親鸞会会員の誤解―方便だからやらなければならない(6)

親鸞聖人が法然聖人から承けられた教えは、念仏の教え、南無阿弥陀仏以外にはありませんでした。そのことを聖人は「後序」にて、

しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。元久乙丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』を書しき。同じき年の初夏中旬第四日に、「選択本願念仏集」の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」と「釈綽空」の字と、空の真筆をもつて、これを書かしめたまひき。同じき日、空の真影申し預かりて、図画したてまつる。同じき二年閏七月下旬第九日、真影の銘は、真筆をもつて「南無阿弥陀仏」と「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」(往生礼讃 七一一)の真文とを書かしめたまふ。
(中略)
『選択本願念仏集』は、禅定博陸[月輪殿兼実、法名円照]の教命によりて撰集せしめるところなり。真宗の簡要、念仏の奥義、これに摂在せり。見るもの諭り易し。まことにこれ希有最勝の華文、無上甚深の宝典なり。年を渉り日を渉りて、その教誨を蒙るの人、千万なりといへども、親といひ疎といひ、この見写を獲るの徒、はなはだもつて難し。しかるにすでに製作を書写し、真影を図画せり。これ専念正業の徳なり、これ決定往生の徴なり。よりて悲喜の涙を抑へて由来の縁を註す。


【現代語訳】
ところでこの愚禿釈の親鸞は、建仁元年に自力の行を捨てて本願に帰依し、元久二年、源空上人のお許しをいただいて『選択集』を書き写した。同年四月十四日には、「選択本願念仏集」という内題の文字と、「南無阿弥陀仏 浄土往生の正しい行は、この念仏にほかならない」というご文、並びに「釈綽空」というわたしの名を、源空上人が自ら書いてくださった。また同じ日に、源空上人の絵像をお借りしてそれを写させていただいた。同じ元久二年の閏七月二十九日、その写した絵像に銘として、「南無阿弥陀仏」の六字の名号と、「本願には、<わたしが仏になったとき、あらゆる世界の衆生がわたしの名号を称え、わずか十回ほどの念仏しかできないものまでもみな浄土に往生するであろう。もしそうでなければわたしは仏になるまい>と誓われている。その阿弥陀仏は今現に仏となっておられるから、重ねて誓われたその本願はむなしいものではなく、衆生が念仏すれば、必ず浄土に往生できると知るべきである」と述べられている『往生礼讃』の真実の文を、源空上人が自ら書いてくださった。
(中略)
『選択集』は、関白九条兼実公の求めによって著されたものである。浄土真実の教えのかなめ、他力念仏の深い思召しがこの中におさめられていて、拝読するものは容易にその道理に達することができる。まことに、たぐいまれなすぐれたご文であり、この上なく奥深い教えが説かれた尊い書物である。長い年月のうちに、源空上人の教えを受けた人は数多くいるが、親疎を問わず、これを書き写すことを許されたものはごくわずかしかいない。それにもかかわらず、わたしは、すでにその書物を書き写させていただき、その絵像も写させていただいた。これは念仏の道を歩んできたことによる恵みであり、往生が定まっていることのしるしである。よって、喜びの涙を押えて、その次第を書き記すのである。


と仰せになっています。法然聖人が自ら親鸞聖人に書き与えられた言葉は、

「選択本願念仏集」
「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」
「釈綽空」
「南無阿弥陀仏」
「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」(往生礼讃)


であったというのです。「釈綽空」は別として、承けた真筆は念仏の本願、南無阿弥陀仏しかないと言っていいでしょう。それほどに念仏、南無阿弥陀仏というのは大切なものなのです。ですから、上の御真筆の内、『選択本願念仏集』の標宗でもある「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」というお言葉について親鸞聖人は、

「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。(尊号真像銘文【15】)

【現代語訳】
「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」 というのは、 安養浄土に往生する正因は本願の念仏を根本とするというお言葉であると知らなければならない。 「正因」 というのは、 浄土に生れて間違いなく仏になる因ということである。

