然ながら違います。親鸞会ではこの二つをごちゃ混ぜにするので、教義上は「雑行を捨てて」と言っていても、会員は実質的には真宗の教えに反して雑行をやりまくっている状態です。
それに対して「正行」(実質的には称名のみ)は、正当な往生行であり、阿弥陀仏が本願において選び定めて下さったものですから、行者が別して回向しなくても自然に往生の業となるというので、これを「不回向の行」であると法然聖人は教えられています。これを承けて親鸞聖人は、行者が別して回向しなくても自然に往生の業となるということは、阿弥陀仏が与えて下さっている本願力回向の行であるからだと反顕されたのです。
それで我々末代不善の凡夫が往生しようと思ったら、雑行をいくらやっていても助からないから雑行を捨てよ、そして正当な往生行である正行(念仏一行)を専ら修せよと教えられたのが「正雑二行の沙汰」でした。こうした「正雑二行の沙汰」もろくにできていないのに、いきなり「信心が正因だ」「自力を捨てて他力に帰せよ」と言われても分かるわけがありません。真宗で問題にされる自力、他力とは、往生行として念仏一行を修する行者の信心のことだからです。これは見た目では区別がつきません。双方とも、体では同じように弥陀一仏に向かって合掌礼拝し、口では同じように念仏一行を称えているからです。
「信心正因」というのは、そうやって念仏一行を修める行者に自力の信心の者と他力の信心の者がおり、自力の信心の者は方便化土にとどまる、他力の信心の行者のみが真実報土に往生できるから、自力を捨てて他力に帰せよと、他力の信心こそが往生の肝要、往生の正因であることを示されたものです。こういう表現が適切であるかどうかは分かりませんが、いわば真宗の奥義とでも言うべき教えで、往生を願ってもいない人、往生を願っていても「正雑二行の沙汰」ができていない人が聞いて直ちに「あぁそうですか」と素直に聞き受けるのは非常に難しいだろうと思います。
それは、適切な例えかどうか分かりませんが、ドラマや映画で言えば終盤のクライマックスシーンのようなものです。そこだけ見て感動する方/できる方もありましょうが、やはり最初から見て、主人公を始め登場人物の様々な過去や人間模様を理解した上での感動シーンでしょう。私達が念仏往生の教え、また信心正因の教えに感動するのは、我々の力ではいかんともし難い生死出離の問題を、しかも念仏往生の本願を信ずる一つで造作も無くお助け下さる点だと思います。本当に生死の問題に関して何にもできねぇ、煩悩妄念をどうしようもできねぇ、いや、何とかしようとも思わねぇ、それでいて幸せになりたいだ何だとないものねだりして三途に沈むよりない、三世の諸仏さえ見捨てた私を救おうと願い立たれた法蔵菩薩の願心が有難いのではないですか。
また、本来私が積まねばならない往生成仏の因徳を、片時も真実清浄の心を失わず、私を助けることに微塵の疑いも無く、私に与えることを第一として果てしない間ご苦労して下さったことが有難いのではないですか。対して私ときたら何もしないどころか、煩悩にまかせて悪業を積み重ねて平気でいるのです。寝てばかりで仕事もしない、それでいてあれやれこれやれと指図だけして言うこと聞かないと暴言暴力三昧の、不孝極まりないぐうたら息子みたいなものです。どんな親だって、こんな奴のために色々してやっているのがバカみたいと、皆さじを投げて見捨てていきますよ。それを決して見捨てることなく、お前が往生しなければ我も仏にならんと誓われ、全て如来の方でご用意下さった親心が有難いのではないですか。
そして、その功徳を我の元まで取りに来いというのでなしに、今、ここにいる、私目がけて与えられているというのが有難いのではないですか。しかも、聖者や善人を傍らにして、煩悩具足のこのどうしようもない悪人である私の救済を第一にされているという親心が有難いのではないですか。普通なら、何かご用意下さったのなら、せめて自分が足を運んで受け取りに参上するのが筋です。それに、その人の業績や徳に応じて相応の果報を与えるのが平等というものです。一生懸命働く人とサボって何もしない人が同じ賃金を貰って、一生懸命働いている人はそれで納得できますか? 極端な話、不祥事を起こして会社の金を横領するという悪をはたらいた者にも、賃金が貰えて当然と思えますか?
これが聖道門の理論です。だから、ただ念仏するばかりで善人も悪人も同じ浄土に生まれるという法然聖人の教えが理解できなかったんです。理解どころか、こんなものは因果の道理に反し、仏教を根本から覆す悪魔の教えだと痛烈に非難し、この世から抹殺すべきであると朝廷に迫ったのです。
しかし、厳しく戒律を守り、心を清らかにして煩悩妄念を断ち切り、さとりの智慧を磨くような教えは、反って多くの脱落者を生み出していきます。あの法然聖人や親鸞聖人のような方でさえそのような修行の器ものにあらずと聖道門を捨てて、お念仏の教えに帰依されたのです。まして私など、聖道門からは当然見放されています。
私は出家して修行することもなく、世俗の生活を送ってのほほんとしている。煩悩にまかせて悪業を犯し続けている。如来・浄土に向かってにじり寄ることもできない。そんな自分に恥じる気すら起きない。そんなどうしようもない私を、本願を信じ念仏を申す者に育て上げ、光明の内に摂取して捨てず、必ず浄土に迎えて仏にするからどうか我にまかせてくれ、一声でもよいから我が名を称えてくれと、そのように仰せの仏の大悲心が有難いのではないですか。
我々の苦悩の現実から、法蔵の発願修行、本願名号の成就、そして回施に至るまでの「仏願の生起本末」を聞いて疑心有ること無し、これが「聞其名号」の「聞」です。名号を無名無実に聞くのではなく、名号が成就して回向されるまでのいきさつの一部始終を聞きなさいというのです。
速やかに生死の世界を離れようと思うなら、聖道門を捨てて浄土門に入り、雑行を捨てて正行に帰し、助業を傍らにして正定業(念仏一行)を専らにして、その最後の選び。念仏を自分の善根だとしてこれを称えて往生を願うことは自力のはからいであって、自力心のある間は報土往生はできない。念仏は、いずれの行にても生死を離れられない私に阿弥陀仏が大悲をもって回向して下さった往生成仏の法であるから、安心してこれにまかせよと捨自帰他を命じられた真宗の極意が「信心正因」ではなかろうかと思います。
親鸞会が「仏願の生起」に終始して「仏願の本末」を正しく説かないのに対して、どうも現今の浄土真宗では「名号のはたらき」という形で「仏願の末」は語られるが「仏願の生起」はおろそかになっているというのが私の印象です。勿論、「仏願の生起本末」をよどみなく説いて門徒や有縁の方を勧化されている方もいらっしゃるでしょうが、浄土真宗とはどのようなことを問題にし、何を目指して、そのためにどうせよと教える宗教なのかをハッキリ打ち出さないと、結局聞く方は念仏もその信心もよく分からないのではなかろうか、一大事の往生をし損なう恐れがあるのではなかろうかと危惧されてなりません。
念仏往生の法義を正しく言い表した、その肝要が「信心正因」です。「念仏する者を極楽に迎える」という本願を聞いて一声、十声と称えるのが行です。本願が建てられた一部始終を計らいをまじえずに聞くのが信です。この選択本願の行信を報土の因と定めて下された御心に順って、本願を疑い無く信じ念仏する者を、阿弥陀仏は光明の中に摂め取って決してお捨てになりません。どうぞそのように心得て、本願を信じお念仏して頂きたいと思います。
【参照】
・『WikiArc』正雑二行
スポンサーサイト