「踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと」、「定聚の数に入ること」「真証の証に近づくこと」を喜ばないのは、「愛欲の広海」「名利の大山」といった煩悩のため

コメント返信の続きです。

コメント6
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動乱破壊せられない信心を阿弥陀仏からいただきますから、間違いなく往生成仏させて頂けるという歓喜は生涯途切れることなく続いていきます。心の内に常に喜びは絶えず、よろこびは心にいつもあります。
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信心は動乱破壊しませんので、間違いなく往生成仏させて頂けるというのはその通りです。ただ信心が我々の心を喜ばせ続けるかといったらそうではありません。後で話しますが、とんでもない邪魔者がいて、そのような素晴らしい果報を私達は中々喜ばないのです。

心とか信心というのは実態がないものですから表現に困るところですが、ともあれ阿弥陀仏より賜った信心が常に我々の根底にありますから、「喜はこころのうちによろこぶこころたえずしてつねなるをいふ」であります。それが縁に触れ折に触れ、間違いなく仏にさせて頂いたことを喜ぶ心となって起きてまいります。ただ「こころのうちに」であって常に喜びが心の前面、表面に絶えず出ているというものではありません。世俗的な生活をしている我々は相変わらず日々の事象に押し流され、どう生きてゆくかしか考えず、ついつい法の有難みを忘れがちなのであります。

ところで浄土真宗の教えを聞く私達は、浄土往生、往生成仏といつもつい軽く口にしていますが、これは言葉ではどうにも表現しようがない物凄いことなのです。もし自力で成仏に至るには、三祇百大劫という私達の認識に乗らないほど長期間に亘って修行しなければなりません。現在兜率天で成仏を目指している弥勒菩薩は等覚のさとりまで到達していますが、その弥勒菩薩でさえ更に56億7千万年修行をしなければならないというのですから、世に比類なき長期間を要する、しかも厳しい道です。当然誰しも歩める安易な道ではなく、極めて優れた資質を持った者が堅固な忍耐力をもって三祇百大劫にもおよぶ修行を積まねばなりません。像法の時の智人である龍樹菩薩や天親菩薩でさえ自力成仏は断念して念仏の門に帰依しているのですから、末法の今を生きる我ら凡夫にはたとえ天地がひっくり返ったって自力成仏は無理なのは言うまでもありません。

それで、この世でのさとりはあきらめて、阿弥陀仏の本願によって浄土に往生しようという浄土仏教が我々の機根にかなった教法なのですが、末代不善の凡夫、十悪五逆の罪人である我々は、自力諸行往生や自力念仏往生の道すら厳しいものがあります。もし如説に19願の善を行じようと思ったら、それこそ出家して世俗的な生活から離れる必要があります。毎日平気で肉や魚を食べて殺生の限りを尽くし、嘘で塗り固めた生活をし、自分さえよければいいと自己中心的な考えをもって、己の夢の実現、欲望の追求のみに生きている、どんなブラック企業よりもブラックな私達の後生は、仏教的観念をもって普通に考えたら三悪道、中でも地獄しかないでしょう。そんな我々が後生地獄を免れて辺地、懈慢界の往生ですらあり得ないことなのに、死ぬと同時に報土に往生し、しかも仏のさとりを開くというのですから、これ以上の不思議は考えられません。もしそんな果報が得られるとなったら、踊り狂って死ぬ位喜んでも足りるということはないはずです。

ところが問題は、そのような素晴らしい果報を得るとなったことを私達がどうとらえているかという点です。この前東名高速で反対車線から車が飛んで来たという事件がありましたが、どうでしょうか? この映像ほど往生成仏する身とさせて頂けたことを凄いことだとビックリしているでしょうか? また宝くじ等で思いがけず100万円ほどの金を手に入れたとしましょう。如何でしょうか。100万円手に入ったよりも往生成仏の果報を喜んでいるでしょうか? 残念ながら、私の腐り切った性根はそれほども驚きも喜びもしておりません。本当にどうしようもない根性です。

この、喜ぶ心が湧き出てこないということ、本願を疑い無く信じさせて頂いたこと以外は信前とさして変わらないということは、誰しも不審な点だと思われます。もう二度と迷いの世界に流転することなく、次生必ず浄土に往生し、仏に成る身となったのだし、お聖教には『唯信鈔文意』の文然り、「広大難思の慶心」、「踊躍歓喜」等と教えられていますから、もっともっと喜ぶ心が出て当然だろう、逆にそうならないのはどうしてだろうかと疑問に思うところでしょう。また、死ねば一切の苦から解放されて最高のさとりを開くのだから、一刻も早く死んだ方がよさそうに思えますが、さして早く死にたい、早く浄土に往生したいという心もありません。勿論「死にたい」と思うことはありますが、それはあくまで現実苦からの離脱を求めてであり、さとりを開いて衆生を思うがごとく利益しようなどという立派な心からではないのです。それについて教えられているのが『歎異抄』第九条

念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。 よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。 また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。 いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなましと[云々]。

です。「踊躍歓喜のこころ」は無いのではないけれども「おろそかに候ふ」と唯円は申しており、親鸞聖人はそれを否定もせずに「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」、親鸞もそうだと仰っています。そして、死ぬと同時に浄土往生し、速やかに迷いを離れて無上のさとりを得られるというこの上ない果報を間違いなく賜る身となったのに、そんな喜ぶべきことを喜ばないのは「煩悩の所為」であるというのです。

『歎異抄』は親鸞聖人の書かれたものではないではないか」という人もあるかも知れませんので、これを『教行証文類』で示しますと、会員の皆さんもよくご存じの「信文類」悲嘆述懐

まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。

がそれです。「定聚の数に入ること」「真証の証に近づくこと」を喜ばないのは「愛欲の広海」「名利の大山」といった煩悩のためであるというのです。そんな煩悩具足の凡夫を目当てとして阿弥陀仏は本願を建て、名号を成就して与えて下されたのだと、煩悩しかない、喜ぶべきことを喜ばない仏道の死骸のような我が身を見るにつけ、大悲大願がたのもしく、いよいよひとえに後生は阿弥陀さまにおまかせするのみだと知らされます。


信心を獲て後に喜ばれるとか、喜ばれぬとかいった心配は無用です。大事なのは本願を疑い無く聞き受けていること、南無阿弥陀仏のすがたを心得たこと、本願に身も心もすっかりおまかせしたことであります。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。(執持鈔)

OHEさんも挙げているこのお言葉の通りです。

我々の心が喜ぶのは欲望を満たした時だけと言っていいでしょう。地獄逃れて仏に成るという果報を喜ばない、腐った性根しか持たない我々の心が如何様に喜んでいても、そんなものは何の当てにもなりません。本当に頼りになるのはただ念仏のみです。「助けるぞ」の大悲招喚の勅命のみです。もし「間違いなく往生成仏させて頂けるという歓喜は生涯途切れることなく続いていきます。心の内に常に喜びは絶えず、よろこびは心にいつもあります」と言われるように生涯途切れぬ歓喜が心にいつもあるようなら、

煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなまし

と親鸞聖人に言われてしまうことでしょう。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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