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生き死にの問題は如来の問題であって、如来が解決される問題(『なもあみだぶのつぶやき部屋』3-12.明信仏智 より)

『なもあみだぶのつぶやき部屋』3-12.明信仏智

を読んでいて「その通りだなぁ」と思ったことがあるので紹介します。全文は上リンク先を参照頂くとして、当ブログでは該当箇所を抜き出します。


1.信前に間違った他力の信心のイメージを強く持っていると、如来の願心を聞き受けたとしても「これが他力の信心なのだろうか」と混乱する
********************
A君 つまりね、実際に信を頂く、という経験は、信を頂くまでに思い浮かべていたイメージとはまったく違うものなんだ。予想外も予想外。だから、信前に抱いていた誤ったイメージが強ければ強いほど、実際の経験とそのイメージとのギャップは大きくなる。そうすると、人は、これが他力の信なのだろうかと混乱するんだね。

B君 あぁ、分かった。つまり、人の認識のありかたに関わる問題なんだ。

A君 そうなんだね。人は言葉の概念をもって物などを認識しているが、人はそのような認識のあり方をしている。机という概念をもってるから、いま見ている物が机か、それ以外かを判断している。ところが、既存の概念をもたないものに遭遇すると、それが何であるのか理解できないんだね。例えば、こんな記事を読んだことがある。大都会のビル群を空中から撮影した写真をビルという物を知らないアフリカ奥地の原住民に見て貰ったところ、そもそも写真だということが理解できなかった。そして、写っている物がビルだと理解することができず、四角い形のものが整然と並んでいるので、きれいな花壇だと認識したという話しだった。他力の信というものに関しては、信前において、概念化して信をとらえていたとしても、それは大間違いだ。つまり、信前においては誤った理解をし、誤ったイメージしか持つことができない。そうした人が如来のまことの願心を聞いて聞き受けたとしても、それが他力信だと直ちに判断することはできないんだ。信について誤ったイメージを強く持っている人ほど心の中でのギャップは大きくなる。だから、これが他力の信なのだろうかと混乱するんだ。因みに、信後においても信を言葉で表現し、概念化することができたとしても、その概念化された信は実際の信とは違ったものになってしまう。

********************

親鸞会では、他力の信心についてとにかく誤ったイメージを会員に植え付けています。例えば、

・信の一念はハッキリと自覚できる。ハッキリした自覚がないのは他力の信心ではない。
・他人に確かめずとも他力の信心を獲たことが火に触れたよりもハッキリ分かる。
・51段高とびして弥勒と肩を並べる身になったということが実感として知らされる。
・現生十種の利益を獲たことが実感として知らされる。
・地獄しか行き場のない自己の姿(逆謗の屍)が知らされる。
・曠劫流転してきた過去も明らかになり、未来永劫の後生の一大事も知らされる。
・自力無功、必堕無間の苦しい体験をし、同時に如来の喚び声が五臓六腑を貫いて救われる。
・いつ死んでも極楽参り間違いなし、極楽へ必ず往けると疑い晴れる。
・「人間に生まれてよかった」「よくぞ人間に生まれたものぞ」という生命の大歓喜が起きる。
・誰の命も平等に尊い、「人命は地球より重い」ということが実感として知らされる。
・親鸞聖人のように、どんな苦難をも生き抜く強く逞しい人生が開かれる。
・最高無上の、最悪の死に直面しても変わらない安心、満足、喜びの境地に出る。
・苦しみがやって来ても煩悩即菩提ですぐさま喜びに転じ変わる。
・経典やお聖教がすらすら読めるようになる。意味が理解できるようになる。
・親鸞聖人や高森先生のように、伝えずにおれない叫ばずにおれない身になる。
・深信因果させられ、阿頼耶識に納まっている業がどんなものか分かるようになる。


とまぁ挙げればキリがありませんが、私は高森会長の話しぶりや著書などから「このようになったのが他力の信心だ」というイメージを抱いて、そういう身になりたいと思って聞いていました。しかし実際に本願の仰せを聞き受けてみても思い描いていたような事は実現せず、当時はA君が言うように随分と混乱したものです。その後、お聖教やその解説を学んでいく内に、浄土真宗の教義についても信心についても念仏についても、ものすごい間違ったイメージを持っていたことが知らされていきました。


2.信心を獲ても、「この信が間違っていたらどうしようか」などと思うこともある
********************
A君 もう少し、先のことをいうよ。信を得た人は、この信が間違っていたらどうしょうか、などとは思わないと思うかい?

