もしこの世の苦しみを何とかしようというのならこの世での成仏を目指すべきだし、信を獲たとて我々の罪が消えるわけではないので、当然その報いは信前と変わらず苦果として現れてくる

親鸞聖人は「信文類」冒頭にて、言葉を尽くして他力の信心を誉め讃えています。

つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり。大信心はすなはちこれ長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心、希有最勝の大信、世間難信の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信海なり。この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。ここをもつて極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり。

【現代語訳】
つつしんで往相の回向をうかがうと、この中に大信がある。大信心は、生死を超えた命を得る不思議な法であり、浄土を願い娑婆世界を厭うすぐれた道であり、阿弥陀仏が選び取り回向してくださった疑いのない心であり、他力より与えられる深く広い信心であり、金剛のように堅固で破壊されることのない真実の心であり、それを得れば浄土へは往きやすいが自力では得られない浄らかな信であり、如来の巧妙におさめられて護られる一心であり、たぐいまれなすぐれた大信であり、世間一般の考えでは信じがたい近道であり、この上ないさとりを開く真実の因であり、たちどころにあらゆる功徳が満たされる浄らかな道であり、この上ないさとりの徳をおさめた信心の海である。 この信心は念仏往生の願(第十八願)に誓われている。この大いなる願を選択本願と名づけ、また本願三心の願と名づけ、また至心信楽の願と名づける。また往相信心の願とも名づけることができる。 ところで、常に迷いの海に沈んでいる凡夫、迷いの世界を生れ変り死に変りし続ける衆生は、この上もない証を開くことが難しいのではなく、そのさとりに至る真実の信心を得ることが実に難しいのである。なぜなら、信心を得るのは、如来が衆生のために加えられるすぐれた力によるものであり、如来の広大ですぐれた智慧の力によるものだからである。たまたま、清らかな信心を得たなら、この信心は真如にかなったものであり、またいつわりを離れている。そこで、きわめて深く重い罪悪をそなえた衆生も、大きな喜びの心を得て、仏がたはこのものをいとおしみ、お護りくださるのである。

ここでも他力の信心を様々に言い換えられています。前の記事で紹介しましたが、「大慶喜心」も言い換えられた一つです。ここでは「大慶喜心を得」とありますが、私達の心が「大慶喜心」になるのではありません。それは、例えば「長生不死の神方」とあっても、信を獲た者はこの世で誰でも長生きして死なないということではないのと同じです。「大慶喜心を得」ましても、悲しい事に我々は煩悩によって喜ぶべきことを喜ばないのであります。また、「もろもろの聖尊の重愛を獲るなり」と説かれていても、それは私達の身に実感として知らされるのではありません。報仏、化仏が幻想的にでも見えて、私にだけ聞こえる言葉で誉め讃えて頂けたら分かりやすいし、嬉しいだろうになと思いますが、残念ながらそんなイリュージョンはないのであります。

また、親鸞会では故意に省略していますが、「なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。」の一文が実は非常に重要です。他力の信心は「如来の加威力」「博く大悲広慧の力」によって得られる、すなわち阿弥陀仏からの一方的な下されものというわけです。私達が他力の信心を求めて様々に活動しなければ得られないというものではありません。これが分からず、こちらから向かっていかねばならない、何もせずして信心が獲られるはずがないとしか思えないから「真実の信楽まことに獲ること難し」なのです。「助けるぞ」の大悲招喚の勅命をそのまま頂いたなら、もはや「難し」ではなくなります。それを「難し」のままに据え置いて、会員の皆さんに信心を獲させないように邪魔をしているのが高森顕徹会長の邪説です。表現に賛否両論あるのを承知で言いますが、親鸞会の邪説を捨て去るだけで大分信心が獲やすくなるのではないかと思います。


さて、これが親鸞会会員と思われる方からの最後のコメントです。

コメント7
********************
信心決定しても相対の幸福しか求めない私たちでありますから、相対の幸福が得られれば幸せに感じますし、得られなければ苦しみます。苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わるということは、相対の幸福が崩れない、変わらないということではありません。

絶対の幸福とは、比類なき無上の幸福であり、ずっと続く幸せです。

永久の昔から流転輪廻してきた我らを、阿弥陀仏のひとり働きで、無条件に弘誓の船に乗せてくだされ、往生一定の身にして下されたという、比ぶべきものが一切ない身の幸が、心の内に常に絶えないことを絶対の幸福と言い表されているのです。

********************

この方の言葉で言いますと、

信心決定
=「絶対の幸福
=「苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わる
=「比類なき無上の幸福であり、ずっと続く幸せの身になる」
=「阿弥陀仏のひとり働きで、無条件に弘誓の船に乗せてくだされ、往生一定の身にして下されたという、比ぶべきものが一切ない身の幸が、心の内に常に絶えないこと

ということだそうです。が、まず親鸞聖人は「絶対の幸福」なる言葉は一箇所も使われていませんし、信心決定したら「苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わる」とか、「比類なき無上の幸福であり、ずっと続く幸せの身になる」などとはどこにも言われていません。恐らくこのような現世利益を謳う根拠としては「信文類」

金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。

等であろうと思われますが、「現生に十種の益を獲たこと」と、「現生に十種の益を獲たことが実感として知らされる」ことは違うということは

『飛雲』信楽と正定聚との関係も判らない高森顕徹会長の信心

等に既に述べられている通りです。「(浄土往生、往生即成仏を指して)比類なき無上の幸福を得る身となった」とは言えるやも知れませんが、あくまで浄土往生、成仏の果報は死んでからであります。親鸞聖人は「幸福」という言葉は使われておりませんし、「信心=幸福感」でもありませんので、上の等式は成り立ちません。地獄より行き場のないような我らが地獄逃れるだけでなく、報土往生して仏果を得るという無上の果報者となったにも関わらず、激しく燃え盛る煩悩が身に満ち満ちているため、私達はそういった天に踊り地に踊るほど喜ぶべきことをそれほどに喜ばないのであります。

ところで最後の等式は、半分当たりで半分はずれといったところでしょうか。そういう身の幸を常に感じることができればいいですが、やはり然るべき方から法をお聞かせ頂かないと、私達は法の有難みや御恩というものを忘れてしまいますし、喜びも薄れていってしまうように感じます。著書を読むでも、YouTubeやメモリーの動画・音声を聞くでも勿論いいですが、やっぱり生で聞くのがいいですね。半分はずれと言ったのは、高森会長の話では弥陀の救いは「ひとり働き」でも「無条件」でもないし、心の中が常に最高無上で不変の幸福感で満たされるようになるでもないからです。何らかの形で法に触れなければやっぱダメでしょうから、法話にもお参りするように言われるし、念仏相続、勤行、お給仕といったことも勧められるのでしょう。早く助かる方法とか、救いまでの道を進むということではなく、獲信の平生に往生は定まるのだけれども、常に如来の大悲を浴びに浴びながらそれに気づかない私を知らせ、その私が仏に成る不思議、有難さ、喜び、その御恩を知らせて頂くためには、法縁に触れる必要があると感じます。


