真実信心、大慶喜心、広大難思の慶心、大慈悲心・・・これらは全て他力の信心の言い換えであり、信心獲得しても我々の心が真実心、大慶喜心、大慈悲心になるわけではない

数日前からひどい鼻炎に悩まされています。元々、スギとヒノキの花粉には反応するので春はいつも憂鬱なのですが、6月のこの時期に花粉症のような症状が出ることは例年はあり得ません。まだ残っている鼻炎薬で対処しておりますが、それにしても眠い(=_=)・・・ アレジオン系の薬なので眠気を誘発してしまい、鬱陶しい眠気を引きずったまま仕事をしています。別に鼻炎ごときで死にはしませんが、それでも体調が思わしくない、体に痛い部分があるとそれだけで嫌な気分になり、早く改善してほしいと思います。

このような苦しみ、また苦しみの感じ方は信前も信後も特に変わるところはありません。死ぬのは相変わらず怖い、嫌ですし、もしナイフや拳銃等で、またリンチに遭うなどして死んだら、恐らく彼らへの恐怖や恨みの感情以外はないでしょう。死の縁は無量でそれは先世の業因によるものですから逃れることはできません。ただどのような死に方、死(やその他の苦境)に際しての心の動乱があっても信心は動乱しませんから、一度信を獲た人が浄土往生することは間違いないのであります。信心獲得とは南無阿弥陀仏のすがたを心得たことであって、最高無上で、死に際しても変わらぬ安心、満足、喜びの境地に出るとかいう体験とは違うのです。親鸞会の会員さんで「絶対の幸福」とやらを求めているならともかく、浄土に往生して迷いを離れたいと願う人は、そんな邪義は捨て去って直ちに本願を信じ念仏いたしましょう。


今回も、親鸞会会員と思われる方から頂いたコメントに答えていきたいと思います。

コメント4
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「この信心をうるを慶喜といふなり。慶喜するひとは諸仏とひとしきひととなづく。慶はよろこぶといふ、信心をえてのちによろこぶなり、喜はこころのうちによろこぶこころたえずしてつねなるをいふ、うべきことをえてのちに、身にもこころにもよろこぶこころなり。信心をえたるひとをば、「分陀利華」(観経)とのたまへり。」(唯信抄文意)

(現代語訳)
この信心を得ることを「慶喜」というのである。慶喜する人を諸仏と等しい人という。「慶」は「よろこぶ」ということである。信心をすでに得てよろこぶのである。「喜」は心のうちによろこびが絶えることなくいつもあることをいう。得なければならないことをすでに得て、身にも心にもよろこぶという意味である。信心を得た人を『観無量寿経』には「分陀利華」と説かれている。

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上の『唯信鈔文意』のお言葉は、善導大師の『法事讃』

極楽無為涅槃界 随縁雑善恐難生 故使如来選要法 教念弥陀専復専

について解説されている箇所の一部です。極楽は無為涅槃の界であり、八万四千の法門に教えられる自力の善根を修めて生まれられる世界ではない、それでお釈迦様は沢山の善の中から名号を選び取って私達に与えて下され、念仏一行を一心に修めよと教えて下された、というのがおおよその意味です。全文は上リンク先へ飛んで頂くとして、今は該当箇所を抜き出します。

「随縁雑善恐難生」といふは、「随縁」は衆生のおのおのの縁にしたがひて、おのおののこころにまかせて、もろもろの善を修するを極楽に回向するなり。すなはち八万四千の法門なり。これはみな自力の善根なるゆゑに、実報土には生れずときらはるるゆゑに「恐難生」といへり。「恐」はおそるといふ、真の報土に雑善・自力の善生るといふことをおそるるなり。「難生」は生れがたしとなり。

