信を獲て後は何があろうと往生することは変わらないが、幸福感は変わる

11日(日)は富山で高森顕徹会長の話があったようです。内容としては

「苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わる」などと説くことは、二種深信以外の要素、つまり三業で信心の有無を判定していことに他ならない

等で扱ったのと同様に、

映画『なぜ生きる』の中の蓮如上人のお言葉
「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わります」
とはどう変わるのでしょうか?


という質問に答えるものだったそうです。飽きずに「絶対の幸福」を強調した後、今回は非難をかわすためか、

絶対の幸福=往生

と言っていたようです。ですが、高森会長の主張とは所詮、「相対の幸福」に対しての「絶対の幸福」です。

相対の幸福=比べて感じる幸せ

だというなら、

絶対の幸福=比べなくても感じる幸せ

とでもいうのでしょうか。いずれにせよ、特別な境地の幸福感、大安心大満足というような特殊な幸福感、たとえ死が来ても崩れない幸福感ということです。親鸞聖人が教えられたいわゆる不体失往生は、信心獲得の平生に報土往生の業因が決定することを言われたものです。臨終ではなく、平生に定まるから「念仏往生の機は体失せずして往生をとぐ」と仰ったのであって、我々の幸福感をどうこう言われたものではありません。

『飛雲』無碍の一道と絶対の幸福の違い

で言われているように、他力の信心が動乱破壊せられずであり、信心以外の事が動乱破壊せられずではありません。確かに、一度信を獲て後は、たとえどのような事が起ころうと、どのような心の状態になろうとそれらは浄土往生の妨げとはならず、間違いなく往生成仏させて頂けます。それが阿弥陀仏の不可思議の願力です。しかし、この信心は凡夫が自力で起こすものではなく、他力より回向せられる信心ですから動乱破壊せられずなのであって、幸福感とは別物です。なので、

絶対の幸福=往生

とすることには無理があります。幸福感は、我々凡夫の心が今の自分を幸せかどうか感じるものですから、信前信後関係なく、常に変化しています。良い事が起きれば幸福感は増大しますし、悪い事が起きればそれまでの幸福感はどこへやらということはしょっちゅうです。時には自殺したい位苦しいと感じることだってありますよ。それでも、浄土往生することは変わらないということであって、幸福感が崩れない変わらないということではないのです。


ところで今回も、『口伝鈔』一念と多念

如来の大悲、短命の根機を本としたまへり。もし多念をもつて本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす。

のお言葉を出して、「一念往生」を説いていたようですが、会員の皆さんはこのお言葉の前後を読んだことはあるでしょうか? 「真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす」る根拠として、覚如上人はこの後本願成就文を挙げておられます。一方、「多念をもつて本願としたまはば」と、「沢山の念仏を称える者を助ける本願だとしたならば・・・」いう話の中では

されば第十九の願文にも、「現其人前者」(大経・上)のうへに「仮令不与」と等おかれたり

と十九願について触れられています。更には十九願の行人のことを

非本願たる諸行を修して往生を係求する行人

と仰せられ、こうした自力の行者は

本願にそむき仏智に違すべし

と嫌われています。ですから、十九願を勧めるということは、非本願たる諸行を修して往生を係求する行人になれ、本願にそむき仏智に違反せよと勧めることに他なりません。親鸞会では十九願を勧めて本願にそむき仏智に違反しているのですから、「一念往生」とか、「今臨終の人でも救う」と言ったところでそれは言葉だけで、高森会長の話をまともに信じている限り「一念往生」も「即得往生」も分かるわけがないのです。まだ「一念と多念」の一段を読まれていない人は、上リンク先へ飛んで読まれることをお勧めします。


今はまだ救われていないが、死ぬまでには助かるだろう、助かりたいと思って富山詣でしている会員さんがほとんどかと思います。しかし、高森顕徹会長の話は救いを匂わせるものの、別方向に誘導されてしまい、目的の獲信・往生はかないません。『執持鈔』の最後で覚如上人が仰せのように、

本願を信じ名号をとなふれば、その時分にあたりてかならず往生は定まるなりとしるべし

我々は本願を信じ念仏を称えれば、必ず往生すべき身と定まるのです。この他、何も要りません。「我にまかせよ、必ず救う」という本願招喚の勅命をそのまま聞き受け念仏するのみです。特別な幸福感を得たいなら今後も親鸞会で聞いていけばいいですが、親鸞聖人と同じ信心を獲たい、浄土往生して迷いの世界を離れたいと願う人は直ちに親鸞会の教えから離脱し、18願一つ聞くことです。


【参照】
安心論題/即得往生
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No title

大きく誤解された記載がされておりますので、コメントします。

〉「苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わる」などと説くことは、二種深信以外の要素、つまり三業で信心の有無を判定していことに他ならない
〉信心獲得すると、苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わるなどというのは、逆に言えば
苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わらなければ信心獲得ではない
ということです。これは二種深信以外の要素、つまり三業で信心の有無を判定していることに他なりません。


まず、信心獲得すれば喜びが起きますが、喜びが起きたかどうかによって信心獲得したかどうかは判定はできません。

No title

なので、信心獲得すると、苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わるとは言えますが、苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わったかどうかによって信心の有無は判定できません。
それは人生がガラリと変わったと思っても、信心獲得した方もあれば、信心獲得したつもりになっているだけの方もありますし、親鸞聖人の教えを聞いてない人でも、ある時から人生がガラリと変わったという方もあるからです

