もしこの世の苦しみを何とかしようというのならこの世での成仏を目指すべきだし、信を獲たとて我々の罪が消えるわけではないので、当然その報いは信前と変わらず苦果として現れてくる

親鸞聖人は「信文類」冒頭にて、言葉を尽くして他力の信心を誉め讃えています。

つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり。大信心はすなはちこれ長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心、希有最勝の大信、世間難信の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信海なり。この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。ここをもつて極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり。

【現代語訳】
つつしんで往相の回向をうかがうと、この中に大信がある。大信心は、生死を超えた命を得る不思議な法であり、浄土を願い娑婆世界を厭うすぐれた道であり、阿弥陀仏が選び取り回向してくださった疑いのない心であり、他力より与えられる深く広い信心であり、金剛のように堅固で破壊されることのない真実の心であり、それを得れば浄土へは往きやすいが自力では得られない浄らかな信であり、如来の巧妙におさめられて護られる一心であり、たぐいまれなすぐれた大信であり、世間一般の考えでは信じがたい近道であり、この上ないさとりを開く真実の因であり、たちどころにあらゆる功徳が満たされる浄らかな道であり、この上ないさとりの徳をおさめた信心の海である。 この信心は念仏往生の願(第十八願)に誓われている。この大いなる願を選択本願と名づけ、また本願三心の願と名づけ、また至心信楽の願と名づける。また往相信心の願とも名づけることができる。 ところで、常に迷いの海に沈んでいる凡夫、迷いの世界を生れ変り死に変りし続ける衆生は、この上もない証を開くことが難しいのではなく、そのさとりに至る真実の信心を得ることが実に難しいのである。なぜなら、信心を得るのは、如来が衆生のために加えられるすぐれた力によるものであり、如来の広大ですぐれた智慧の力によるものだからである。たまたま、清らかな信心を得たなら、この信心は真如にかなったものであり、またいつわりを離れている。そこで、きわめて深く重い罪悪をそなえた衆生も、大きな喜びの心を得て、仏がたはこのものをいとおしみ、お護りくださるのである。

ここでも他力の信心を様々に言い換えられています。前の記事で紹介しましたが、「大慶喜心」も言い換えられた一つです。ここでは「大慶喜心を得」とありますが、私達の心が「大慶喜心」になるのではありません。それは、例えば「長生不死の神方」とあっても、信を獲た者はこの世で誰でも長生きして死なないということではないのと同じです。「大慶喜心を得」ましても、悲しい事に我々は煩悩によって喜ぶべきことを喜ばないのであります。また、「もろもろの聖尊の重愛を獲るなり」と説かれていても、それは私達の身に実感として知らされるのではありません。報仏、化仏が幻想的にでも見えて、私にだけ聞こえる言葉で誉め讃えて頂けたら分かりやすいし、嬉しいだろうになと思いますが、残念ながらそんなイリュージョンはないのであります。

また、親鸞会では故意に省略していますが、「なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。」の一文が実は非常に重要です。他力の信心は「如来の加威力」「博く大悲広慧の力」によって得られる、すなわち阿弥陀仏からの一方的な下されものというわけです。私達が他力の信心を求めて様々に活動しなければ得られないというものではありません。これが分からず、こちらから向かっていかねばならない、何もせずして信心が獲られるはずがないとしか思えないから「真実の信楽まことに獲ること難し」なのです。「助けるぞ」の大悲招喚の勅命をそのまま頂いたなら、もはや「難し」ではなくなります。それを「難し」のままに据え置いて、会員の皆さんに信心を獲させないように邪魔をしているのが高森顕徹会長の邪説です。表現に賛否両論あるのを承知で言いますが、親鸞会の邪説を捨て去るだけで大分信心が獲やすくなるのではないかと思います。


さて、これが親鸞会会員と思われる方からの最後のコメントです。

コメント7
********************
信心決定しても相対の幸福しか求めない私たちでありますから、相対の幸福が得られれば幸せに感じますし、得られなければ苦しみます。苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わるということは、相対の幸福が崩れない、変わらないということではありません。

絶対の幸福とは、比類なき無上の幸福であり、ずっと続く幸せです。

永久の昔から流転輪廻してきた我らを、阿弥陀仏のひとり働きで、無条件に弘誓の船に乗せてくだされ、往生一定の身にして下されたという、比ぶべきものが一切ない身の幸が、心の内に常に絶えないことを絶対の幸福と言い表されているのです。

********************

この方の言葉で言いますと、

信心決定
=「絶対の幸福
=「苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わる
=「比類なき無上の幸福であり、ずっと続く幸せの身になる」
=「阿弥陀仏のひとり働きで、無条件に弘誓の船に乗せてくだされ、往生一定の身にして下されたという、比ぶべきものが一切ない身の幸が、心の内に常に絶えないこと

ということだそうです。が、まず親鸞聖人は「絶対の幸福」なる言葉は一箇所も使われていませんし、信心決定したら「苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わる」とか、「比類なき無上の幸福であり、ずっと続く幸せの身になる」などとはどこにも言われていません。恐らくこのような現世利益を謳う根拠としては「信文類」