Cさん いいえ。そう思うことはあると思うわ。私は、そう思ったもの。

B君 じゃ、どうして、今は、間違っていないと思うようになったの。

Cさん 間違っていないと思ったわけじゃないのよ。間違っているかどうか、そんなことを詮索する必要はないと分かったのよ。

A君 そうだね。ここが大事な所なんだ。Cさん、説明してよ。

Cさん つまりね、信心が間違っていたとしても、自分ではどうしようもないってことに気づいたのね。信心が間違っていて、また何かを得ようとして聞いてゆくとしても、私の生き死にの問題は私が解決できる問題じゃないってことが分かったの。生き死にの問題は如来の問題であって、如来が解決される問題なの。浄土往生は決定されていると聞いたので、私は、それでもういいのって分かったの。だから、今さら、どうしようもないのね。

********************

本当にCさんの言う通りで、生死の問題は私の力が及ぶものではありません。何もかも阿弥陀仏におまかせしたのを他力の信心というのであって、何もかもハッキリするというものではないのです。極楽の様相を見たわけではありませんから、信後も相変わらず死ねばどのような世界に行くのか、私の側からは分かりません。もしかしたら地獄へ堕ちるかも知れません。でも、地獄だとしても元々の自分の罪業からしたら地獄なのですから仕方がないです。ただかたじけなくも、そのような私を阿弥陀様は哀れに思召して、「我を一心にたのまん衆生を必ず救うべし」とお誓い下さっているので、そのお言葉をそのまま受け容れて念仏致しているのみです。今更私がジタバタしたって、どうにかなる問題じゃないんです。だから阿弥陀様におまかせなんです。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。(執持鈔)

往生の一大事は自分が何とかできるレベルの問題ではないと自らの手を離れ、我が行く先を阿弥陀様におまかせしたのを自力を捨てて他力に帰した信心発得の行者というのです。韋提希のように極楽世界を見たのなら「そのような世界へ往くのだな」とハッキリするのかも知れませんが、そうではないのですから「極楽参り間違いなし」とハッキリなどしません。そうしたハッキリしないことをハッキリすると説く高森会長は、浄土真宗に非ざる異安心なのです。

「ジタバタしたって、どうにかなるお前じゃないぞ」「お前は決して迷いを離れられん者だぞ」と見抜かれて本願を発され、「まかせておくれ。お前を必ず浄土に連れて行って仏に成すぞ」と真実の言葉で仰せられるその勅命を聞いたなら、もはや私の「どうしたら」「こうしたら」なんて思いは邪魔者だと自力が廃るのです。そして、後は如来の仰せをひたすら仰いで念仏申すのみです。「生き死にの問題は如来の問題であって、如来が解決される問題」ですから、私の手出しは無用です。口出し無用です。その手出し、口出し無用のものに手を出し、口を挟むのを自力の計らいというのです。手を出し、口を挟んで生死の問題が解決できるならば大いにやればいいですが、それが邪魔で如来の仰せを素直に聞けませんから「捨てよ」と言われるのです。


浄土真宗とはこうした教えだということを知らず、まんまと会長が説くスーパー信心を本物だと誤解して、それを獲たいと利用されていた自分は本当に愚か者でした。幸いにも途中で間違った教えを間違った教えと受け止め、正しい教えを求め、そして出遇うことができて本当に良かったです。自分の言葉に耳を貸す者などほとんどいなかったかつての仲間達を思うと、よく自分は今まで正しいと信じ求めてきたものを間違った教えと受け止めることができたなと不思議に思います。まことに「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」であります。

自分が正しいという判断を下し、何年何十年と求めてきたものを間違いであったと認めるということは実に苦しいことです。それは、何年何十年という時間だけでなく、それに費やしたお金や労力が全て無駄だったって認めることです。また活動に割くために切り捨てたいくつもの輝きはもはや取り戻せないものばかりですから、本当にこれ以上の地獄はないですよ。そして、今いる場所、共に求めてきた仲間から離れて新たに正しい教えを探そうとするのは、随分と勇気の要ることです。大概は不安に負けてしまうでしょう。ですから、中々離れようとしない会員が少なくないというのも分からなくはありません。