あと、親鸞会で現世利益を謳う時によく言われるのが、

死んで堕ちる地獄の苦しみを解決して下さる力が阿弥陀さまにあるなら、この世の苦しみくらい簡単に救って下さるはずだ

という理屈です。しかし、これには根拠がありません。現世において成仏得道すればこの世の苦しみは無くなるかも知れませんが、それが無理だから私達は阿弥陀仏の本願力によって次生浄土に往生しようとしているのです。もしこの世の苦しみを何とかしようというのならこの世での成仏を目指すべきでしょう。それと信を獲たとて我々の罪が消えるわけではないので、当然その報いは信前と変わらず苦果として現れてくるのです。先世からの業、また今生の業が悪い人は今生もまた苦しみの連続ですよ。信後だろうと苦しいものは苦しいし、辛いものは辛いのです。変えたかったらこれからの行いを変えるしかありません。こればかりは致し方無いですね。ただ、死ぬ瞬間まで苦しみ喘いでいようと、それが浄土往生の妨げとはならないのだから不思議でしょう。それは

三毒の煩悩はしばしばおこれども、まことの信心はかれにもさえられず。顛倒の妄念はつねにたえざれども、さらに未来の悪報をばまねかず。(浄土真要鈔)

とあるように、信心は煩悩に障碍されないからです。ですから、心に喜びが有ろうと無かろうと、大きかろうと小さかろうと、阿弥陀さまに後生おまかせした信心がまことならば、間違いなく浄土にお連れ下さるとのことですので、それほど喜びが湧き出てこないのはどうしてだろうかなどと心配なさらないで下さい。もし今生の利益が無いようなものであっても、ゆめゆめ往生の大益を疑ってはなりません。

また、仏凡一体を勘違いして、私達の心が「仏心」になるとか、そこまでいかなくても「獲信者は仏心を体現する」と思っているとも考えられます。その証拠に高森顕徹会長は「仏心を体現した医師、出でよ」だとか言っているようです(『親鸞会公式ホームページ』高い技術と円熟の人格で、信頼厚い名医参照)。ただ、「仏凡一体」といっても我々凡夫の心が仏心に転成されるのではありません。これは、衆生の心にいただかれた法の徳(法徳)としていわれるのであって、衆生の現実のすがた(機相)の上でいわれるのではないのです。名号は私の往生成仏の因徳として宿るのですが、それを高森会長は衆生の現実のすがた(機相)の上に現れると誤解しているのでしょう。だから聞いている者も勘違いして、「高森先生は阿弥陀仏の御心が分かる無二の善知識」なんかと思い込んでいるのではと推測されます。


もしこの方の言うように、「比類なき無上の幸福であり、ずっと続く幸せ」が、そんな幸福感が常に私達の心にあるようなら、どんな苦果がやって来てもヘッチャラなはずです。何せ「最悪の死に直面しても変わらぬ安心、満足の境地」だそうですから、怒られたり酷いことを言われたり、怪我や病気になったり、大事な人と死別したり、交通事故で人をひき殺してしまったり、その他どのような事が身に起きても苦しみに感じることなどないのではないでしょうか。変わらぬ安心、満足が心にデンとしてあるんですから、「相対の幸福」が得られない、あるいは崩れた位で苦しみと感じるとは思えません。うつ病などの心の病気も完治し、「人間に生まれて良かった」、「よくぞ人間に生まれたものぞ」という生命の大歓喜で、どんな苦難もたくましく、前向きに、常に喜びを心に充満させて生きていけそうなものです。逆に「相対の幸福」が得られない程度で苦しんだりするなら「絶対の幸福」なんて呼ばれないのではないでしょうか。


長くなりましたが、これでコメントに対する返信は終わりとします。それで今回改めて感じたのが、

「高森顕徹会長(宗教法人浄土真宗親鸞会)がたまにまともな真宗教義をいう問題」の背景について

にあるように、高森会長の話はダブルバインドだからあのようなコメントが来たのかなということです。高森会長は批判に呼応して話をするので、宿善しかり、真剣な聞法・求道しかり、善の勧めしかり、次の回には今まで話していたことと違ったことを平気で言います。それを会員は「高森先生に間違いがあるはずがない」信心をもって受け止めるため、戸惑いつつもうまく脳内変換して両方正しいと信じます。この度は「信心の判定基準」、「絶対の幸福」等についてでしたが、それについて新たに高森会長が話をしたのかも知れません。あるいはただ高森会長を擁護したかっただけかも知れませんが、いずれにせよ「そんなことは聞いていない」と反論に来たのでしょう。

所詮高森顕徹会長は、創価学会の「相対的幸福」「絶対的幸福」という用語をパクって現世利益をちらつかせ、無上の幸福になれると夢見させて、己の夢の実現、欲望の追求、組織拡大のために会員を体よく利用しているに過ぎません。宮田さんもご指摘のように、

高森会長がたまにまともなことをいうのは、たまにまともなことを言って会員に「高森会長の言っていることは真宗である」と信じ込ませるためのポーズに過ぎません。

であります。度重なる募財にうんざり、中身のない話にうんざり、救われる気配も無いという方は、今や手元のスマホで何でも調べられますから、ここらでちょっと教義についても調べてみましょう。




【追記】
今まで、OHEさんのお名前を間違えておりました。大変申し訳ございません。記事の中の誤りはおおよそ訂正しましたが、まだ誤りのまま載っている可能性があります。自分でも探しておりますが、もし直っていない箇所があればどなたかご指摘下さい。残念ながらコメント文に関しては一度消さないと修正できないようなので、そちらの方は手直ししておりません。以上、皆様にご報告致します。
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非公開コメント

No title

淳心房さんへ

私の名前に関しては大した問題ではないので、気にしないでください。
私が問題とするのは、親鸞会の会員が、何も知らないのに知ったかぶりをして偉そうにコメントすることです。

Re: OHE様

本当にすいませんでした<(_ _)>

いつも迅速で、かつ簡潔で鋭いコメントをありがとうございます。

会員の皆さんは高森教以外本当に何も知らないですから仕方ありませんね。でも、コメントが来た当初は「あん?」とか思いますが、色々調べたり聖教に触れるきっかけにもなるので、結果から見たらこれもご縁だったなぁと振り返ることが多いです。

最近は「??」と思うコメをされる方を「還相の菩薩さまかな?」と思うようにもなりました。

親鸞会の珍しき教えを世に晒し、このように浄土真宗が明らかにされ、これを見た会員さんが阿弥陀さまに出遇うご縁にもなると思うからです。

淳心房さんは大変かと思いますが、しゃあさんという頼もしいブレインもおられるようですし、安心して拝見しています。

豆腐メンタルな俺は「ぐぬぬ。。違うのにぃ」と思いながらもここまで明瞭に答えられません。

今回も有難く読ませて頂きました。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

Re: R1000様

ありがとうございます<(_ _)>

根拠はほとんど高森節なのによくコメントしてくるなと驚嘆してしまいます。教義や組織に疑問を持った方が読まれて、本願を信じ念仏するきっかけにでもなったらいいなと思っています。

私はネット環境に接続できる時間帯が限られているので迅速なコメント応酬はできませんが、有難いことに真宗にも高森教にも詳しい方々がコメントして下さっています。私もコメントに答えることで、親鸞会教義の誤りと浄土真宗の信心・念仏を伝えることができ、また法に触れることができるので、振り返ればよいきっかけだったなと思います。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

No title

〉「苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わる」などと説くことは、二種深信以外の要素、つまり三業で信心の有無を判定していことに他ならない


ところで淳心房さんは、念仏を称えているかどうかで信心の有無を判定できると考えてますか?

