「私に間違いなく本願力が届いているかどうか、それを受け容れているかどうか」が大事

私は日常、荷物を渡す際にお客さんに伝票に押印やサインを求めます。中には印をどこに押せばいいかとか、印の向きとか、サインの場合は字のきれいさ等を気にする方あります。質問されれば「ここです」とか答えはしますが、別にどこに押してあろうが、逆を向いていようが、ミミズが這ったような字であろうが心配ありません。大事なのは、

本人に間違いなく荷物が届いているかどうか、本人が荷物を受け取ったかどうか

です。伝票の押印やサインはあくまで会社の都合、受け取る側にとっては重要ではありません。また伝票は本人宛てのものであっても、荷物が別人宛てであったら大変です。なので受け取る側は伝票ではなく、荷札の住所氏名で確認する必要があります。まぁ、それが合っていて中身が違っていたりしたら、それは配達する側の責任ではないので悪しからず・・・。



さて、煩悩にまみれ、深い罪業を抱えて、生死流転を際限なく繰り返して迷い苦しみ続ける私達を「むねとたすけすくはんがために、五劫があひだこれを思惟し、永劫があひだこれを修行して、「造悪不善の衆生をほとけになさずはわれも正覚ならじ」と、ちかごとをたてましまして、その願すでに成就して阿弥陀と成らせたまへるほとけ」がいまします。本願がすでに成就して阿弥陀と成っているということは、私を救う本願力が私にはたらいているということです。私はいま、ここで本願をお聞きし、南無阿弥陀仏の六字のこころをよく心得て念仏するのみです。大事なのは、

私に間違いなく本願力が届いているかどうか、それを受け容れているかどうか

です。まぁ前者は、本願がすで成就しているのでよいのですが、問題は後者、我々の側がこれをそのまま、素直に受け容れているかどうかです。「そんなうまい話があるかい」「自分には関係ない」と否定するのは勿論、「そんな本願があるんだぁ、ふーん」と絵空事のように眺めていたり、「本願に救われるにはどう聞けばいいのか、どうすればいいのか」と方法論に迷ったりするのも、本願力がはたらいていながらこれを受け容れず、撥ね付けている姿です。

同じく念仏していても、南無阿弥陀仏のいわれを了せず、それでいて自分の善根と捉えて助かろうというのであればそれは「おぼつかなきこと」です。また、信心があってもお念仏しないのはその甲斐がないと仰せられています。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にて候ふべき。このやうをよくよく御こころえ候うて御念仏候ふべし。

信心の内容は南無阿弥陀仏のいわれであり、「名号をとなへんものをば極楽へ迎へん」ということですから、信心と念仏は不離の関係であります。他力の信心とは、「ただ南無阿弥陀仏」です。最後に、御文章のお言葉より南無阿弥陀仏のいわれを伺いたいと思います。

ここに弥陀如来の他力本願といふは、今の世において、かかる時の衆生をむねとたすけすくはんがために、五劫があひだこれを思惟し、永劫があひだこれを修行して、「造悪不善の衆生をほとけになさずはわれも正覚ならじ」と、ちかごとをたてましまして、その願すでに成就して阿弥陀と成らせたまへるほとけなり。末代今の時の衆生においては、このほとけの本願にすがりて弥陀をふかくたのみたてまつらずんば、成仏するといふことあるべからざるなり。

 そもそも、阿弥陀如来の他力本願をばなにとやうに信じ、またなにとやうに機をもちてかたすかるべきぞなれば、それ弥陀を信じたてまつるといふは、なにのやうもなく、他力の信心といふいはれをよくしりたらんひとは、たとへば十人は十人ながら、みなもつて極楽に往生すべし。さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくはしくしりたるが、すなはち他力信心のすがたなり。

されば、南無阿弥陀仏といふ六字の体をよくよくこころうべし。まづ「南無」といふ二字はいかなるこころぞといへば、やうもなく弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、後生たすけたまへとふたごころなく信じまゐらするこころを、すなはち南無とは申すなり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四字はいかなるこころぞといへば、いまのごとくに弥陀を一心にたのみまゐらせて、疑のこころのなき衆生をば、かならず弥陀の御身より光明を放ちて照らしましまして、そのひかりのうちに摂めおきたまひて、さて一期のいのち尽きぬれば、かの極楽浄土へおくりたまへるこころを、すなはち阿弥陀仏とは申したてまつるなり。されば世間に沙汰するところの念仏といふは、ただ口にだにも南無阿弥陀仏ととなふれば、たすかるやうにみな人のおもへり。それはおぼつかなきことなり。

さりながら、浄土一家においてさやうに沙汰するかたもあり、是非すべからず。これはわが一宗の開山(親鸞)のすすめたまへるところの一流の安心のとほりを申すばかりなり。宿縁のあらんひとは、これをききてすみやかに今度の極楽往生をとぐべし。かくのごとくこころえたらんひと、名号をとなへて、弥陀如来のわれらをやすくたすけたまへる御恩を雨山にかうぶりたる、その仏恩報尽のためには、称名念仏すべきものなり。
(3帖目2通)