金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。

等であろうと思われますが、「現生に十種の益を獲たこと」と、「現生に十種の益を獲たことが実感として知らされる」ことは違うということは

『飛雲』信楽と正定聚との関係も判らない高森顕徹会長の信心

等に既に述べられている通りです。「(浄土往生、往生即成仏を指して)比類なき無上の幸福を得る身となった」とは言えるやも知れませんが、あくまで浄土往生、成仏の果報は死んでからであります。親鸞聖人は「幸福」という言葉は使われておりませんし、「信心=幸福感」でもありませんので、上の等式は成り立ちません。地獄より行き場のないような我らが地獄逃れるだけでなく、報土往生して仏果を得るという無上の果報者となったにも関わらず、激しく燃え盛る煩悩が身に満ち満ちているため、私達はそういった天に踊り地に踊るほど喜ぶべきことをそれほどに喜ばないのであります。

ところで最後の等式は、半分当たりで半分はずれといったところでしょうか。そういう身の幸を常に感じることができればいいですが、やはり然るべき方から法をお聞かせ頂かないと、私達は法の有難みや御恩というものを忘れてしまいますし、喜びも薄れていってしまうように感じます。著書を読むでも、YouTubeやメモリーの動画・音声を聞くでも勿論いいですが、やっぱり生で聞くのがいいですね。半分はずれと言ったのは、高森会長の話では弥陀の救いは「ひとり働き」でも「無条件」でもないし、心の中が常に最高無上で不変の幸福感で満たされるようになるでもないからです。何らかの形で法に触れなければやっぱダメでしょうから、法話にもお参りするように言われるし、念仏相続、勤行、お給仕といったことも勧められるのでしょう。早く助かる方法とか、救いまでの道を進むということではなく、獲信の平生に往生は定まるのだけれども、常に如来の大悲を浴びに浴びながらそれに気づかない私を知らせ、その私が仏に成る不思議、有難さ、喜び、その御恩を知らせて頂くためには、法縁に触れる必要があると感じます。


あと、親鸞会で現世利益を謳う時によく言われるのが、

死んで堕ちる地獄の苦しみを解決して下さる力が阿弥陀さまにあるなら、この世の苦しみくらい簡単に救って下さるはずだ

という理屈です。しかし、これには根拠がありません。現世において成仏得道すればこの世の苦しみは無くなるかも知れませんが、それが無理だから私達は阿弥陀仏の本願力によって次生浄土に往生しようとしているのです。もしこの世の苦しみを何とかしようというのならこの世での成仏を目指すべきでしょう。それと信を獲たとて我々の罪が消えるわけではないので、当然その報いは信前と変わらず苦果として現れてくるのです。先世からの業、また今生の業が悪い人は今生もまた苦しみの連続ですよ。信後だろうと苦しいものは苦しいし、辛いものは辛いのです。変えたかったらこれからの行いを変えるしかありません。こればかりは致し方無いですね。ただ、死ぬ瞬間まで苦しみ喘いでいようと、それが浄土往生の妨げとはならないのだから不思議でしょう。それは

三毒の煩悩はしばしばおこれども、まことの信心はかれにもさえられず。顛倒の妄念はつねにたえざれども、さらに未来の悪報をばまねかず。(浄土真要鈔)

とあるように、信心は煩悩に障碍されないからです。ですから、心に喜びが有ろうと無かろうと、大きかろうと小さかろうと、阿弥陀さまに後生おまかせした信心がまことならば、間違いなく浄土にお連れ下さるとのことですので、それほど喜びが湧き出てこないのはどうしてだろうかなどと心配なさらないで下さい。もし今生の利益が無いようなものであっても、ゆめゆめ往生の大益を疑ってはなりません。

また、仏凡一体を勘違いして、私達の心が「仏心」になるとか、そこまでいかなくても「獲信者は仏心を体現する」と思っているとも考えられます。その証拠に高森顕徹会長は「仏心を体現した医師、出でよ」だとか言っているようです(『親鸞会公式ホームページ』高い技術と円熟の人格で、信頼厚い名医参照)。ただ、「仏凡一体」といっても我々凡夫の心が仏心に転成されるのではありません。これは、衆生の心にいただかれた法の徳(法徳)としていわれるのであって、衆生の現実のすがた(機相)の上でいわれるのではないのです。名号は私の往生成仏の因徳として宿るのですが、それを高森会長は衆生の現実のすがた(機相)の上に現れると誤解しているのでしょう。だから聞いている者も勘違いして、「高森先生は阿弥陀仏の御心が分かる無二の善知識」なんかと思い込んでいるのではと推測されます。