No title

横からですが、

>念仏を称えているかどうかで信心の有無を判定できると考えてますか?

「三業で判定できない」という簡単な日本語が理解できないようですね。
念仏に自力と他力があることを、今更説明する必要があるのですか?

コメント返信

>念仏を称えているかどうかで信心の有無を判定できると考えてますか?

いません。

No title

>>念仏を称えているかどうかで信心の有無を判定できると考えてますか?

>いません。

では、

「真実の信心には必ず名号を具す」

はどう解釈したらよいのでしょうか。

真実の信心の人は必ずお念仏を称える、という解釈は間違いでしょうか。よろしくお願いします



Re: 名無し様

愚問ですね。

安心論題(20)必具名号
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%AE%89%E5%BF%83%E8%AB%96%E9%A1%8C/%E5%BF%85%E5%85%B7%E5%90%8D%E5%8F%B7

でも読んだらいかがですか?

No title

はじめましてかもですけど、私も微力ながら横から失礼させていただきます。

淳心房さんが、答えていただいた、

>>念仏を称えているかどうかで信心の有無を判定できると考えてますか?
>いません。

ですが、私は「どちらとも言えない」という回答をいたします。

そのように考える手立てとしましては、善信上人がご執筆せられた
「三帖和讃 浄土高僧和讃 龍樹抄」に
  不退の位速やかに 得んと思わん人はみな
   恭敬の心に執持して 弥陀の名号称ず可し
とあり、この中での「不退の位」は「次如弥勒」で表される「利益での名号」
「恭敬の心に執持して 弥陀の名号称ず可し」での
「恭敬の心」「弥陀の名号」は同じ名号について顕されています。

そのため、私は「どちらとも言えない」と回答いたします。

その次に書かれている
  生死の苦海ほとりなし 久しく沈める我らをば
   弥陀の悲願の船のみぞ 乗せて必ず渡しける
という和讃は、
「正像末法和讃 愚禿悲嘆述懐」での
  小慈小悲も無き身にて 有情利益思う可し
   如来の願船いまさずば苦海を如何でか渡る可き
と全くと言っていいほど趣旨が同じで
「苦海を渡してくれるのは弥陀の船しかない」という意味です。

ですから、どうか「知識帰命」で終わらずに安心決定してください。

帰命盡十方無礙光如来

Re: Abc様

ご意見ありがとうございます。

ただ、「念仏を称えているかどうかで信心の有無を判定できる」かどうかについては、否でしょう。

・名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。(信文類)
・ただ声に出して念仏ばかりをとなふるひとはおほやうなり、それは極楽には往生せず。(御文章3帖目3通)

このように、念仏を称えているという行為、三業から信心の有無は判定できません。南無阿弥陀仏の六字のいわれをよく聞いて信心獲得しなければ極楽に往生することはできないと言われています。

一方で、真実の信心は「念仏一つで助かる」という信心であり、念仏(南無阿弥陀仏の六字)のいわれを心得たことをいうので、真実信心には必ず念仏を称えるというはたらきがそなわっております。それと、

「(大悲の願船に乗せられると同時に、)私達の苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わります」

というのと何の関係があるのかということです。親鸞聖人が仰ってもいないことを勝手に言わないでもらいたいものですね。

No title

返信ありがとうございます。

返信読ませていただきました。淳心房さんがおっしゃっている内容については、
なんら否定するようなところは見当たりませんでした。

>ただ、「念仏を称えているかどうかで信心の有無を判定できる」かどうかについては、否でしょう。

この言葉に至った前の文面、
「(大悲の願船に乗せられると同時に、)私達の苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わります」

を目に留めてなかったために、少々的を外れた問いかけをしてしまいました。

さて、「私たちの苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わります」と彼らが描いた慧燈大師がもうされておりますが、実のところ大悲の願船に乗せていただいたとしても、喜びが湧き上がることもなければ、神通力が備わるわけでもありません。

「喜びが沸き上がらない」ということに関しましては、善信房と唯円房のやりとりのなかにありますので、そちらをご覧になられてください。

釈迦が説法せられていた頃(正法の機)は、「おびんずるさん」のような神通力を使える方もいらっしゃいましたが、上人が言われている(源空聖人も言われている)
「末法五濁の機」では、神通力を使える人もいなければ、誰が見ても
「この御方は救われてるぞ!!」という工合に黄金の光明が御仁から放たれるわけでもありません。

末燈抄 自力他力の事 には
「夫れ、浄土真宗の意は、往生の根機に他力あり自力あり、(乃至)[自力と申すは]わが計らいの心をもって身口意の乱心を繕い、(往生を願うものである)
[他力と申すは]選択摂取したまえる第十八の願(念仏往生の願)を信楽するを他力とは申すなり。また「義なきをもって義とす」と(聖人は言われています)
義というは、計らうことなり(云云)」 とあります。(大部分がうろ覚えなので拙い部分があります。

「ガラリとかわります!」という文だけ見ると、自分の知っている自分の心ではないような気がしてなりません。(実際、心理制御によって彼らはそうなってしまい、弥陀を素直に信じられなくなっています。

彼らの性格がよろしくない部分としましては、「最初は教義が合ってるかのように見せかける」ことです。(彼らの持っているビデオの1巻の中に源空聖人が「捨てようとする心も捨てよ!」とは「自力を捨てよ」という趣旨を映像にしてあるので彼ら的には「義なきをもって義とす」を説明しているつもりらしいです。

私としましても、善信上人の教義をここまでやられるとなんとも言えない気持ちになってきます。

淳心房さん、末筆にはなりますが、どうぞこれからも邪義を打ち砕いてくださいますことを心に抱いで筆を下ろさせていただきます。

帰命無礙光如来
 【帰命トイフハ南無ナリ、無礙光如来トイフハ弥陀ノ別号ナリ。
  故(カルガユエ)ニ、コノ名号ト六字ノ意ハ同ジ意也。】

No title

愚問に対する返信、ありがとうございました。
名前を書くのを忘れてました。名無しになっていてすみませんでした。

>ただ、「念仏を称えているかどうかで信心の有無を判定できる」かどうかについては、否でしょう。

>・名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。(信文類)

とお答え下さいました。

真実信心の人は必ずお念仏を称えますが、逆に、お念仏を称えているからといって、必ずしもその人の信心が真実と言えない、ということは分かりました。

これは「逆必ずしも真ならず」ということですね。

一般に、ある命題「AならばB」という命題が真ならば、
逆命題「BならばA」というのは真ではありません。
また、裏命題「AでないならBでない」というのも真ではありません。
しかし、対偶命題「BでないならAでない」は真です。

では、「真実信心の人はお念仏を称える」という命題は真でしょうか。真実信心の人は必ずお念仏を称えるのですからこれは真でいいでしょう。というか、親鸞様がおっしゃられたことなので真ですね。
それではこの対偶命題はどうなるでしょうか。
「お念仏を称えないのは真実信心の人でない」になります。
この対偶命題は真でしょうか、真ではないのでしょうか。