「教念弥陀専復専」といふは、「教」はをしふといふ、のりといふ、釈尊の教勅なり。「念」は心におも ひさだめて、ともかくもはたらかぬこころなり。すなはち選択本願の名号を一向専修なれとをしへたまふ御ことなり。「専復専」といふは、はじめの「専」は一行を修すべしとなり。「復」はまたといふ、かさぬといふ。しかれば、また「専」といふは一心なれとなり、一行一心をもつぱらなれとなり。「専」は一つといふことばなり、もつぱらといふはふたごころなかれとなり、ともかくもうつるこころなきを「専」といふなり。この一行一心なるひとを「摂取して捨てたまはざれば阿弥陀となづけたてまつる」(『礼讃』・意 六六二)と、光明寺の和尚(善導)はのたまへり。この一心は横超の信心なり。横はよこさまといふ、超はこえてといふ、よろづの法にすぐれて、すみやかに疾く生死海をこえて仏果にいたるがゆゑに超と申すなり。これすなはち大悲誓願力なるがゆゑなり。この信心は摂取のゆゑに金剛心となれり。これは『大経』の本願の三信心なり。この真実信心を世親菩薩(天親)は、「願作仏心」とのたまへり。この信楽は仏にならんとねがふと申すこころなり。この願作仏心はすなはち度衆生心なり。この度衆生心と申すは、すなはち衆生をして生死の大海をわたすこころなり。この信楽は衆生をして無上涅槃にいたらしむる心なり。この心すなはち大菩提心なり、大慈大悲心なり。この信心すなはち仏性なり、すなはち如来なり。この信心をうるを慶喜といふなり。慶喜するひとは諸仏とひとしきひととなづく。慶はよろこぶといふ、信心をえてのちによろこぶなり、喜はこころのうちによろこぶこころたえずしてつねなるをいふ、うべきことをえてのちに、身にもこころにもよろこぶこころなり。信心をえたるひとをば、「分陀利華」(観経)とのたまへり。


ここでは他力の信心を、「横超の信心」、「金剛心」、「本願の三信心」、「真実信心」、「願作仏心」、「度衆生心」、「大菩提心」、「大慈悲心」、「仏性」、「如来」と様々に言い換えられ、そして「慶喜」とも仰っています。こうした信心の言い換えは『教行証文類』においても「信文類」専念専心の釈文等に見られます。

宗師(善導)の「専念」(散善義)といへるは、すなはちこれ一行なり。「専心」(同)といへるは、すなはちこれ一心なり。
しかれば願成就(第十八願成就文)の「一念」はすなはちこれ専心なり。専心はすなはちこれ深心なり。深心はすなはちこれ深信なり。深信はすなはちこれ堅固深信なり。堅固深信はすなはちこれ決定心なり。決定心はすなはちこれ無上上心なり。無上上心はすなはちこれ真心なり。真心はすなはちこれ相続心なり。相続心はすなはちこれ淳心なり。淳心はすなはちこれ憶念なり。憶念はすなはちこれ真実の一心なり。真実の一心はすなはちこれ大慶喜心なり。大慶喜心はすなはちこれ真実信心なり。真実信心はすなはちこれ金剛心なり。
金剛心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。度衆生心はすなはちこれ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心すなはちこれ大菩提心なり。この心すなはちこれ大慈悲心なり。この心すなはちこれ無量光明慧によりて生ずるがゆゑに。願海平等なるがゆゑに発心等し。発心等しきがゆゑに道等し。道等しきがゆゑに大慈悲等し。大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆゑに。


【現代語訳】
 善導大師が「専念」といわれたのは、念仏一行である。「専心」といわれたのは、二心のない一心のことである。すなわち、本願成就の文に「一念」とあるのは二心のない心、すなわち専心である。この専心は深い心、すなわち深心である。この深心は深く信じる心、すなわち深信である。この深信は固く信じる心、すなわち堅固深信である。この堅固深信はゆるぎない心、すなわち決定心である。この決定心はこの上なくすぐれた心、すなわち無上上心である。この無上上心は真実の徳を持った心、すなわち真心である。この真心は生涯もたれる心、すなわち相続心である。この相続心は純朴で飾り気のない心、すなわち淳心である。この淳心は常に仏を思う心、すなわち憶念である。この憶念はまことの徳をそなえた心、すなわち真実一心である。この真実一心は広大な法を受けた喜びの心、すなわち大慶喜心である。この大慶喜心はまことの心、すなわち真実信心である。この真実信心は金剛のように堅く決して砕かれることのない心、すなわち金剛心である。この金剛心は仏になろうと願う心、すなわち願作仏心である。この願作仏心は衆生を救おうとする心、すなわち度衆生心である。この度衆生心は衆生を浄土に往生させる心である。この心は大菩提心である。この心は大慈悲心である。なぜなら、はかり知れない阿弥陀仏の智慧によって生じるからである。阿弥陀仏の本願が平等であるから、阿弥陀仏より回向された信心も平等である。信心が平等であるから、その信心にそなわる智慧も平等である。智慧が平等であるから、慈悲も平等である。この大慈悲をそなえた信心が、浄土に至ってさとりを開く正因なのである。

