「顛倒の妄念はつねにたえ」ないのは、「さらに未来の悪報をばまねかず」となった信後でも同じ事

小林麻央さん死去 がん闘病つづるブログに多くが共感

既に数多くのメディアで報道されていますが、小林麻央さん、闘病も空しく、22日夜についにお亡くなりになったそうです。34歳という若さで、お子さんもまだ幼いというのに、もう後生へと旅立たれてしまいました。

老いも若きも、事故でも病気でも、人の死なない日はありません。そうやって他人が逝くのを見送っている内に、自分も知らず知らずのうちに確実に年を取っています。水面下で密かに病魔が体を蝕んでいるかも知れません。そして自分もやがて必ず死んでいく、逝くのを見送られる立場となるのです。

しかし、紹介したように他人の死を聞いたその時は「自分もやがて死んでいかねばならないんだなぁ」と思っても、その思いは続かないのではないでしょうか? せわしない日常にそんな思いはすぐに消え失せ、今日一日を、明日を、どのように生きてゆくかで心はいっぱいで、自分が死ぬことなど夢にも思わなくなってしまうのではないでしょうか? 特に今日や明日にも死んでいかねばならないなんて、常にそのことを思い続けて生きてゆけますか?

今日や明日にも自分が死んでいくなど毛頭思えないから、会員の皆さんは今日も悠長に「善をして横の道を進んで・・・」などと構えていられるのです。親鸞会の教えは、この先何十年も健康に過ごせて、十分な活動が出来ることが大前提です。この先短い人、十分な活動が出来ない人は往生の望みを絶たねばなりません。教義に疑問を持たず、毎回親鸞会の入口のような話を聞き続けて、横の道を進むだろうとお布施をし、チラシ配りや声かけをし、家族を名前だけ入会し、上司の無理難題にも面従腹背で従っている方々がいると思うと、まだ気づかないかと本当にやるせない気持ちになります。

ちなみに、信心獲得した後も今日や明日死ぬことはあるまいと無常を先送りする心は無くなりません。『白骨の章』に書いてあるような痛切な無常を聞いて、その時はそうだなぁと思えても、その数分後、数時間後はもはや日常に心を奪われて忘れ去っています。

・『白骨の章』に書いてあることが「そうだ!」とハッキリ知らされて初めて大悲の願船に乗せて頂ける
・真実の自己がハッキリ知らされないと、大悲の願船には乗せて頂けない
・(真実の自己が)ハッキリ知らされるところまで、仏法を聞くことが肝要


だとか高森会長は降誕会で説いていたようですが、親鸞会で言う「『白骨の章』に書いてあること」「真実の自己」とは、「まぼろしのごとくなる一期」「一生過ぎやすし」「われや先、人や先」「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身」等のことでしょう。それが「ハッキリ知らされる」とは、

「私の人生は幻のような一生」「一生はあっという間に過ぎる」「私が先に死んでゆく」「朝は元気でも夕方には死ぬ身」等のことを心にハッキリ思い定めて忘れないこと

だと忖度されますが、要は私の命は「常」だと思っていたのが「無常」だとハッキリ知らされるとかそんなことでしょう。そんな事は煩悩具足で世俗の生活をしている我々には不可能ですし、『白骨の章』に書いてあるような無常が知らされたことが信心決定でもないのです。それを表しているのが

しかれば、三毒の煩悩はしばしばおこれども、まことの信心はかれにもさへられず。顛倒の妄念はつねにたえざれども、さらに未来の悪報をばまねかず。かるがゆゑに、もしは平生、もしは臨終、ただ信心のおこるとき往生は定まるぞとなり。(真要鈔)

です。『教学聖典(2)』に出てきますから、多くの会員さんはご存じだと思います。「顛倒の妄念はつねにたえ」ないのは、「さらに未来の悪報をばまねかず」となった信後でも同じ事なのです。

そして往生の肝腑である「一向専念無量寿仏」を誤って教え、会員の獲信・往生を障碍しているのが親鸞会です。念仏以外の一切の善を廃して、「ただ念仏の一行にむかへ」というのが「一向専念無量寿仏」なのです。

それ一向専修の念仏は、決定往生の肝心なり。これすなはち『大経』(上)のなかに弥陀如来の四十八願を説くなかに、第十八の願に念仏の信心をすすめて諸行を説かず、「乃至十念の行者かならず往生を得べし」と説けるゆゑなり。しかのみならず、おなじき『経』(下)の三輩往生の文に、みな通じて「一向専念無量寿仏」と説きて、「一向にもつぱら無量寿仏を念ぜよ」といへり。「一向」といふはひとつにむかふといふ、ただ念仏の一行にむかへとなり。「専念」といふはもつぱら念ぜよといふ、ひとへに弥陀一仏を念じたてまつるほかに二つをならぶることなかれとなり。

(中略)

すでに南無阿弥陀仏をもつて正定の業と名づく。「正定の業」といふは、まさしく定まるたねといふこころなり。これすなはち往生のまさしく定まるたねは念仏の一行なりとなり。自余の一切の行は往生のために定まれるたねにあらずときこえたり。しかれば、決定往生のこころざしあらんひとは、念仏の一行をもつぱらにして、専修専念・一向一心なるべきこと、祖師の解釈はなはだあきらかなるものをや。


このように親鸞聖人の解釈は甚だ明らかなのですが、この解釈に背き、やれ宿善だ、19願だ、定散二善だと我々の往生に役に立たない「自余の一切の行」ばかり勧めて「往生のまさしく定まるたねは念仏の一行なり」と説かないのが高森顕徹会長です。これで浄土真宗だとか親鸞聖人の本当の教えだとか宣っているんですから、ギャグ以外の何物でもないでしょう。


小林麻央さん他、沢山の方々がその身を賭して「次はお前の番だぞ」と説法されているにも関わらず、相変わらず無常を遠くに眺め、延々と活動して疑問を抱かない会員の皆さんは、私からしたらとても正気とは思えません。これがマインドコントロールの恐ろしさなのでしょうか。どうか深く無常を念じて、いたづらに後悔を貽すことのないようにして頂きたいばかりです。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


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平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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