よろしくお願いします。




No title

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。(御消息)

No title

真実の信心でないことを判定するのは、三業で判定できるものはあります。
念仏誹謗、謗法の人は、真実の信心でないと断定できます。念仏を称えることのできない特殊な事情がないのに、念仏を称えない真実信心はないです。親鸞聖人が仰っている通りであり、謗法闡提回心皆往のお言葉からも、明白。
しかし、三業で真実の信心であると判定することはできない。

簡単な話。何も矛盾しない。

コメント返信

ふじた様

そうですね。ハンドルネームがあった方がいいです。何もふじたさんに限らずですが、もし名前を書くのを忘れたら「何時何分のコメントは誰誰です」等と別コメしてもらえたらと思います。


>「お念仏を称えないのは真実信心の人でない」になります。
この対偶命題は真でしょうか、真ではないのでしょうか。

既にOHEさんが答えられているので私の出る幕はありませんが、特別な事情、例えば声が出ないとか、聞信した直後に死んでしまうとか、そういう例外を除けば真です。知っておいてもらいたいのは、「念仏を称える」「念仏を称えない」といった身業では他人の信心の有無は判断しかねるということです。なので祖師も

名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。(信文類)

と仰せです。これは口業、意業においても同様で、こんなことを言っている、こんなことを思っている、だから信心が有るとか無いとかと他人が判定、断定することはできません。


ところが高森顕徹会長は、アニメの蓮如上人に

「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わります」

と言わせています。幸せな人生にガラリと変わるというのは意業(三業)の変化です。また、この言葉と対応する

「しかしながら、幸せな人生にガラリと変わっても必ずしも大悲の願船に乗せられたとは限りません」

という語も映画の蓮如上人のセリフには無いので、私はふじたさんの仰るような対偶命題

「幸せな人生にガラリと変わらないようなら、それは信心獲得(大悲の願船に乗せられたの)ではない」

が高森顕徹会長の主張だと言いました。文句があればあんな駄作を世に公表した人物に言って下さいね。



OHE様

いつも的確なコメントをありがとうございます。

No title

OHE様、ご回答ありがとうございました。
淳心房様、コメントありがとうございました。

「真実の信心でないことを判定するのは、三業で判定できるものはあります。
念仏誹謗、謗法の人は、真実の信心でないと断定できます。」

との結論、ありがとうございます。

三業によって「真実の信心ではない」ことを断定できるというのは素晴らしいことです。

今後もいろいろ教えてください。


No title

この程度のことで感謝してもらえて、光栄ですわ。

日蓮の信心が判定できるかどうか、議論の余地がありますか?
高森会長でさえ、こんな愚かな質問はしないでしょう。

「謗法の者は、絶対に往生できない」

これは仏教での超常識。

教行信証に書いてあるから、読んでみては如何ですかね。

まあ、愚問で喜んでいるくらいの知能では、読めないでしょうし、全人類は逆謗の者とか言っている高森会長の信者には、信じられないお言葉でしょうがね。

もう少しまともな質問をしてきたら、もう少し丁寧に教えてあげますわ。

No title

OHE様

また愚問かもしれませんが教えてください。


「念仏誹謗、謗法の人は、真実の信心でない」

と教えていただきましたが、その対偶命題である

「真実信心の人は念仏誹謗、謗法はしない」

というのも真ですね。

では「さるべき業縁の催せば、親鸞いかなる振る舞いもすべし」

とおっしゃっておられますが、この「いかなる振る舞い」の中には「仏法を知らず知らず謗ってしまった」、ということは入らないのでしょうか。

よろしくお願いします。

No title

無い知恵を絞り出しての愚問の連続ですね。その程度の愚問を予想していなかったとでも思っているのか?

>「仏法を知らず知らず謗ってしまった」、ということは入らないのでしょうか。

謗法罪の定義も知らないなんて、お笑いです。
だから教行信証を読めと言っているのに、かの箇所を読まないから恥の上塗り。

一応親切に教えておきますが、親鸞聖人はお手紙で、
「真実信心を獲た人は、師を謗り善知識を侮るようなことは決してしない」と断言されているのを親鸞会の人は、「救われても謗法罪を造ることがある」と真逆に解釈しているんだから、高校生以下の古文の能力しかないってことを恥じた方がいいよ。

>ふじた様

謗法罪の定義
(謗法罪の定義さえ知らない高森顕徹会長
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-bb9b.htmlより)

問うていはく、なんらの相か、これ誹謗正法なるやと。
 答へていはく、もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと。

(現代語訳)
 問うていう。正しい法を謗るとは、どのようなことをいうのか。
 答えていう。仏もなく仏の教えもなく、菩薩もなく菩薩の教えもないというような考えを、自分自身でおこしたり、他の人に教えられて、その通りと心に定めることを、みな正しい法を謗るというのである。

要は異教徒のことです。教義を誤解していたというのはあっても、知らず知らず仏法を謗ってしまったなどということは通常はあり得ないことです。

また、「真実信心の人は念仏誹謗、謗法はしない」ことを聖人は

往生の金剛心のおこることは、仏の御はからひよりおこりて候へば、金剛心をとりて候はんひとは、よも師をそしり善知識をあなづりなんどすることは候はじとこそおぼえ候へ。(御消息第二通、末灯鈔(20))

と教えられています。

何が目的でこのようなことを聞いてくるのか察しはつきますが、何にせよ「師をそしり善知識をあなづりなんどする」、また阿弥陀仏を誹謗する外道の高森顕徹会長を信じるのは謗法罪です。即刻離れることをお勧めします。

No title

淳信房様
OHE様

重ねての愚問に丁寧にお答え下さり、感謝申し上げます。

要するに、法謗罪を造っているかどうかという三業で、真実信心の有無を判定できるということですね。

重ねて愚問をさせていただいたのは、その確認のためでした。

「三業で真実信心の有無を判定できる」という結論をありがとうございました。

重ねて御礼申し上げます。


No title

>「三業で真実信心の有無を判定できる」という結論をありがとうございました。

そうですよ。今頃理解できたなんて、お粗末な知能ですね。

もう少し教えてあげます。

「三業で真実信心の有無を判定できない」

これは高森会長が言っていることです。
この点については私も同意見です。

しかし、ここには当然というか言うまでもなく次の前提があるのです。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★
18願を信じていると言っている人の中で
★★★★★★★★★★★★★★★★★★

だから、異教徒や、念仏誹謗の他宗の人に対して
「三業で真実信心の有無を判定できる」
なんて愚かな質問自体が全くの無意味なんですよ。

高森会長に尋ねてみてよ、なんていうか?