しかし、それで今死ぬとなって満足して死んでいけますか? 今の救いを求め続けた苦しみの人生で終わり、死ねば自らの業に報いた世界にゆくのですよ? 満足だという人はどうしようもありませんが、一向に救われない現状や組織のやり方に疑問を持っている方は、ぜひとも一度立ち止まって徹底的に調べて頂きたいものです。1、2ヵ月かかったって、何十年という時間からすればたかだか数%です。モヤモヤしながら求めるよりも、よほど良いと思います。「このまま皆と活動していけば、たとえ今生ダメだとしても遠生の結縁にはなるだろう」などと既にあきらめムードの方もあるかも知れませんが、阿弥陀様は決して諦めていません。どうか親鸞会だけが全てだと思わずに、もっと広く探し求める気持ちを持って頂きたいと思います。
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自ずから然らしむ、法に依りて爾らしむ

Abcです。

私もこの方のブログを拝見させていただきましたが、
なかなかに味わい深いものでした。

>信前に間違った他力の信心のイメージを強く持っていると、如来の願心を聞き受けたとしても「これが他力の信心なのだろうか」と混乱する

これは本当にそのとおりで、善信上人は「末灯抄」や「御消息集」をかかれ、
本願寺蓮如は「御文」や「帖外御文」などが残されています。
黒谷の源空聖人の御法話も「西方指南抄」という形で残されてはいますが、
日々のおつとめではあまりお目にかかることがございませんので
気になる方は別途お探しください。

>2.信心を獲ても、「この信が間違っていたらどうしようか」などと思うこともある
>>********************
>>A君 もう少し、先のことをいうよ。信を得た人は、この信が間違っていたらどうしょうか、などとは思わないと思うかい?
>>
>>Cさん いいえ。そう思うことはあると思うわ。私は、そう思ったもの。
>>
>>B君 じゃ、どうして、今は、間違っていないと思うようになったの。
>>
>>Cさん 間違っていないと思ったわけじゃないのよ。間違っているかどうか、そんなことを詮索する必要はないと分かったのよ。
>>
>>A君 そうだね。ここが大事な所なんだ。Cさん、説明してよ。
>>
>>Cさん つまりね、信心が間違っていたとしても、自分ではどうしようもないってことに気づいたのね。信心が間違っていて、また何かを得ようとして聞いてゆくとしても、私の生き死にの問題は私が解決できる問題じゃないってことが分かったの。生き死にの問題は如来の問題であって、如来が解決される問題なの。浄土往生は決定されていると聞いたので、私は、それでもういいのって分かったの。だから、今さら、どうしようもないのね。
>>********************

私もCさんの意見に同意します。

そのように思い立った証文としまして淳心房さんは「執持抄」を挙げられましたので私は、「末灯抄」より挙げたいと思います。

 自然法爾の事
  「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。「法爾」といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。法爾はこの御ちかひなりけるゆゑに、およそ行者のはからひのなきをもつて、この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめてはからはざるなり。このゆゑに、義なきを義とすとしるべしとなり。「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。

弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて迎へんと、はからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。

 ちかひのやうは、無上仏にならしめんと誓ひたまへるなり。無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。
   正嘉二年十二月十四日
                    愚禿親鸞八十六歳

--書き下し文

 自然法爾について
 自然という言葉のうちで、「自」はおのずからという意味で、念仏する人のはからい(行者のはからい)に依るものではなく、その人の思いを超えて、なるようにならしめるおはたらきを言う言葉なのです。「然」はあるようにあらしめるという言葉です。人のはからいに依るのではなく、阿弥陀仏のお誓いによるはたらきであるのです。
 法爾は、このような阿弥陀仏のお誓いであるからこそ、そこには人のはからいは全く加わらないので、すべてが法の徳のはたらきとして、はじめからそのようにあらしめられてあるということになるのです。人のはからいの一切まじわらない世界です。ですから、他力においては、私たちのはからいを離れることを本来の義(本来のはからい)とするのだと知るべきと、このようにいわれるのです。
 自然とはもともとはからいを超えてしからむということばです。

阿弥陀仏のお誓いは「南無阿弥陀(仏)と私にまかせよ。汝(行者)のはからいがすたるとき、お浄土に迎え入れん」と、如来の方からお手回しくださったものです。 ですから、これでよかろうとか、悪かろうとか自分の思いで、思案することのないのを自然というのだと聞いています。