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。
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No title

Abcです。

迷われている方も早く救われていただきたいです。

以下に、淳心房さんが出された御文の書き下し分(一部)を
記したいと思います。

されば、南無阿弥陀仏といふ六字の体をよくよくこころうべし。

  だから、南無阿弥陀仏という六字のすがたをよくよく心得るべきである。

まづ「南無」といふ二字はいかなるこころぞといへば、やうもなく弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、「後生たすけたまへ」とふたごころなく信じまゐらするこころを、すなはち南無とは申すなり。

  まず「南無」という2文字はどのような意味かといえば、少しの自力のこころも交えず弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、「後生おたすけください」とふたごころなく(蓋心なく、二心なく = 一心に)信じ参らす(信じていく=信行する)意味を、即ち南無と言います。

つぎに「阿弥陀仏」といふ四字はいかなるこころぞといへば、いまのごとくに弥陀を一心にたのみまゐらせて、疑のこころのなき衆生をば、かならず弥陀の御身より光明を放ちて照らしましまして、そのひかりのうちに摂めおきたまひて、さて一期のいのち尽きぬれば、かの極楽浄土へおくりたまへるこころを、すなはち阿弥陀仏とは申したてまつるなり。

 次に「阿弥陀仏」という四文字はどのような意味であるかと言えば、今のように(一心一向に)弥陀を一心にたのみて、疑いのこころ(疑情)のない方がたは、必ず弥陀から照らしていただき、そのひかりのうちに(そのおちからのうち 本願力に依りて)摂め置きて(すくわれ手元に置かれて)一時(一期)のいのち尽きたならば、あの極楽浄土へ送っていただけることを、即ち阿弥陀仏と申し奉るのです。

されば世間に沙汰するところの念仏といふは、ただ口にだにも南無阿弥陀仏ととなふれば、たすかるやうにみな人のおもへり。それはおぼつかなきことなり。

  だから世間で言われている念仏というものは、ただ口に南無阿弥陀仏と称えたならば、助かる様にみなさまは思われていますが、それはしっかりとはしていないことです。

さりながら、浄土一家においてさやうに沙汰するかたもあり、是非すべからず。

  そのように申したとしても、浄土一家においてそのように説明されるかたもいらっしゃいますが、そのように説明されてはなりません。

これはわが一宗の開山(親鸞)のすすめたまへるところの一流の安心のとほりを申すばかりなり。

  これ(浄土一家)は、わが一宗の開山の勧めているところの「一流の安心のとほり(他力回向のいわれ)」をもうされているだけです。

宿縁のあらんひとは、これをききてすみやかに今度の極楽往生をとぐべし。

  えにしがある人は、これ(名号)を聞きて速やかに今度の極楽往生を果たしなさい。

かくのごとくこころえたらんひと、名号をとなへて、弥陀如来のわれらをやすくたすけたまへる御恩を雨山にかうぶりたる、

  そのように心得たひと、名号を称えて、「弥陀如来のわれらをやすくたすけたまへる御恩(摂取の利益)」を「法の雨」として被る、

その仏恩報尽のためには、称名念仏すべきものなり。  
(3帖目2通)

  その仏恩報尽の身になるためには、称名念仏すべきである。
  (御文 3帖目2通)

わたくしとは異なる家柄だとしても弥陀のいわれを説かれているときは「とも同朋」であると善信上人は申されていましたし、この書物からも改めて確認できる事柄もありますので、拙いながら書き下し文を記しました。

Abc

コメント返信

秘密コメント様

コメントありがとうございます。なるほどと思いながら読ませていただきました。私としては、「三業で信心は判定できない」という言葉もどこかからのパクリではないかと思います。

以前に高森会長は法話かアニメ解説で、布教の姿勢や書かれたもの、学問の程度などは人それぞれで、親鸞聖人のような後世に多大な影響を与える人もいれば、名前すらも出てこないような人もいるというようなことを話していたと記憶しています。また、そんな話の中で、会長がある人と談話していて、「この人は間違いなく信心を獲た方だと思うのに、どうして人に伝えようとしないのだろうか」と思ったことがあるというようなことも言っていたのを覚えています。

ここから、「三業では信心は分からない」という話も出たかと思います。上述した話や、「三業で信心は判定できない」というのは私もその通りと思います。問題は、そう言いながら「高森会長は真実信心の人」と三業で信心を判定していること、それと、親鸞会以外の、本願寺の僧侶や退会者・除名者の信心を三業で無安心・異安心と判定していることにあります。

仰る通りで、あまり意味のない議論だと思います。ただ、何が真実信心で、何がそうでないかを明らかにしていくということでは意味はあるかなと感じています。



Abc様

古文に馴染みのない方もいらっしゃいますから、書き下し文はありがたいです。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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