高森会長でさえ言わないような幼稚園児程度の質問をして、挙げ足を取ったぞ!と勝ち誇っている幼稚園児並の知能を恥ずかしく思いなさい。
恥ずかしいという知能もないから、未だにコメントを平気で書いてくのでしょうがね。

No title

ふじたさんの知能では、

・キリストが真実の信心を獲ていたかどうか判定できるのか

・日蓮が真実の信心を獲ていたかどうか判定できるのか

・創価学会の池田名誉会長が真実の信心を獲ているかどうか判定できるのか

・麻原死刑囚が真実の信心を獲ているかどうか判定できるのか

こんな疑問が起こるみたいです。

高森会長でさえ、こんな疑問は持たないで断言するでしょう。

彼らは真実の信心を獲ていない

高森会長と同じことを言って、それに疑問を持ったふじたさんが、高森会長を信用していないことは明白です。

その点だけは大いに褒めておきます。

結論

異教徒、念仏誹謗の者の信心を三業で判定できるか?

親鸞聖人 できる
淳心房さん できる
高森会長 できる

ふじたさん できるとは言うのはおかしい

No title

ふじたさんは、退会者の言葉尻を捉えて、「矛盾だ」を必死に訴えたいようで、本当に幼稚園児並みですね(笑)

浄土真宗を信じているのが、このブログの読者なんですよ。
その読者に対して、言わなくても分かる大前提の話を覆して、「矛盾だ」と大絶叫!

キリスト教の話で、言っておきます。
禁断の果実を食べる前の、アダムとイブの状態が、ふじたさん。
つまり、
恥ずかしいと思う知恵がない!

Re: ふじた様

OHEさんのコメントにもあるように、「三業で真実信心の有無を判定できるかどうか」という命題には前提条件があるのです。さすがの高森会長でさえ、異教や念仏誹謗の宗教者の開祖、またその信者らの信心は真実信心かどうかなど、愚問だと答えるでしょう。

何にでも、特に議論において前提というのはあります。例えば当ブログは浄土真宗に関心のある方、「親鸞聖人の教えが正しい」と思っている方、親鸞会経験者を前提としています。他宗教や他宗を信じている方々にも聞いて頂きたいは頂きたいですが、それは個々の判断にお任せするしかありません。

同様に、「三業で真実信心の有無を判定できるかどうか」は真宗信者が問題にすることです。あの者は念仏しているが果たして真実信心なのかどうかとか、「我は信心を獲たり」と言っている者があるが果たして本当なのかとか、この人はこんな事をやっているけど本当に信心を獲た人なのかとか、そういった時に問題となることなので、謗法の者など最初から問題外なのですよ。こうした問題外のことを問題にすることを、親鸞会でも言っていますが何と言うでしょうか?

No title

OHE様、淳信房様

前回は、良く分かったと思ったのですが、頭の悪い私はまたわからなくなりました。

三業で信心の有無を判定できるということはよく分かりました。
また、三業で信心の有無を判定できないという時は、邪教や念仏誹謗の者は問題外だという大前提があることも分かりました。

では、念仏を尊いと思っている人の場合に限る、という前提で話します。
同じ親鸞聖人の教えを説く団体がいくつかありますが、たとえばA,B,C,D,Eの五つあるとします。そのうちのAの団体に属する者(Xさんとします)が、Bの教えを非難することは謗法罪になるのでしょうか。また、Xさんの言動を見て、Xさんは真実信心でないといえるのでしょうか。
よろしくお願いします。

No title

淳心房様

お名前を間違えて書いてすみませんでした。

No title

YAO様

>ふじたさんは、退会者の言葉尻を捉えて、「矛盾だ」を必死に訴えたいようで、本当に幼稚園児並みですね(笑)

>キリスト教の話で、言っておきます。
禁断の果実を食べる前の、アダムとイブの状態が、ふじたさん。
つまり、
恥ずかしいと思う知恵がない!

とのご指摘ですが、私はどこを矛盾だと訴えたでしょうか。
真面目にOHEさんや、淳心房さんに尋ねているのに、私の人格をけなす発言をされましたね。
お尋ねしたいのですが、YAO様のようにお念仏を喜ばれている人は、他人の人格をけなすべきだ、という親鸞聖人の教えはありましたでしょうか。愚鈍な私にはわからないので、すみませんが、その根拠を教えていただけないでしょうか。
よろしくお願いします。

No title

謗法罪の定義がまだわかっていないです。
他人のコメントをしっかり読んで、じっくり考えてから、コメントしましょう。

No title

ふじたさん、皆さんが呆れているのがわからないですか?
矛盾という単語をふじたさんは使っていませんが、意図はそういうことだと皆さん確信しています。

ふじたさんにアドバイスしておきます。

禁断の果実を食べましょう(笑)

No title

>念仏を尊いと思っている人の場合に限る

親鸞会では、念仏を尊いと思っている人はいませんので、親鸞会の特選部門にいるふじたさんには、関係ない話ですね。

ふじたさんは、まず「念仏を尊いと思って」からコメントしましょう。

こういうとまた愚かな反論をするでしょう。

「念仏を尊いと思っているのに、尊いと思っていないとはどういうことだ」とね。

>「お念仏を称えないのは真実信心の人でない」になります。

こんな愚かなことをいう「念仏を尊いと思っている人」はいませんわ。

No title

Abcです。

念仏(本願力廻向)を貶す、貶さないと仰ってる時点で、いたたまれない気持ちになりましたのでコメントします。

「念仏」とは「仏を念ずる」と書いて、「念仏」といいます。
そのため「広い意味の念仏」とは、「南無阿弥陀仏」のほかに
「南無釈迦牟尼仏」「南無瑠璃光仏」なども「広い意味の念仏」には
入ります。

ですが、OHEさんが先に仰られているとおり、「真宗門徒」という前提条件が
あります。その前提条件は、「18願のいわれを聞く(聞いている、どのようなものか聞きたい 等も)」で、「18願は弥陀悲願の一乗」ともいわれていることから、

真宗門徒内では「念仏」を申されたら「弥陀の念仏」即ち、
「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ なもあみだぶつ なんまんだぶ )」
のことをいい、更に輪をかけて
「悲願の一乗帰命せよ」「畢竟依に帰命せよ」と善信上人が
「浄土和讃」で何度も何度も仰られています。

また、慧燈大師(本願寺蓮如)の著書の中で
「更に親鸞 珍しき法を弘めず 如来の教法 我も信じ人にも教え聞かしむるばかりなり」といわれ、
生涯の師とされた源空聖人からは、
「選択本願は、われらが凡夫の計らう処に在らず。これを以て、
『義なきを(以て)義とす 義とは計らうことなり』と」
おっしゃっており、『選択集(せんじゃくしゅう せんちゃくしゅう)』の
最初には「選択本願 念仏為本」(18願は選択本願であり、念仏を本(先)とす)
と書かれています。
そのため18願は、
自力の計らいが交わらない、「不(自力)廻向の願」
他力の計らいであるという「自然法爾の願」、「本願力廻向の願」
念仏が弥陀の本願という「念仏成仏の願」

などの異名があります。

最後に、善信上人は「本願をまだ知らない者に対しては、そしる事はおこなってはならない。哀れみをもって弥陀の本願を語りなさい。」と懇ろに仰せになられております。

どうか皆様、今日終わるやも知れぬ命 儚い命をもって生きながら
「念仏をそしる そしらない」などと申されず、ただ
 「今度の後生の一大事 おん助け候へ」と
「われひとり助けん」と仰せになられている弥陀に頼んでください。

