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【考察】念仏の勧めについて(21)

善導大師の主著が『観経疏』で、善導一師に依られたのが法然聖人だからとて、御二方が本願や本願成就を無視し、『観無量寿経』によってのみ教えを説かれたのではありません。そうではなく、本願や本願成就の立場から『観無量寿経』をご覧になったから、つまり『大無量寿経』の立場から『観無量寿経』をご覧になったから、聖道の諸師方の様々な説が正しい仏意ではないことが判ったのでしょう。

韋提希を「大権の聖者」であるとか、念仏も厳しい修行によって浄土のありさまを心に念じ続ける「観想の念仏」によらなければならないとか、念仏別時意説を主張して下三品、特に下下品の往生は方便説で、念仏はたんに仏縁を結ばせるだけの往生の遠因にすぎないとか、このように善導大師のおられた中国では『観無量寿経』に対する様々な異義が流行していたのです。それに対してご自身が註釈された『観経疏』を著し、古今楷定して仏の正意を明らかにされたのは善導大師お独りだったということで、

善導独明仏正意

と「正信偈」では讃えられているのです。


『観無量寿経』をそのまま読めば、メインとして説かれているのはどう見ても定散二善です。念仏は下三品にわずかに説かれていますが、臨終の来迎や往生後の果報は、上品の往生に比べたら随分とお粗末なものです。下品上生と下品中生の者には化仏化菩薩が来迎するに過ぎず、下品中生は往生後六劫もの間、下品下生は往生後十二大劫もの間、それぞれ蓮の花の中から出られません。

ところが善導大師は、『観経』流通分に至って、それまで広く説かれてきた定散二善を付属せずにただ念仏の一法を阿難に授けたのは、阿弥陀仏の本願(18願)より伺えば、その意は衆生に一向に専ら阿弥陀仏の名を称させるためだったのだと仰せです。

「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通せしめたまふことを明かす。
上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。
「散善義」名号付属

『観無量寿経』において釈尊の本意は、釈尊が本当に説かれたかったことは、定散二善ではなく念仏の一行であったことが「仏の本願に望むるに」判るのです。『観経』には阿弥陀仏の本願そのものは説かれていません。本願が説かれているのは『大経』です。『大経』の本願やその成就の立場から『観経』をご覧になったから、釈尊の本意が称名のなんまんだぶ一行にあると判ったのです。詳しくは林遊さんのコメントをご参照下さい。

広く浄土三部経に精通しておられた善導大師や法然聖人ですから、当然御二人も本願成就の立場です。主著が『観経疏』で、『観経』は方便の経だとA先生は説明していますが、これは違います。『観経』が方便なのではなく、『観経』に方便(十九願意)と真実(十八願意)の二義があると親鸞聖人は見られたのです。

・大経→他力念仏往生→18願意 ・・・ 真実

・観経→顕説→自力諸行往生→19願意 ・・・ 要門、方便
    →隠彰→他力念仏往生→18願意 ・・・ 弘願、真実


こういうことです。詳しくは元々会員さんや横からさんのコメントを参照して下さい。『観経』には真実(他力念仏往生)と方便(自力諸行往生)の両義が説かれているのに対し、『大経』は終始一貫して真実(他力念仏往生)が説かれています。それで、親鸞聖人は本願とその成就とが説かれている『大経』を真実の教であると断定されたのでしょう。

ですから『観経』に説かれている「念仏往生」は方便説なのではありません。また、「念仏往生」と聞くとあたかも「自力念仏往生」であるかの如く理解するのは間違いです。善導大師、法然聖人が示されたのは真実の信心を具足した「他力念仏往生」の法門、真実弘願の法門であるのは当然のことです。


それと、親鸞聖人も行行相対して念仏が諸善に超え勝れた「超世希有の勝行」「至極無碍の大行」であることを「行文類」にて明らかにされています。あの念仏諸善比挍対論がそうです。『選択集』は浄土宗の同志に向けたテキストだったのに対して、『教行証文類』は浄土宗や法然聖人に向けられた様々な非難に対して応答する反論書としての意味も持っていましたから、「聖道門のお坊さんに対して」という意味合いは『教行証文類』の方が強いでしょう。また対論の中で

自説他説対、念仏は阿弥陀仏自身が説かれた行法であり、諸善はそうではない。
選不選対、念仏は如来が選び取られた法であり、諸善は選び捨てられた法である。
有願無願対、念仏は本願の行であり、諸善は本願の行ではない。


とありますから、念仏は阿弥陀仏自身が説かれ、阿弥陀仏自身が選び取られ、阿弥陀仏自身が本願の行として勧められた行法であることが分かります。それがなぜ

念仏がないから信心一つ
阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

等の説が出てくるのか意味不明です。前者は高森教ですから仕方ないにしても後者は「浄土真宗のお坊さん」の説ですから、訳が分かりません。しかもその根拠が親鸞聖人の六字釈・・・。

親鸞聖人は善導大師、法然聖人が示された選択本願念仏という行法の真実性を証明され、行行相対して諸善に超え勝れた他力回施の大行であることを顕かにしつつ、更に行から信を別開して、機の上から言えば本願を疑いなく信受した信心が往生の正因であることを「信文類」に示されています。しかし、阿弥陀仏自身が説かれた行法である念仏を抜きに信心はありませんし、また逆も然りですから、「行文類」「信文類」共に選択本願の行信が教えられているのは読者の皆様もよくご承知の通りです。

念仏も信心も、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就されたものでないものはないのですから、共に御回向の賜物と尊く仰ぎ、念仏申させて頂くのがまこと本願のおこころにかなった念仏の行者でありましょう。



【参照】
『東本願寺』正信偈の教え 独り仏の正意を明かす
『WikiArc』別時意
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プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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