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『教行証文類』撰述の動機を考えても、「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている」は当たり前

親鸞聖人が『顕浄土真実教行証文類』を執筆された理由の一つに、法然聖人の教えが真実の仏法であることを証明するためだという理由が挙げられます。

法然聖人が回心されたのが承安三年(1175年)と言われ、この年が浄土宗の立教開宗の年となっています。それからわずか30数年後の承元元年(1207年)、浄土宗は、聖道諸宗と結託した朝廷によって念仏停止の判定を受け、死罪4人、流罪8人(実際には7人)という、かつてない法難に見舞われました。

それからわずか20年後の嘉禄三年(1227年)には、今度は嘉禄の法難と呼ばれる専修念仏弾圧事件が起きています。その時、比叡山は法然聖人の墓を暴いて遺骨を賀茂川に捨てようとし(未遂)、『選択本願念仏集』の版木を根本中堂で焼き払ったのです。既に出版されていた『選択集』はことごとく没収されて、初版本は残っていないそうです。そうまでして、徹底的に浄土宗を壊滅させようとしたのです。

このようにして、生まれたばかりの浄土宗は、地上から抹殺されようとしていました。せっかく私達末代不善の凡夫、十悪五逆の罪人をも救う本願念仏の道が、よりにもよって仏教徒の手によって閉ざされようとしている。きっと親鸞聖人はこの事実を深く悲しまれたことでしょう。そして、遺弟としての使命感と、報恩の思いをもって、法然聖人の教えこそすべての人の救われる真実の仏法であると証明すべく筆を執られたことと思います。


浄土宗への非難は、解脱坊貞慶上人が書いたとされる『興福寺奏状』や比叡山延暦寺からの『延暦寺奏状』、また明恵上人高弁の『摧邪輪』『摧邪輪荘厳記』などに記されている如く、専修念仏への批判が主だっています。その中『興福寺奏状』の第七「念仏を誤る失」では、なぜ口称念仏を最上の行というのかという非難が寄せられています。『聖典セミナー 教行信証 教行の巻』ではそのことを

「念仏を誤る失」というのは、法然聖人は口称念仏を最上の行のようにいうが、それは誤りであるというのです。同じ念仏といっても、念ぜられる仏に、仏名もあれば仏体もある。その仏体にも報身や応身といった姿形のある事仏もあれば、色もなく形もない法身という理仏もある。この法身真如こそ仏のさとりの本体であるから最高とし、仏名を最下とする。また仏を念ずる相にも、口に仏名を称える口称もあれば、心に仏を念ずる心念もある。その心念にも仏徳に想いをかける繋念と、禅定(深い精神統一)を修して報身仏や法身仏を観念していく定心念仏とがあり、その定心のなかにも、まだ煩悩がまじわっているような有漏定もあれば、煩悩妄念の消滅した無漏定もある。こうしたなかで、口称念仏は最も浅劣な行であり、無漏の定心念仏が最も深く勝れた行であるということは、仏教の常識ではないか。それなのに法然は、阿弥陀仏は第十八願において、「乃至十念せよ」と称名念仏を往生行と定められているから、称名以外の行をする必要はないという。しかし阿弥陀仏の本願が、どうして勝行をさしおいて、劣行のみを往生行と定められることがあろうか。下下の悪人がわずかに称えた十声の念仏を、まるで阿弥陀仏の本意であるかのように主張し、上上の善人が修行している勝れた諸善を捨てさせることは、近くは善導の釈義に背き、遠くは『観無量寿経』などの諸経の説に反する邪説であると、痛烈に非難しています。


と解説されています。また『摧邪輪荘厳記』には、法然聖人の念声是一釈を批判して

この義、はなはだ不可なり。念はこれ心所、声はこれ色なり、心と色、すでに異なる、何ぞ一体となすや。

と書かれています。明恵上人は、なぜ乃至「十念」の「念」が称名であり得るのかと問うているのです。一口に念仏といっても様々に種類があり、称名念仏に限るわけではないことは聖道諸宗からしたら常識でした。しかも魏訳の『大経』には名号を称えるということは出ていないため、ますます疑難が湧き起こったことでしょう。

これについて鎮西派の派祖弁長上人は、本願成就文に聞其名号といわれているから、名号に対応する本願の十念は称名であると言われているそうです。それに対して親鸞聖人は、「聞其名号」の出てくる元である第十七願に着眼して、諸仏が勧められている事柄の中に称名があるとみて、その「咨嗟称我名」から称名という語を導き出したのでした。称名を阿弥陀仏の願位において確認されたわけです。

随分と複雑な操作が行われているようですが、

なぜ諸善を廃して専修念仏一行なのか
なぜ念仏を称名のみに限るのか


このような聖道諸宗の批難に「称名念仏こそ真実の行」だと証明することが、法然聖人の教えの真実性を証明する為に必要不可欠だったのでした。様々な文を集め、称名こそ浄土真実の行、選択本願の行であると判じ、その真実なることを経論釈の上で証明して下さったのが「行文類」であります。まさに法然聖人の

ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし

の仰せに対して、

ただ念仏のみぞまことにておはします

と応答されたのが親鸞聖人であったと言えましょう。


そうやって親鸞聖人が明らかにして下さった浄土真実の行、選択本願の行である称名、念仏を、よりにもよって阿弥陀仏が「称えよと仰っていない」とは何事か。きはめたる荒涼のこととはこのことです。

念仏を往生の行として選択されたのは阿弥陀仏です。その念仏を私達に回向されているのも阿弥陀仏です。だから念仏を「選択本願の行」といい、行者の方からは「不回向の行」というのです。知らないのでしょうか。

しかもその主張の根拠が「行文類」の親鸞聖人の六字釈とは・・・呆れて物が言えません。しかし実際には、

帰命は本願招喚の勅命なり

を無理やり解釈したものであり、この部分の断章取義に加えて念仏と信心を二項対立的なものと捉えたところから来る誤謬でした。「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」なんて言う者は、上のような歴史も、今では考えられない批難中傷迫害の中で親鸞聖人がご苦労して下さったことも知らないのでしょう。

このように、『教行証文類』撰述の動機を考えても、「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている」は当たり前です。この逆の主張をする者、それを擁護する者は、聖典だけでなく、歴史にも昏いと言わざるを得ません。



【参照】
『WikiArc』トーク:一念多念証文 第十六講第十七願文の文意
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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