帰命無礙光如来

>YAO様
>
>>ふじたさんは、退会者の言葉尻を捉えて、「矛盾だ」を必死に訴えたいようで、本当に幼稚園児並みですね(笑)
>
>キリスト教の話で、言っておきます。
.>禁断の果実を食べる前の、アダムとイブの状態が、ふじたさん。
>つまり、
>恥ずかしいと思う知恵がない!
>
>とのご指摘ですが、私はどこを矛盾だと訴えたでしょうか。
>真面目にOHEさんや、淳心房さんに尋ねているのに、私の人格をけなす発言をされましたね。
>お尋ねしたいのですが、YAO様のようにお念仏を喜ばれている人は、他人の人格をけなすべきだ、という親鸞聖人の教えはありましたでしょうか。愚鈍な私にはわからないので、すみませんが、その根拠を教えていただけないでしょうか。
よろしくお願いします。

>ふじた様

謗法罪の定義
(謗法罪の定義さえ知らない高森顕徹会長
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-bb9b.htmlより)

問うていはく、なんらの相か、これ誹謗正法なるやと。
 答へていはく、もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと。

(現代語訳)
 問うていう。正しい法を謗るとは、どのようなことをいうのか。
 答えていう。仏もなく仏の教えもなく、菩薩もなく菩薩の教えもないというような考えを、自分自身でおこしたり、他の人に教えられて、その通りと心に定めることを、みな正しい法を謗るというのである。

これと、親鸞聖人のお言葉

・善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。
・師をそしり、善知識をかろしめ、同行をもあなづりなんどしあはせたまふよしきき候ふこそ、あさましく候へ。すでに謗法のひとなり、五逆のひとなり。なれむつぶべからず。 (御消息)

これらに抵触すれば謗法罪に当たります。善知識とは「阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひ」であり、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかり」の人です。親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人は勿論、このように教える布教使の方は善知識です。尤も高森会長は言葉だけはこれを引用しますが、往生・獲信のために諸善(実態は善もどきの善)を勧めており、一心一向ということを正しく説かないので善知識ではありません。

これらを踏まえてよく考えてみて下さい。貴方の出した例え話は具体性が無く、正直答えようがありません。また答えたところで更なる質問を繰り返すだけかと思われます。それにこのような質問はさして重要でないばかりか、「聖人一流のご勧化のおもむき」とは随分と関係の薄いものです。YAOさんの仰る通り、呆れている方も多いと思います。非難を受けたくないなら秘密コメントもできます。ふじたさんが勝他のための議論をするつもりがなく、純粋に知りたいということであれば秘密コメントを勧めます。

Xさんは謗法罪なのかどうかとか、Xさんは真実信心なのかどうかとか、そんな例中の誰かのことなどどうでもよろしいではありませんか。大事なのは、貴方が今、ここで、本願の名号のいわれをよく聞き受け念仏しているかどうかです。全てはここに腰が据わっていないところから出てくる質問と思います。

高森会長の言葉ではなく、親鸞聖人の仰せに順って下さい。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

No title

たくさんの人が書き込んでますが、誰一人私の質問に答えることができる人がいないのは寂しい限りです。

質問をわかりやすくします。

「法謗罪を造っている人は真実信心でないと断定できる」とOHEさんに教えていただきました。

これに皆さんは同意されていると思います。

そこで、私が質問したのは、以下のような場合は謗法罪になるのかどうかということです。
浄土真宗と自称する宗派がいくつかあり、それをA,B,C,D,Eなどとします。
Aに属するXという人が、Bの宗派の教えを非難することは謗法罪になるのでしょうか、という質問です。
具体的に言いますと、Xさんは最初Bという宗派に入り、そこでBの指導者(師匠)によって仏縁を結び仏縁にあえたことを喜びました。しかしその後、Bの教えに疑問を感じ、Aという宗派に入りました。
この場合、仏縁をいただいたBの指導者(師匠)をXが非難することは謗法罪になるのでしょうか、という質問です。
なるか、ならないか、だけでいいのに、だれもそれに答えてくれず、無関係なことばかり書いています。
せっかくOHEさんが話を進めて懇切丁寧に教えてくださったのに、それ以外の人は無関係なことばかり書き込んでいます。少しはOHEさんを見習ってハッキリとした答えを書いてください。

ふじた様へ

XはBの教えのどんなところに疑問を感じたのでしょうか?
Bの教えとはどんな教えなのでしょうか?

No title

>この場合、仏縁をいただいたBの指導者(師匠)をXが非難することは謗法罪になるのでしょうか、という質問です。
>なるか、ならないか、だけでいいのに、だれもそれに答えてくれず、無関係なことばかり書いています。

では、私がハッキリした答えを書いておきます。

謗法罪の定義さえ知らないふじたさんが出て来るところではないから、お引き取りくださいな。

ふじた教の謗法罪と仏教での謗法罪とは、全く異なりますので、話があいません。

以上で文句があるなら、謗法罪の定義をふじたさんが、仏教の経典、親鸞聖人の御著書を基に、明示しなさい。

できないなら、二度と来ないようにして、旧約聖書でも読んでおきなさい。

No title

具体例を。

親鸞会の高森顕徹氏を、退会者が非難攻撃することは、謗法罪になりません。

当たり前のこと。

「誰も答えられない!勝った勝った!!!」と大騒ぎするであろうふじたさんの知能の程度が知れるというものです。

ふっじたさん、もう、やめておきなさい

ふじたさんは高森親鸞会の新人さんなのかな。

高森親鸞会では破邪顕正として日蓮宗の用語を使うのだが、誹謗正法や必堕無間などの用語を使って相手を脅すのは、法然聖人の選択本願念仏を「捨閉閣抛」の謗法である、とか念仏を称える者は「念仏無間(念仏を称える者は無間地獄へ堕ちる)」とした日蓮上人の「四箇格言」にある言葉ですよ。
高森会の新人さんなら知らないだろうけど、かっての高森会の本願寺派に対する攻撃は常軌を逸してましたです。
http://www.hongwan.net/index.php/%E6%B4%BE%E5%A4%96%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E7%95%B0%E8%AA%AC%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6

このような高森親鸞会の実力攻撃への言論による応答は、
http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E7%9C%9F%E5%AE%97%E6%95%99%E7%BE%A9%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6

にありますから、少なくともこれを読んでから質問や議論をなさるべきです。
なお現在の本願寺派や真宗十派では、高森親鸞会は宗組を同じとし聖教も同じとしているが、親鸞聖人の説かれた浄土真宗の宗義とは全く異質な教団としているようだと、在野の門徒の目からは見えます。

ともあれ、御開山聖人は『教行証文類』の後序で、

 もしこの書を見聞せんもの、信順を因とし、疑謗を縁として、信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕さんと。p.473

と、されておられますから「疑謗を縁として」でも良いですから、高森親鸞会の教義の中に籠るのではなく、広く阿弥陀様のご法義を聴聞してみましょうや。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ


No title

OHE様

返信ありがとうございます。

>謗法罪の定義さえ知らないふじたさんが出て来るところではないから、お引き取りくださいな。

とのことですが、私のような愚か者は、皆様にわからないことを尋ねてはいけないということでしょうか。

>ふじた教の謗法罪と仏教での謗法罪とは、全く異なりますので、話があいません。

話しが合わないからこそ、質疑応答があるのに、OHEさんは議論を拒否されるのですね。
間違っているなら、間違っていると教えていただけばよいことなのに、どうして質問を拒否されるのでしょうか。何か都合の悪いことでもおありなのでしょうか。