ご説法を注意深く聞かれている方なら、信心獲得すればガラリと変わるとは言われるが、「ガラリと変われば、それが信心獲得だ。」とは教えられないことはご理解いただけると思います。

No title

〉親鸞聖人が教えられたいわゆる不体失往生は、信心獲得の平生に報土往生の業因が決定することを言われたものです。臨終ではなく、平生に定まるから「念仏往生の機は体失せずして往生をとぐ」と仰ったのであって、我々の幸福感をどうこう言われたものではありません。


信心獲得すれば、無始よりこのかた迷いの世界で苦しみ続けた私が、次生報土往生するということが平生に決定します。「定んで往生を得と深信」し、間違いなく往生すると疑う余地がなくなります。現生に正定聚の身になれますから、信心獲得すれば大慶喜の心が起こります(正信偈記載の通りです。)。

No title

「この信心をうるを慶喜といふなり。慶喜するひとは諸仏とひとしきひととなづく。慶はよろこぶといふ、信心をえてのちによろこぶなり、喜はこころのうちによろこぶこころたえずしてつねなるをいふ、うべきことをえてのちに、身にもこころにもよろこぶこころなり。信心をえたるひとをば、「分陀利華」(観経)とのたまへり。」(唯信抄文意)

(現代語訳)
この信心を得ることを「慶喜」というのである。慶喜する人を諸仏と等しい人という。「慶」は「よろこぶ」ということである。信心をすでに得てよろこぶのである。「喜」は心のうちによろこびが絶えることなくいつもあることをいう。得なければならないことをすでに得て、身にも心にもよろこぶという意味である。信心を得た人を『観無量寿経』には「分陀利華」と説かれている。

No title

〉私たちの人生が苦しみならば、それは私たちが蒔いた種です。ここに因果の道理を持って来なければなりません。お金が無いならば、仕事や人間関係に恵まれないならば、怪我や病気に苦しんでいるならば、その他苦境の原因は全て過去のいずれかに私が蒔いた種が現在苦果として現れているのです。そうやって苦しんでいる現状も、苦しむ心も、信心を獲得したその時に全て解決するかと言ったら全くそんなことはありません。お金が無い現状も、お金が欲しい心もそのままです。物事に恵まれない現状も、恵まれたいと求める心もそのままです。怪我や病気の状態も、それにより苦しむ心もそのままです。


信心獲得しても、因果の道理も煩悩具足も全く変わりませんから、上記の苦しみは生涯変わりません。苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わると聞くと、相対の幸福しか知らない私たちは上記の苦しみが解決し、なくなるように誤解してしまいますが、そう誤解してはならないということをいつもねんごろに教えられています。

No title

〉他力の信心が動乱破壊せられずであり、信心以外の事が動乱破壊せられずではありません。確かに、一度信を獲て後は、たとえどのような事が起ころうと、どのような心の状態になろうとそれらは浄土往生の妨げとはならず、間違いなく往生成仏させて頂けます。それが阿弥陀仏の不可思議の願力です。しかし、この信心は凡夫が自力で起こすものではなく、他力より回向せられる信心ですから動乱破壊せられずなのであって、幸福感とは別物です。


動乱破壊せられない信心を阿弥陀仏からいただきますから、間違いなく往生成仏させて頂けるという歓喜は生涯途切れることなく続いていきます。心の内に常に喜びは絶えず、よろこびは心にいつもあります。

No title

〉幸福感は、我々凡夫の心が今の自分を幸せかどうか感じるものですから、信前信後関係なく、常に変化しています。良い事が起きれば幸福感は増大しますし、悪い事が起きればそれまでの幸福感はどこへやらということはしょっちゅうです。時には自殺したい位苦しいと感じることだってありますよ。それでも、浄土往生することは変わらないということであって、幸福感が崩れない変わらないということではないのです。


信心決定しても相対の幸福しか求めない私たちでありますから、相対の幸福が得られれば幸せに感じますし、得られなければ苦しみます。苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わるということは、相対の幸福が崩れない、変わらないということではありません。

絶対の幸福とは、比類なき無上の幸福であり、ずっと続く幸せです。

永久の昔から流転輪廻してきた我らを、阿弥陀仏のひとり働きで、無条件に弘誓の船に乗せてくだされ、往生一定の身にして下されたという、比ぶべきものが一切ない身の幸が、心の内に常に絶えないことを絶対の幸福と言い表されているのです。

No title

>この信心をうるを慶喜といふなり

これは

「信心」=「慶喜」

つまり、信心の言い換えが慶喜ということがポイント。
信心は衆生の心ではないですね。同じことで慶喜は衆生の心ではない。
もちろん、衆生なりに喜びの心はありますが、ここで言われている慶喜は衆生に起きる心ではない。

次に『執持鈔』に親鸞聖人のお言葉として紹介されているのが

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。

です。
「定んで往生を得と深信」とは、往生することがはっきりするのではなく、往生とは「凡夫のはからふべきことにあらず」であり、「凡夫の浅智」で分かるものではなく、「かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつる」ことを仰ったもの。

つまり、

>信心獲得すると、苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わるとは言えますが

こうは言えないわけです。

親鸞会のお得意の二河白道のたとえで、信心獲得すると、苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わることがどこにありますか?

どこにもそんなたとえもないし、たとえの解説にもそんなことは書かれてないです。

ますはお聖教を読みましょうね。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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