阿弥陀仏のお誓いの要は、信心の人を無上仏(この上ない仏)にならせようとお誓いになられたものです。この上ない仏というのは、すがたかたちにあらわせられないものですから、そのこころを自然と申し上げるのです。かたちがあると示されるときは、無上涅槃(この上ないさとり)とは申しません。本来は、すがたかたちがないのだということを教えるためにこそ阿弥陀仏とお示しになったのだと聞き及んでいます。阿弥陀仏というのは、自然という自己の本来のありようを知らしめるためのおすがたなのです。以上の道理を理解できた後には、この自然について、もはやあれこれと詮索すべきではありません。それ以上詮索するのなら、はからいのないことが本来の意味であるにも拘らず、なおある種のはからいになってしまいます。自然とは、私たちの考え、思いなどが、全く及ばない仏の智慧そのものなのです。
(上人にあいまいらせてのききがき。そのとき顕智これをかくなり。)

どうかこれを読んでひとりでも多くのとも同朋が弥陀にすくわれていただきたいと願ってやみません。

Abc

Re: Abc様

皆さんのブログを拝見していきますと、「そうだなぁそうだなぁ」と頷くことがよくあります。それぞれのやり方、それぞれの言葉で法を讃嘆されていて素晴らしいです。

>弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて迎へんと、はからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。

挙げて頂いた御文で、これが本願、南無阿弥陀仏におまかせした信心獲得の行者なのかと有難く拝読させていただきました。ありがとうございます。私も、一人でも多くの方が本願力に遇って念仏して頂きたいと願っています。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

No title

 私も他力の信心を賜るまでは、ハッキリしたものが得たい、信心を得たという
確証が欲しい、飛び上がるような喜びが無ければ真実信心ではない等々
自分の心にばかり目がいっていました。
 そして救われるには「どうすればいいのか。どう聞けばいいのか、どう思えば
いいのか。どんな心で念仏を唱えればいいのか」と自分の心を詮索するのに明け暮れていました。前々から、自分の心のありようを詮索せずに本願に向かい
なさいと聞いたり読んだりしていたのですが、10年以上もの親鸞会のマインドコントロールから抜けることが出来ていなかったのでしょう。
 だけどある時、ふっと気付ました。どうしたら、どうにかなりたい、ハッキリしたい、極楽往生の確証が欲しいという思いが全く無くなっているのです。
 「助かりたい」という思い自体が無くなっているのです。私の実感では、「いつの
間にか。知らないうちに。怪我や病気がいつの間にか治っていた」そんな感じでした。本願に対しては「極楽往生の身にして頂いたとハッキリした」訳でもないです。凡夫の分際でハッキリすることなど何もないと思います。
 今の私には後生の問題は阿弥陀仏に丸投げ、「極楽に連れていってくれるなら有難うございます。地獄なら まあしょうがないか。お任せしたんだから文句は言いません」 いう心境です。
 私は、高森顕徹のデタラメ教義やエセ信心からなかなか抜け出すことが出来ませんでした。どうか高森一族のような宗教詐欺師を見限って本当の真宗
で信を獲て下さる方々が出て下さることを切望します。
 
 

高森教で言われていることについて

Abcです

本当に伝えたいことは先ほど書いたので、ここに書くことは上記されていることに対してのツッコミです。高森教でのことなので、「本当の教え」とは全く関係ありません。

>・信の一念はハッキリと自覚できる。ハッキリした自覚がないのは他力の信心ではない。
>・他人に確かめずとも他力の信心を獲たことが火に触れたよりもハッキリ分かる。
>・51段高とびして弥勒と肩を並べる身になったということが実感として知らされる。
>・現生十種の利益を獲たことが実感として知らされる。

ハッキリ系は、ここでハッキリと切り捨てておきましょう。
結論から言うと「ハッキリとは知らされません」。


>・地獄しか行き場のない自己の姿(逆謗の屍)が知らされる。
>・曠劫流転してきた過去も明らかになり、未来永劫の後生の一大事も知らされる。
>・自力無功、必堕無間の苦しい体験をし、同時に如来の喚び声が五臓六腑を貫いて救われる。
>・いつ死んでも極楽参り間違いなし、極楽へ必ず往けると疑い晴れる。
>・「人間に生まれてよかった」「よくぞ人間に生まれたものぞ」という生命の大歓喜が起きる。
>・誰の命も平等に尊い、「人命は地球より重い」ということが実感として知らされる。