No title

なんまんだぶ様

お優しいお言葉ありがとうございます。

>もしこの書を見聞せんもの、信順を因とし、疑謗を縁として、信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕さんと。p.473

新人よりも程度の低い私のようなものにも仏縁を与えてくださるというお言葉をいただき感謝しております。

でも、疑問に答えてくださる方がおられると思い、質問しているので、またわからないことがあればお尋ねしたく思います。

なんまんだぶさんのような尊いお言葉、OHEさんにも見習っていただきたいですね。

No title

>間違っているなら、間違っていると教えていただけばよいことなのに、どうして質問を拒否されるのでしょうか。何か都合の悪いことでもおありなのでしょうか。

いつもの負け惜しみですね。
間違いだと明確に指摘しているのが、理解できないのですね。
質問に答えたのに、答えていないとしか理解できない知能ですね。
議論するには、議論できるだけの能力が必要です。
結局、謗法罪の定義は出せない。

ふじた教の話と仏教とは、全く違うのですよ。

再度言います。
謗法罪の定義を示しなさい。

出せないから必死の言い訳。みっともない。

No title

OHE様

退会者が以前の師匠を非難することは法謗罪にならないことをお教えいただき、ありがとうございました。

私は具体例として、高森会長が以前属していた華光の伊藤氏を非難することが法謗罪になるのかと思って質問しました。
もし、それが法謗罪になるなら、高森会長は真実信心でないと言えると思ったからです。

 しかし、OHE様のお答えで、高森会長が伊藤氏を非難することは法謗罪ではないとお教えいただきました。
したがって、高森会長の信心は真実でないとは言えないことがハッキリしました。

 いつもOHE様には明確なお答をいただき感謝しております。
ありがとうございました。

No title

>OHE様のお答えで、高森会長が伊藤氏を非難することは法謗罪ではないとお教えいただきました。

言ってもいないことを勝手に捏造しないでもらえますか。

質問に答えられないことを誤魔化すためのいつもの常套手段。

まずは、謗法罪の定義を答えなさい。

謗法罪の定義も知らないのにね。恥ずかしいな。

No title

OHE様

>いつもの負け惜しみですね。

いえいえ、負け惜しみではなく、もともと私のような愚人はOHE様のような教学に詳しい尊いお方と、一緒の土俵で戦うことなど考えておりません。
勝つことなどありえません。
負けています。

私は最初は、三業で信心の有無を判定できないという考えをもっておりました。

その誤りをOHE様は正してくださったのですから、私は負けているのです。

「三業で信心の有無を判定できる」
「謗法罪を造っている者は真実信心でないと断定できる」
との仰せ、確かに承りました。私はOHE様に負けました。

また、以前所属していたところの師匠を非難することは謗法罪になると考えていましたが、それも間違いであると教えていただきました。

このたびは、OHE様という真宗学に極めて詳しいお方から、教えていただきありがとうございました。

私が負けてOHE様が勝たれた内容を再度記します。


「三業で信心の有無を判定できる」
「謗法罪を造っている者は真実信心でないと断定できる」
「以前所属していたところの師匠を非難することは謗法罪にならない」

このたびは本当にありがとうございました

No title

やっぱり謗法罪の定義は出せないまま。

なお、私の主張は以下の通りなので、間違えないように。

「(18願を信じていない人は、)三業で信心の有無を判定できる」
「謗法罪を造っている者は真実信心でないと断定できる」
「以前所属していたところの師匠(偽真宗の高森会長)を非難することは謗法罪にならない」

以上、正しく理解しましょうね。

何度もいいますが、未だに

謗法罪の定義は出せないまま

恥を知りたまえ!

*********************************************************
異教徒、念仏誹謗の者の信心を三業で判定できるか?

親鸞聖人 できる
淳心房さん できる
高森会長 できる

ふじたさん できるとは言うのはおかしい

Re: ふじた様

親鸞会お得意の相手の主張の決めつけ、捻じ曲げですね。実にみっともないですよ。相手の主張を正しく理解し、お互いに聞かれていることに答えましょう。ふじたさんはOHEさんや私の質問にまるで答えていません。こちらにも書いておきますから応えて下さい。


1、謗法罪の定義を経典や聖教に基づいて書きなさい。

2、ふじたさんは高森顕徹会長は真実信心を獲ていると思っていますか? 「はい」「いいえ」「分からない」でお答え下さい。

3、2の答えが「はい」の場合、何を根拠に高森顕徹会長の信心を真実信心だと思ったのか答えなさい。

これらに明確な回答が示されてから、次に進みたいと思います。回答がないなら、

●ふじたさんは謗法罪の定義さえまともに理解していない

と判断します。尤も皆さんそう思っているでしょうね。

No title

OHE様

>「(18願を信じていない人は、)三業で信心の有無を判定できる」
「謗法罪を造っている者は真実信心でないと断定できる」
「以前所属していたところの師匠(偽真宗の高森会長)を非難することは謗法罪にならない」

上記の内容に間違いないのですね。
ありがとうございます。

>やっぱり謗法罪の定義は出せないまま。

OHE様、何か誤解されていませんか。
私を親鸞会に属しているとか、教義を深く理解しているとか、勝手に思っておられませんか。
私はOHE様のような学問の優れたお方に勝てるような者ではありません。単なる愚人ですから、ただただOHE様に教えを乞うているばかりでございます。
ですから、法謗罪についての定義は教えていただく以外ないのでございます。
教えていただいたことについて確認のために質問させていただいているのです。

なお、もう一つ確認できたことがあります。
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし。」
をOHE様の御解説では、
「さるべき業縁のもよおせば、法謗罪は除いて、それ以外のいかなるふるまいもすべし。」
が正しい解釈であると教えていただきました。

ありがとうございました。

No title

つまり、ふじたさんは

「謗法罪の定義は知りません」

こういうことですね。

だったら、くだらない質問をする前に、謗法罪の定義を知りましょう。

というより、何度も謗法罪の定義を示しましたが、理解できないのですね。
理解できたら、あんな愚かな質問はしないでしょうし、確認と称して、私の言ったことを捏造捻じ曲げることもしないでしょうに。

淳心房さんと私のコメントに書かれてあることを確認します。

親鸞聖人が仰った謗法罪の定義は何ですか?
高森会長のいう謗法罪の定義は間違っていると分かったのですか?