と教えられています。これは「信心為本」「信心正因 称名報恩」を強調され、念仏を軽視しありもしない信心を追い求める会員には理解不能でしょう。
まず気を付けなければならない点は、これは念仏以外の諸行(諸善)に対して「念仏を本とす」であって、信心に対して「念仏を本とす」といわれたのではないということです。阿弥陀仏の浄土に往生する業因としては、称名念仏以外の行は「本」ではなく、南無阿弥陀仏と仏名をとなえる念仏が「本」であるというのです。
次に、「念仏為本」とは、自分の称えたことに功を認めて、これを正因と考える「称名正因」とは全く異なることにも注意が必要です。「念仏する」という自分の行為によって助かるのではなく、名号願力によって助けられるのです。本願の名号を心に頂いたのが信心、それが口に出れば称名ということで、信心も称名も共に如来の名号が私の上に届いたすがたに他ならないのです。


廃悪修善や三願転入といった文言で念仏以外の諸善(善もどきの善)を勧め、「本」である称名念仏行を疎かにしている親鸞会。それは、「念仏一つで助かる」という信心も疎かにしているのです。

大安心大満足
どんな事態が起きても壊れない安心、満足、喜び
『人間に生まれてよかった』『よくぞ人間に生まれたものぞ』と生命の大歓喜が起きる
『人命は地球より重い』ということがハッキリ知らされる
地獄一定と極楽一定が同時にハッキリする
曠劫流転して来た自己も明らかになるし、未来永劫の後生の一大事も知らされる

会員の皆さんはこんなものを他力の信心だと思い、それを求めて日夜活動してはいませんか?

方便だからやらなければならない

としてやっているのは念仏以外の善(もどきの善)、親鸞会の組織拡大のための活動であり、追い求めている信心は「念仏一つで助かる」とはおよそ縁遠い、幻想的幸福感ともいうべき境地です。こうして行に迷い信に惑い、何が浄土真実の行か、何が浄土真実の信かさえ分からないようでは、浄土真宗の人とは言えません。

阿弥陀仏は「念仏を称える者を極楽へ迎える」と仰せですから、称名念仏一行が浄土真実の行であり、阿弥陀仏の仰せを深く信じて念仏するのがまこと本願のお心にかなった念仏の行者です。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。(末灯鈔十二通、御消息第二十六通)

他の御消息を読めば分かりますが、親鸞聖人が仰るのは「念仏」ばかりです。「諸善」の勧めはありません。『教行証文類』は『選択本願念仏集』を種々に非難する聖道諸宗への反論として書かれたという面もあり、精密な理論と膨大な文類で埋め尽くされており相当に難解です。対して御消息は同行へ向けて書かれた手紙ですから、聖人が何を勧められているかが容易に分かります。それは、「念仏」という行と「念仏一つで助かる」という信心であります。ただ、念仏と信心は別々の2つのものではなく、先ほど申し上げた通り共になんまんだぶの法が私に届いたすがたに他なりません。

信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。

このような浄土真実の行信を正しく教えられず、またもハコモノを建てるために『善の勧め』という名の献金を求められている会員の皆さんは実にお気の毒です。今日は親鸞会館ではまた『白骨の章』の話らしいですが、いくら無常を取り詰めてもなんまんだぶの法が聞けなければわざわざ富山まで行く意味はないでしょう。どうか『必ず助ける』の仰せをそのままお受けし念仏して頂きたいものです。最後に、念仏を称えるというのはこういうことだと教えられたお言葉を『尊号真像銘文』よりお聞かせ頂いて終わりたいと思います。

智栄と申すは、震旦(中国)の聖人なり。善導の別徳をほめたまうていはく、「善導は阿弥陀仏の化身なり」とのたまへり。「称仏六字」といふは、南無阿弥陀仏の六字をとなふるとなり。「即嘆仏」といふは、すなはち南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになるとなり。また「即懺悔」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになると申すなり。「即発願回向」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち安楽浄土に往生せんとおもふになるなり、また一切衆生にこの功徳をあたふるになるとなり。「一切善根荘厳浄土」といふは、阿弥陀の三字に一切善根ををさめたまへるゆゑに、名号をとなふるはすなはち浄土を荘厳するになるとしるべしとなりと。智栄禅師、善導をほめたまへるなり。(尊号真像銘文【8】)


【参照】
『飛雲』「往生の正因は念仏を本とす」という親鸞聖人のお言葉を全否定する高森顕徹会長
『同』念仏一行を勧めるのが善知識、念仏一行を否定するのが悪知識高森顕徹会長
安心論題/念仏為本
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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