大慶喜心」のことを『唯信鈔文意』では「慶喜」と言われていることが分かるでしょう。他にも「広大難思の慶心」とも言われていますが、全て他力の信心の言い換えです。無論、阿弥陀仏より回向せられる信心が我々に影響を与えることは言うまでもなく、自分の力では決して生死を離れられず苦しみ続ける私が次生必ず仏に成ると聞けば嬉しい喜びの心が起きてきます。また、多少なりとも有縁の方々にお伝えしようなどという心も起きてまいります。ただし、我々の心が「大慶喜心」になるのではないのです。それは、他力の信心を「金剛心」、「真実信心」、「大慈悲心」、「如来」等と呼ばれても、我々の心が金剛心になるわけでも真実心になるわけでも、大慈悲心になるわけでも如来と同じ心になるわけでもないことと同じです。如来より回向せられる真実浄信が煩悩の塊である我々に影響を及ぼすことは間違いありませんが、今生において我々の悪業煩悩が浄化されて立派な心になるとか、どんなことがあっても崩れない安心、満足、喜びの境地に出るなどといったことはないわけです。あくまで往生は変わらない、往生の因である信心は変わらないということであって、我々の心、幸福感が変わらないということではないことに注意して下さい。

それと、この一段は万行諸善を隨縁の雑善と言われ、それらは自力の善根であるから極楽に生まれることはできないと嫌われていること、そして釈尊は数多くお説きになられた善の中から本願の念仏を選び取って我々に与え、念仏一行を一心に専ら修せよと教えられているところです。因果の道理、廃悪修善、六度万行、七仏通戒偈、19願、定散二善等を根拠に親鸞会では「善の勧め」なる教えを説いて、その度に会員を献金、勧誘、無条件服従などの活動へと駆り立てていますが、親鸞会の勧めるものがらがたとえ如説の善であってもそれは「隨縁の雑善」「自力の善根」であって「実報土には生れずときらはるる」のです。そして、「隨縁の雑善」「自力の善根」では浄土往生できないと余の善を捨てて、念仏一行を一心に修める人を阿弥陀仏は光明の中に摂め取って決してお捨てにならないのです。

経家によりて師釈を披くに、雑行のなかの雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行のなかの専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。(化身土文類)

とあるように、阿弥陀仏の光明は、「余の雑業の行者」、すなわち「隨縁の雑善」「自力の善根」を修める者を照らし摂めないのです。まして単なる一新興宗教団体の、組織拡大のための活動に勤しみ、それが信心獲得へ近づく方法であるなどと思い込んでいる者は・・・言うまでもありませんね。

いずれにせよ、他力の信心は念仏一行を二心なく一心に専ら修する者に回向せられるのであり、釈迦弥陀の教勅に順わず、因果の道理や19願、定散二善などを根拠として善もどきの善に励んでいる者には決して分からない信心なのであります。会員の皆さんは、

信心獲得したら、苦しみの人生が、幸せな人生にガラリと変わる
信心獲得は、火に触ったよりも明らかなハッキリした体験
広かったぞ~、大きかったぞ~、想像を絶する大きな慶びの心が起きたぞ~
最悪の死に直面しても変わらぬ安心、満足の境地に出る
何時でも何処でも満足一杯、喜び一杯、安心し切って明るい生活ができるようになり、人生の醍醐味を心ゆくまで味わうことができるようになるのです

このような文言で信後はさぞや素晴らしい世界に出るのだろう、逆にそうならなかったら信心獲得ではないと思い込んでいるかと推測されますが、そんな幻想的な楽を追い求めている人は救われないと説かれていることを知るべきです。

しかし、苦しみの世界から出離したい、阿弥陀仏に救われて浄土に往生したいと願い、南無阿弥陀仏のすがたをよく心得たなら、阿弥陀仏は深く喜びましまして、八万四千の大いなる光明を放ってその人を摂め取って決してお捨てになりません。親鸞会の活動が信心獲得へ近づく方法であるなどという邪義は捨て、また小賢しい凡夫の詮索や先入観も捨てて、「南無(我にまかせよ)阿弥陀仏(必ず救う)」の大悲招喚の勅命をそのまま聞き受け念仏して頂きたいと思います。



【参照】
『飛雲』謗法罪の定義さえ知らない高森顕徹会長
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


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平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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