くだらないことを言う前に、謗法罪の定義を確認します。

なお

>「さるべき業縁のもよおせば、法謗罪は除いて、それ以外のいかなるふるまいもすべし。」
>が正しい解釈であると教えていただきました。

これも違います。こんなことを言っておりません。

「(真実信心を獲た人は)、さるべき業縁のもよおせば、謗法罪(・闡提)を除いて、それ以外のいかなるふるまいもすべし。」

闡提も除きましょう。それ以外は可能性としては有り得るという話です。


再度確認
**********************************************************
淳心房さんと私のコメントに書かれてあることを確認します。

親鸞聖人の仰った謗法罪の定義は何ですか?
高森会長のいう謗法罪の定義は間違っていると分かったのですか?
**********************************************************

No title

OHE様

いつもありがとうございます。

以下の件、再度確認致しました。

「(18願を信じていない人は、)三業で信心の有無を判定できる」

「謗法罪を造っている者は真実信心でないと断定できる」

「(真実信心を獲た人は)、さるべき業縁のもよおせば、謗法罪(・闡提)を除いて、それ以外のいかなるふるまいもすべし。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

なお、何度申し上げてもOHE様は誤解されているようですが、私はOHE様のような学者ではありません。単なる愚人であり、定義を聞かれても答えられず、OHE様の定義を信じるしかございません。
また、私は親鸞様の教えを学ぼうとして、その途中で出てきた質問を尋ねさせていただいているだけです。どうしてそのような攻撃的な言葉を発せられるのでしょうか。

阿弥陀仏の御信心をいただくと、OHE様のように、質問に対して攻撃的になるのでしょうか。これにもお答えくださいませんか。

No title

やっぱりね。

謗法罪の定義については、何度も示してあります。
愚人を自覚して、学ぼうとする気が少しでもあるなら、今までに示した謗法罪の定義をふじたさんが確認してくるでしょうに、それを拒否している。
だから、親鸞聖人の仰せとは、全く違う高森さんの謗法罪の定義を否定もできない。

学ぼうという姿勢ではなく、揚げ足をとるためのコメントなのは、誰の目にも明らかなこと。

一応まとめ
謗法罪の定義

親鸞聖人 仏はいない、仏の説かれた教えはないと信じ言う人
高森会長 全人類は謗法罪を造っている。仏教を信じていても必ず謗法罪を造る。

これだけ違うのに、認めることを完全拒否が、会員なんですわ。
ちなみに、法謗罪なんて言うのは、親鸞会会員の証拠。

No title

F語録


「前回は、良く分かったと思ったのですが、頭の悪い私はまたわからなくなりました。」

「たくさんの人が書き込んでますが、誰一人私の質問に答えることができる人がいないのは寂しい限りです。」

「せっかくOHEさんが話を進めて懇切丁寧に教えてくださったのに、それ以外の人は無関係なことばかり書き込んでいます。少しはOHEさんを見習ってハッキリとした答えを書いてください。」

「OHE様、何か誤解されていませんか。
私を親鸞会に属しているとか、教義を深く理解しているとか、勝手に思っておられませんか。
私はOHE様のような学問の優れたお方に勝てるような者ではありません。単なる愚人ですから、ただただOHE様に教えを乞うているばかりでございます。」

「なお、何度申し上げてもOHE様は誤解されているようですが、私はOHE様のような学者ではありません。単なる愚人であり、定義を聞かれても答えられず、OHE様の定義を信じるしかございません。
また、私は親鸞様の教えを学ぼうとして、その途中で出てきた質問を尋ねさせていただいているだけです。どうしてそのような攻撃的な言葉を発せられるのでしょうか。」

「阿弥陀仏の御信心をいただくと、OHE様のように、質問に対して攻撃的になるのでしょうか。これにもお答えくださいませんか。」


→つづく(請うご期待!)

Re: 一線は越えていません様

おそらくまたコメントして来るでしょうから、つづきを期待しています(笑)

それにしても「私は親鸞様の教えを学ぼうとして」などと言う割に話題が謗法罪とか三業で真実信心の判定云々とまぁマニアックなことばかり聞いてきますね。まずは選択本願念仏ということと、本願力回向ということについてきちんと学んで頂きたいのですが、まぁ人の話を聞かないので望み薄です。親鸞様の教えを学ぶ気があるなら別に一退会者のブログでなくとも通信教育でも受講したらいいのに、そのように言うと「このサイトは閉鎖的なサイトでしょうか」と言われる始末です。少なくともコメントを制限している親鸞会会員のブログよりよほど開放的なサイトだと思いますがね。

・・・取り留めも無く書いてしまいました。つづきがあればよろしくお願いします。

No title

OHE様

法謗罪もふくめて以下のように確認しました。

これで間違いないでしょうか。

OHE様の書かれたことをコピペしただけですので、間違いないと思いますが。

ところで、確認したいのですが、
「(真実信心を獲た人は)、さるべき業縁のもよおせば、謗法罪(・闡提)を除いて、それ以外のいかなるふるまいもすべし。」
この「謗法罪(・闡提)を除いて」とありますが、五逆罪は入らないのでしょうか。

よろしくお願いします。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
確認事項

「(18願を信じていない人は、)三業で信心の有無を判定できる」

「謗法罪を造っている者は真実信心でないと断定できる」

「(真実信心を獲た人は)、さるべき業縁のもよおせば、謗法罪(・闡提)を除いて、それ以外のいかなるふるまいもすべし。」

謗法罪の定義
親鸞聖人 仏はいない、仏の説かれた教えはないと信じ言う人

No title

良いですよ。
なお、五逆罪は入りません。

それで、
高森会長の言っていることが間違いだと分かったのですね。

ハッキリと明言しましょう。
まあ、法謗罪とか言っている古い会員には、淳心房さんと私が言っていることを信じる気がないのに、信じるしかない、と反論できない悔しさでもどかしいのでしょう。
それで揚げ足をとることだけを狙っての愚問の連発。憐れなものです。

No title

>良いですよ。
>なお、五逆罪は入りません。

とお墨付をいただき、ありがとうございました。

再度確認です
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
確認事項

「(18願を信じていない人は、)三業で信心の有無を判定できる」

「謗法罪を造っている者は真実信心でないと断定できる」

「(真実信心を獲た人は)、さるべき業縁のもよおせば、謗法罪(・闡提)を除いて、それ以外のいかなるふるまいもすべし。」
(なお、五逆罪は入りません。)

謗法罪の定義
親鸞聖人 仏はいない、仏の説かれた教えはないと信じ言う人
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
OHE様は、お口は悪いお方ですが、明確に教えてくださるので助かります。
なお、反論する気などありません。
分からないことを尋ねているばかりです。

今回はOHE様のおっしゃったことが明らかになりましたので、一旦終了したく思います。
頭の悪い私ですので、またわからないことが出てくるかもしれません。その時は、この記事のコメントは長くなりましたので、最新の記事のコメント欄に質問させていただきます。
よろしくお願いします。

No title

>なお、五逆罪は入りません。

これは、除くものに入らないの意味ですから、念のため。

私の書いた内容を信じるしかないなら、
以下は明言できる筈なのに、しないのですね。
---------------------------------------------------------------------------
それで、
高森会長の言っていることが間違いだと分かったのですね。
----------------------------------------------------------------------------
単に、私に反論したくてもできないので、私の書いたことをしぶしぶ認めざるを得ないが、高森会長が間違いとは認めたくないだけでしょう。

あなたの教学のレベルが低いのではなく、高森会長の教学のレベルが低いことを知りなさい。なんなら、高森会長もしくは高森会長に次ぐ教学のある親鸞会の人をここに連れて来なさい。法論して、親鸞会の間違いをあなたでも理解できるようにしてあげますよ。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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