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【考察】念仏の勧めについてⅡ(6)

本日は「興福寺奏状」と「延暦寺奏状」について、『聖典セミナー 教行信証[教行の巻]』を通して伺います。念仏弾圧は、思想的にはこれらが根拠となっております。

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   「行文類」撰述の動機

 親鸞聖人が、この「行文類」を顕されるには、重大な動機がありました。まず対外的には、法然聖人の在世当時から滅後にわたって、いくたびも加えられた国家権力による専修念仏停止という弾圧と、それを引き起こすもとになった南都・北嶺の旧仏教側からの執拗な論難に対して専修念仏の真実性を証明するためでした。また対内的には、本願の念仏は、本願力回向の法であるという念仏の本質を明らかにすることによって、人間のはからいを否定し、一念にとらわれて多念を否定したり、多念にとらわれて一念を否定するような一念多念の諍いに明快な決着を与えて、法然聖人の念仏往生説の真髄を明らかにするためでした。そのために、本願力回向の行信というまったく新しい教学的視野を開いて、浄土教学を大成していかれた。それが「行文類」だったのです。

 すでに述べたように、建永二年(承元元年、一二〇七年)二月、承元の念仏停止といわれる事件が起こりましたが、それに思想的な根拠を与えたのは、南都の興福寺から朝廷に出された「興福寺奏状」であったということは、『教行証文類』の後序にも言われているとおりです。そこには九箇の失をあげて、法然聖人の教学を批判していますが、第四万善を妨ぐる失、第六浄土に暗き失、第七念仏を誤る失の三失は、選択本願に立脚して構築されていた法然聖人の専修念仏の教説を真向から否定するものでした。

 「万善を妨ぐる失」とは、これまで仏教においてさとりへの道とされてきたさまざまな修行道を、すべて難行道のゆえをもって捨てしめ、ただ称名念仏の一行だけが生死を超える道であるということは誤りだというのです。ことに、そのころの仏教界で功徳ありとされていた『法華経』の読誦や、真言、止観に縁を結び、堂塔を建立し、尊像を造絵することを、ことごとく雑行であると称して、土くれのように捨てしめたことは、仏教への反逆であり、正法を誹謗するものであるというのです。

 「浄土に暗き失」というのは、『無量寿経』や『観無量寿経』をはじめ、浄土の諸師たちも盛んに諸行による往生を説かれているのに、それを無視して、諸行は往生の行に非ずというのは、人びとを欺くものだというのです。ことに、下下の悪人と上上の賢善者とが同じ浄土に往生できるなどということは、因果の道理に背き、わが身のほどもわきまえない愚痴のきわまりであると嘲笑しています。

 また「念仏を誤る失」というのは、法然聖人は口称念仏を最上の行のようにいうが、それは誤りであるというのです。同じ念仏といっても、念ぜられる仏に、仏名もあれば仏体もある。その仏体にも報身や応身といった姿形のある事仏もあれば、色もなく形もない法身という理仏もある。この法身真如こそ仏のさとりの本体であるから最高とし、仏名を最下とする。また仏を念ずる相にも、口に仏名を称える口称もあれば、心に仏を念ずる心念もある。その心念にも仏徳に想いをかける繋念と、禅定(深い精神統一)を修して報身仏や法身仏を観念していく定心念仏とがあり、その定心のなかにも、まだ煩悩がまじわっているような有漏定もあれば、煩悩妄念の消滅した無漏定もある。こうしたなかで、口称念仏は最も浅劣な行であり、無漏の定心念仏が最も深く勝れた行であるということは、仏教の常識ではないか。それなのに法然は、阿弥陀仏は第十八願において、「乃至十念せよ」と称名念仏を往生行と定められているから、称名以外の行をする必要はないという。しかし阿弥陀仏の本願が、どうして勝行をさしおいて、劣行のみを往生行と定められることがあろうか。下下の悪人がわずかに称えた十声の念仏を、まるで阿弥陀仏の本意であるかのように主張し、上上の善人が修行している勝れた諸善を捨てさせることは、近くは善導の釈義に背き、遠くは『観無量寿経』などの諸経の説に反する邪説であると、痛烈に非難しています。

 法然聖人が亡くなって、その十三回忌にあたる貞応三年(元仁元年、一二二四年)、今度は天台宗の本山、比叡山延暦寺から専修念仏を禁制にするようにという訴状が朝廷に上奏されました。「延暦寺奏状」では、六か条にわけて法然聖人の教えを非難していますが、その第五条に掲げている「一向専修の輩、経に背き、師に逆らふ事」というのが、さきにあげた「興福寺奏状」の三か条と同じ意趣を述べたものです。すなわち専修念仏者は、称名以外はすべて雑行であるから往生できないといい、逆に十悪五逆をつくって慚愧の心さえないものも称名すれば往生できるといい、あまつさえ「悪業を怖れるものは仏願を疑うものである」といって愚人をたぶらかしている。それは『観無量寿経』に説かれた諸善万行による往生を否定し、持戒の清僧であった善導大師の誡めに背くもので、責めても余りあるものだと非難しています。こうして法然聖人が開顕された選択本願念仏の教えは、南都・北嶺の学僧たちの非難の的となり、朝廷からは激しい罪科に問われ、誕生したばかりの浄土宗(選択本願の教法)は、地上から抹殺されようとしていたのです。

 このような状況のなかで、法然聖人からその主著『選択本願念仏集』の伝授をうけ、浄土宗の将来を託された遺弟として、その師恩に応答するために『教行証文類』を著されたわけですが、なかでも「行文類」は、「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」と法然聖人から教示された念仏の一行こそが、弥陀、釈迦、諸仏の本意にかなった大行であり、龍樹菩薩以来の浄土の祖師が証明せられる真実行であることを、仏祖の言葉をもって立証していかれたものでした。『教行証文類』のなかでも「行文類」だけが、七高僧の聖教のすべてが引用され、さらに各宗の祖師方の念仏讃仰の文まで引かれるのも、称名が普遍の真実行であることを広く証明するためでした。

 ことに引文の最後に、『選択本願念仏集』の題号と「南無阿弥陀仏 往生之業念仏為本」の標宗と三選の文が引かれます。これは『選択集』全体を引用されたと同じ意味をもっていることは、すでに先哲の指摘されたとおりです。しかも『選択集』の法義の真実性を顕すために書かれた『教行証文類』において、『選択集』の引用は、ただこの「行文類」だけなのです。一見、不思議に思えるこのことによって、「行文類」が選択本願念仏の本質を明らかにし、その法義の真実性を証明するためのものであったことがわかります。
(p.157~p.162)
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外からは聖道諸宗の教義批判、権力者による念仏弾圧、内からは一念多念の諍論と、浄土宗は問題だらけであったようです。その中でも、やはり大きな問題は

諸善を廃して称名念仏の一行

という専修念仏、選択本願念仏の教えに対する非難でした。こうした当時の仏教界を根底から覆すような革命的な教えと、当時法然聖人の教えを誤解した人々の非道徳的な言動とが相俟って「興福寺奏状」「延暦寺奏状」という訴訟状が出され、結果承元の法難、嘉禄の法難といった法難に見舞われたことが伺えます。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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