もしこの方の言うように、「比類なき無上の幸福であり、ずっと続く幸せ」が、そんな幸福感が常に私達の心にあるようなら、どんな苦果がやって来てもヘッチャラなはずです。何せ「最悪の死に直面しても変わらぬ安心、満足の境地」だそうですから、怒られたり酷いことを言われたり、怪我や病気になったり、大事な人と死別したり、交通事故で人をひき殺してしまったり、その他どのような事が身に起きても苦しみに感じることなどないのではないでしょうか。変わらぬ安心、満足が心にデンとしてあるんですから、「相対の幸福」が得られない、あるいは崩れた位で苦しみと感じるとは思えません。うつ病などの心の病気も完治し、「人間に生まれて良かった」、「よくぞ人間に生まれたものぞ」という生命の大歓喜で、どんな苦難もたくましく、前向きに、常に喜びを心に充満させて生きていけそうなものです。逆に「相対の幸福」が得られない程度で苦しんだりするなら「絶対の幸福」なんて呼ばれないのではないでしょうか。


長くなりましたが、これでコメントに対する返信は終わりとします。それで今回改めて感じたのが、

「高森顕徹会長(宗教法人浄土真宗親鸞会)がたまにまともな真宗教義をいう問題」の背景について

にあるように、高森会長の話はダブルバインドだからあのようなコメントが来たのかなということです。高森会長は批判に呼応して話をするので、宿善しかり、真剣な聞法・求道しかり、善の勧めしかり、次の回には今まで話していたことと違ったことを平気で言います。それを会員は「高森先生に間違いがあるはずがない」信心をもって受け止めるため、戸惑いつつもうまく脳内変換して両方正しいと信じます。この度は「信心の判定基準」、「絶対の幸福」等についてでしたが、それについて新たに高森会長が話をしたのかも知れません。あるいはただ高森会長を擁護したかっただけかも知れませんが、いずれにせよ「そんなことは聞いていない」と反論に来たのでしょう。

所詮高森顕徹会長は、創価学会の「相対的幸福」「絶対的幸福」という用語をパクって現世利益をちらつかせ、無上の幸福になれると夢見させて、己の夢の実現、欲望の追求、組織拡大のために会員を体よく利用しているに過ぎません。宮田さんもご指摘のように、

高森会長がたまにまともなことをいうのは、たまにまともなことを言って会員に「高森会長の言っていることは真宗である」と信じ込ませるためのポーズに過ぎません。

であります。度重なる募財にうんざり、中身のない話にうんざり、救われる気配も無いという方は、今や手元のスマホで何でも調べられますから、ここらでちょっと教義についても調べてみましょう。




【追記】
今まで、OHEさんのお名前を間違えておりました。大変申し訳ございません。記事の中の誤りはおおよそ訂正しましたが、まだ誤りのまま載っている可能性があります。自分でも探しておりますが、もし直っていない箇所があればどなたかご指摘下さい。残念ながらコメント文に関しては一度消さないと修正できないようなので、そちらの方は手直ししておりません。以上、皆様にご報告致します。
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No title

淳心房さんへ

私の名前に関しては大した問題ではないので、気にしないでください。
私が問題とするのは、親鸞会の会員が、何も知らないのに知ったかぶりをして偉そうにコメントすることです。

Re: OHE様

本当にすいませんでした<(_ _)>

いつも迅速で、かつ簡潔で鋭いコメントをありがとうございます。

会員の皆さんは高森教以外本当に何も知らないですから仕方ありませんね。でも、コメントが来た当初は「あん?」とか思いますが、色々調べたり聖教に触れるきっかけにもなるので、結果から見たらこれもご縁だったなぁと振り返ることが多いです。

最近は「??」と思うコメをされる方を「還相の菩薩さまかな?」と思うようにもなりました。

親鸞会の珍しき教えを世に晒し、このように浄土真宗が明らかにされ、これを見た会員さんが阿弥陀さまに出遇うご縁にもなると思うからです。

淳心房さんは大変かと思いますが、しゃあさんという頼もしいブレインもおられるようですし、安心して拝見しています。

豆腐メンタルな俺は「ぐぬぬ。。違うのにぃ」と思いながらもここまで明瞭に答えられません。

今回も有難く読ませて頂きました。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

Re: R1000様

ありがとうございます<(_ _)>

根拠はほとんど高森節なのによくコメントしてくるなと驚嘆してしまいます。教義や組織に疑問を持った方が読まれて、本願を信じ念仏するきっかけにでもなったらいいなと思っています。

私はネット環境に接続できる時間帯が限られているので迅速なコメント応酬はできませんが、有難いことに真宗にも高森教にも詳しい方々がコメントして下さっています。私もコメントに答えることで、親鸞会教義の誤りと浄土真宗の信心・念仏を伝えることができ、また法に触れることができるので、振り返ればよいきっかけだったなと思います。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

No title

〉「苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わる」などと説くことは、二種深信以外の要素、つまり三業で信心の有無を判定していことに他ならない


ところで淳心房さんは、念仏を称えているかどうかで信心の有無を判定できると考えてますか?

No title

横からですが、

>念仏を称えているかどうかで信心の有無を判定できると考えてますか?

「三業で判定できない」という簡単な日本語が理解できないようですね。
念仏に自力と他力があることを、今更説明する必要があるのですか?

コメント返信

>念仏を称えているかどうかで信心の有無を判定できると考えてますか?

いません。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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