どっちの人生を生きたいか

己の夢の実現、欲望の追求の人生

と、

おかげさまでと感謝する御恩報謝の人生

どっちの人生を生きたいか。




【参照】
『あさ川進の、宗教と私』【投稿文】念仏者の生き方
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No title

Abcです

やはり、短文には筆者の訴えたいことがまとめられているため
なにか、力強さを感じますね。

私は、
後者:おかげさまでと感謝する御恩報謝の人生 ですね。

前者の「我が道を行く人生」も人生のあり方としてはあるのかもしれませんが、
参照先にあるように「合格したということは不合格だったものもいる」という
「合格、不合格を決めるもの(ひと)に推し量られて生きる世界」というのは
あまりに窮屈な気がしてなりません。

「自利利他の信楽」とは「悲願の一乗」のことですが、
対義語である「我利我利の信心」とともに「罪福信心」「真実信心」
と対応させて以下に記します。

自利利他の信楽=真実信心
 =「かたじけなや」の心=「おかげさま」の心
...=「なまんだぶ」の心

「自利」:「自ずから利益を得る」とよみ、「自分が利益を得る」=「我利」とは異なることを示されています。「自ずから」は「自然=自ずから然らしむ」に通じ、「おかげさま」の心を頂くことを申します。
「利他」:「その利益は他(弥陀)の利益でもある」とよみ、「その利益は他(他人)に渡される」=「衆生間の利益」と読み誤ってはなりません。

これは善信上人が「直接」言われたことではありませんが、「改邪鈔 因果撥無と思うまじきこと」のなかに「他因他果である」と記されております。
これは、「悲願の一乗」が「願を因となし衆生を浄土に生まれさせる」という
「他因自果」という願力もありながら「願を因となし法蔵菩薩が弥陀となった」という
「他因他果」の願力もあることをお示しになられています。

我利我利の信心=罪福信心
 =「わたしがわたしが」の心

本願寺蓮如のことばを借りるならば、「五十年百年の楽しみ」を楽しむだけの心でそのためには「他者の犠牲も厭わない」という醜いこころです。


随分と、遠回りしてしまいましたが「おかげさまの心」にはそのような謂れがあるのです。

Abc

Re: Abc様

コメント、ありがとうございます。

自分も、答えは決まっています。

「おかげさまでと感謝する御恩報謝の人生」

です。理想と現実の溝は何とも埋めがたいですが、生まれてこの方今日今時に至るまで、「おかげさまで」なかった時はありません。この肉体も、他の命を頂いてあるのであり、今の生活も、様々な有情非情の「おかげさまで」成り立っています。本願を信じ念仏するようになったのも、阿弥陀仏、師主知識方、沢山の有名無名の方々の「おかげさまで」。またそれまで辛く苦しい時も生きるのを止めずに食い繋いでこれたのも「おかげさまで」。私が今お念仏申しているのも、私には分からない、見えない様々な物事の「おかげさまで」。辛い時には中々そうは思えませんが、これが本当です。

まぁお話をしていた阿部先生すら、奥さんとケンカすることもあるようですから、いつもいつも「おかげさまで」と感謝することは難しいようです。ともすれば己の夢の実現、欲望の追求のみに生きる周囲に流されて自分もそれに染まり、感謝の心も失せがちだからこそ、法をお聞かせ頂かねばならないと思います。

No title

「夢の実現」と言うと何か前向きというか、いい意味のようにも聞こえますが、
高森会長の場合そういう感じはしてこないです…いろいろ聞いてはいますが。
「夢の実現」というよりは「(本願寺や華光会への)コンプレックスの解消」という感じではないか、そんな気がします。
「欲望(金銭とか名誉とか)の追求」はその通りでしょう。

いずれにせよ、「おかげさまでと感謝する御恩報謝の人生」とはかけ離れた人生を送ってきたようですね…あの会長は。

>あずきあらい様

>「夢の実現」と言うと何か前向きというか、いい意味のようにも聞こえます

まさしくその通りで、聞こえはいいので、後で「欲望の追求」とくっつけています。高森会長の場合は、「(本願寺や華光会への)コンプレックスの解消」が夢であり、そうした欲望を満たすための人生だったと言えると思います。


翻って私達の生活を考えてみますと、やはり自己中心的で、自分の欲望をかなえようと生きています。様々な、目に映らない、認識にのぼらない多くの有情非情の「おかげさまで」こうして今まで生きて、念仏を申す身となったのに、特に苦しい時は「おかげさまで」生かされているとは思えず、怒り腹立ちそねみねたむ心が噴き上がっては来ないでしょうか? 「なんで俺だけこんなに苦しまなければ・・・」「あいつのせい、こいつのせい」などと、私には煩悩しかない、そういう点では信後も全く変わっていない悪性というものを思い知らされます。

周りに「おかげさまで」と感謝して生活する人がほとんど見受けられない状況で暮らしていますと、自分もそれに染まっていってしまうので、そういうことをちゃんと説いて下さる方のお話を聞かなければならないなと思ったのでした。

「人は皆生きてるんじゃない生かされてる」

宇多田ヒカルはこう歌っていますが、若いのに良いこと言いますね。

ありがとうございます。

淳心房さま。

いつも 日常生活の中の気づきや 親鸞聖人のお言葉など から、真宗を 顕わして 下さって ありがとうございます。

また、私の投稿文を 紹介して頂きまて、
ありがとうございます。
「私の」投稿文 って言っても、「教えて頂いたことを文章にしたのが 私だった」っていうだけなので、私がお礼を言うのも、 ちょっと違う感じもしますが。
でも、何も言わないのも 変かなって 思って・・・。

お念仏に 救われても、
知恵は なく、どんな恐ろしい業を持っているかも わからない私が、ノンキに こうして毎日 生きていられるのは、「南無阿弥陀仏に支えられてる命」だからなのだと思います。

「人生は苦なり」と、お釈迦が おっしゃったとお聞きしますが、「苦」とは、「思うようにならないっていうこと」だって、ご法話で、お聞きしました。

「人生は 思うようにならない」のに、
思うようにしょうとするから、辛くなるのてしょう。
なのに、やっぱり 「思うように、したい!」って、ジタバタしてしまうのが 自分ですが。

でも いろんなご縁で、教えをお聞きできて
安心して ジタバタして生きています。

相変わらず、とりとめのないコメント になってしまいましたが。
南無阿弥陀仏と出遇えて、安心させてもらえたことが うれしくて、つい 言いたくなってしまいます。( ^ω^ )

南無阿弥陀仏


Re: RC様

こちらこそ、法話の内容を文字に起こして下さってありがとうございます。私も書こうと思っていた内容ですが、RCさんの方がより先に、そして詳しい内容を挙げていらしたので当ブログで紹介という形でリンクを貼りました。

私も説法やブログでの解説、本や音声等から学んだことを書いているというのがほとんどなので、「教えて頂いたことを文章にしたのが私だった」というのは私が挙げている記事もおんなじです。まぁ私達としては「阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひ」として有縁の方に紹介させて頂くというのが一番の御恩報謝かなと感じるので、お互いわずかでも真宗を世に紹介していけたらと思います(^ω^)

「南無阿弥陀仏に支えられてる命」。間違いないですね。祖師は如来大悲の恩徳と、師主知識の恩徳を挙げて報ずべしと仰っておられますが、恩を知り、恩を感じ、恩に報いる人生を生きたいです。ところが法の光がないとすぐに恩を忘れ、恩に背く生き方になってしまうので、やはり教えの光を受けていかねばと思います。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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