「信心獲得すると、苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わる」とは言えないし、「絶対の幸福」だとかいう特別な境地の幸福感を教えられたのが親鸞聖人でもない

信を獲て後は何があろうと往生することは変わらないが、幸福感は変わる

の記事に親鸞会会員と思われる方からコメントがありました。細かく分かれて多く頂いておりますので、区切って返答していきたいと思います。

コメント1
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まず、信心獲得すれば喜びが起きますが、喜びが起きたかどうかによって信心獲得したかどうかは判定はできません。
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確かに、高森顕徹会長は真実の信心か否かの判定基準は二種深信だと『教学聖典』にも問答形式で教えています。ところが会長は映画『なぜ生きる』で蓮如上人に、

「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わります」

と言わせています。ということは、

信心獲得 → 幸せな人生にガラリと変わる

ですから、幸せな人生にガラリと変わらないようならそれは信心獲得ではないということです。「幸せな人生にガラリと変わる」の部分を「喜びが起きる」と言い換えたら、喜びが起きないようならそれは信心獲得ではないということです。余談ですが、「幸せな人生にガラリと変わる」の部分を「ハッキリする」と言い換えたら、ハッキリしないようならそれは信心獲得ではないということです。これは、二種深信以外の要素、つまり三業で信心を判定している事に他ならないのでそう書きました。高森会長の話はダブルスタンダード的な点が多く見られ、また会員の皆さんは高森信心をもって話を聞くため間違いないと思えるのかも知れませんが、実際は親鸞聖人の教えとは遠くかけ離れた高森教であって浄土真宗ではないのです。

それと、「喜び」といってもその感じ方や表現の仕方は人それぞれであり、いつも心の前面に出ているというものではありません。親鸞聖人は『教行証文類』「総序」の文にて

ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな

と慶びを仰っていたと思いきや、一方「信文類」にて

まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。

とも仰っています。また『歎異抄』第九条では、「念仏しておりましても、おどりあがるような喜びの心がそれほど湧いてきませんし、また少しでもはやく浄土に往生したいという心もおこってきません」という唯円房の不審に「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」と答えられています。往生一定の身にして頂いたといっても、その喜びは我々の心の上には出てきたり引っ込んでしまったりします。法をお聞かせ頂いてその有難さに感泣することもあれば、日常生活に戻ると様々な苦果を受けてせっかくの喜びが失せることもあります。喜べる時もあるがそうでない時もあるのです。

ところが高森顕徹会長は『こんなことが知りたい②』の中でこのようなことを書いています。

 では絶対の幸福とは何か、結論を急ぎましょう。
 この場合、絶対というのは、無上、最高不二という意味と、どんな事態が起きても壊れない安心、満足、喜びということです。
 最悪の死に直面しても変わらぬ安心、満足の境地をいうのです。死に直面しても変わらないものならば、その他の障害によって動乱することは毛頭ありませんから、何時でも何処でも満足一杯、喜び一杯、安心し切って明るい生活ができるようになり、人生の醍醐味を心ゆくまで味わうことができるようになるのです。
(p.10)

これは信心が「動乱破壊」されないことを安心、満足、喜びが「動乱破壊」されないこと、つまり信後の我々の心が「動乱破壊」されないことと勘違いした誤りです。また『なぜ生きる』では

焼けもせず、流されも、盗まれもしない、いつも満ちている無上の幸せ(p.180)

などと書いていますが、これは「信心=幸福感」としている誤りです。他力の信心は焼けもせず、流されも、盗まれもしませんが、我々の心、幸福感は変化します。「無上の幸せ」とやらがいつも信後の人の心に満ちていたなら「悲しきかな」「唯円房おなじこころにてありけり」などとは仰らないでしょう。こうした特別な境地の幸福感を教えられたのが親鸞聖人ではありません。

コメント2
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なので、信心獲得すると、苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わるとは言えますが、苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わったかどうかによって信心の有無は判定できません。
それは人生がガラリと変わったと思っても、信心獲得した方もあれば、信心獲得したつもりになっているだけの方もありますし、親鸞聖人の教えを聞いてない人でも、ある時から人生がガラリと変わったという方もあるからです

ご説法を注意深く聞かれている方なら、信心獲得すればガラリと変わるとは言われるが、「ガラリと変われば、それが信心獲得だ。」とは教えられないことはご理解いただけると思います。

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OHEさんのコメントにあるように、「信心獲得すると、苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わる」とは言えません。あと、確かに高森会長は「ガラリと変われば、それが信心獲得だ。」とは教えてはいないでしょうが、会員の皆さんは「ガラリと変わらなければ、信心獲得ではない」と思い込んでいるのではないでしょうか? こう思わせるのが高森会長の狙いです。そうすれば会員の皆さんは、「まだ救われていないから、救われるためにもっと頑張ろう」と献金、勧誘、無条件服従に前向きになるでしょう。

コメント3
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信心獲得すれば、無始よりこのかた迷いの世界で苦しみ続けた私が、次生報土往生するということが平生に決定します。「定んで往生を得と深信」し、間違いなく往生すると疑う余地がなくなります。現生に正定聚の身になれますから、信心獲得すれば大慶喜の心が起こります(正信偈記載の通りです。)。
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これもOHEさんのコメントの通りですが、それにしても喜びとか大慶喜ということにこだわりますね。「大きな喜びの心が起きなければ信心獲得ではない」と思い込んでいる何よりの証拠です。それと、「入正定聚の益を得る」ことと「正定聚の身になったことが実感として知らされる」ことは違います。51段高とびして弥勒菩薩と同じ境地に出られる等と勘違いをしているのかも知れませんがそうではありません。

コメント4は次回に譲ります。コメント5
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信心獲得しても、因果の道理も煩悩具足も全く変わりませんから、上記の苦しみは生涯変わりません。苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わると聞くと、相対の幸福しか知らない私たちは上記の苦しみが解決し、なくなるように誤解してしまいますが、そう誤解してはならないということをいつもねんごろに教えられています。
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「上記の苦しみ」とはお金や物、病気や怪我等のために苦しむことですが、「絶対の幸福」とやらが「どんな事態が起きても壊れない安心、満足、喜び」「最悪の死に直面しても変わらぬ安心、満足の境地」だというのなら、私達が日常煩い悩んでいることなんかヘッチャラなはずですよ。あと、日常の苦しみがやって来ても煩悩即菩提ですぐさま喜びに転じ変わるのだろうとか思っている会員さんも少なくないかと思われます。

ところが、二河白道の譬喩が示す通り、一歩白道に踏み出した後(信後)も、水火二河も白道も、群賊悪獣らも、何も変化しません。後生を阿弥陀さまにおまかせした気楽さ、安心、遇い難い教えに遇えた喜びはありますが、信心以外のことは一般の人々と何らと言っても過言ではないほど変わるところはありません。相変わらず苦しいものは苦しいし、嫌なものは嫌なのです。絶対の幸福なる特別な境地を夢見ている方にはショッキングかもしれませんが、信心獲得とはそんな境地に至る体験ではありません。


長くなりましたので、続きは次回書きたいと思います。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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