これも知らされません。名無し様が書かれているとおり(上記Cさんがいわれているとおり)、すべてを弥陀にまかせるので自分自身では何も知らされません。

>・親鸞聖人のように、どんな苦難をも生き抜く強く逞しい人生が開かれる。
>・最高無上の、最悪の死に直面しても変わらない安心、満足、喜びの境地に出る。
>・苦しみがやって来ても煩悩即菩提ですぐさま喜びに転じ変わる。
これこそ三業で判断している文言だと私は考えます。
上のとおり「すべては自然の理に依る(本願力回向による)」なので
三業では判断できません。ここが高森教の大きな矛盾です。

>・経典やお聖教がすらすら読めるようになる。意味が理解できるようになる。
確かに本質の「南無阿弥陀仏のいわれ」を了したら、方向性は見えるかもしれませんが、古文特有の言い回し、候文(古い手紙の文法)まではわからないかと存じます。そのため私は、「古語辞典の併用」を推奨しています。(ただこれも「当面読み」「当面読み以外の読み方」と2つの解釈があるので注意して解釈してゆかねばなりません。)

>・親鸞聖人や高森先生のように、伝えずにおれない叫ばずにおれない身になる。
高森さんはどうかは知りませんが、親鸞聖人や本願寺蓮如のように「念仏行ずべし」と勧める身となるのは確かです。そもそも易行道において「弥陀に任せて「われらが後生の一大事おん助け候へ」と頼む一念のとき」が易行道(浄土門)の基であるからそうあることは何も間違っていません。
ただ、本願寺蓮如と専修寺真慧とで言い合うことはありますが・・・

>・深信因果させられ、阿頼耶識に納まっている業がどんなものか分かるようになる。
「行者のはからい廃るとき」でありますので、深信因果とは180度違う方角に弥陀によって進まされます。(これも本願力のひとつです。)
正確に申し上げるならば、

×深信因果させられ、 「深信因果=因果の理 19,20願」
○「深信因果」というはからいを廃てさせられ、 「自然法爾=他力回向 18願」

です。

上に書かれていることがさも当然かのように言われており、私としても悲しい限りです。救われるには「ただ念仏のみぞまことにておわします」とあるとおり「念仏とは」とのことだけ行者は学び、「称名念仏励む可し」ともいわれるのです。

Abc

No title

話の腰をへし折りますが、五十数年前の高森親鸞会の人は「明信仏智、明信仏智」と煩かったものです。
あきらかに仏智を信受したなら、そんなに声高に言わなくてもいいのにと思っていたものです。
ともあれ、高森顕徹氏の、最初のボタンのかけ間違いが、だんだんおかしくなっていったのでしょう。

で、「明信仏智」の項に追記してみた。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%98%8E%E4%BF%A1%E4%BB%8F%E6%99%BA

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ



コメント返信

名無し様

>今の私には後生の問題は阿弥陀仏に丸投げ

そう、まさに丸投げです。何て他人任せと思われる方もあるかも知れませんが、この世をどう生きていくかということならともかく後生、往生という大問題についてですと全く私の智慧や計らい、力の及ぶ範囲の問題ではありません。阿弥陀様は私の力の及ぶ範囲の問題ではないことを問題にされ、助ける手はずは整えたから南無(我にまかせよ)阿弥陀仏(必ず救う)と仰せられる。ならば私はその仰せを受け容れておまかせ、丸投げする以外にないですよね。適切な表現、ありがとうございます。

>どうか高森一族のような宗教詐欺師を見限って本当の真宗で信を獲て下さる方々が出て下さることを切望します。

私もこれを願います。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏



Abc様

私としては、信の一念がハッキリするかどうかについてはその明確な根拠がないので、「ハッキリする」を否定はしません。ですが、「ハッキリした(と思った)」から信心ではありませんし、信の一念が「ハッキリしていない」から信心ではないというものでもありません。ハッキリするならそのハッキリするまま、ハッキリしないならそのハッキリしないまま、本願を聞いて疑いなくおまかせしたのを他力信心の行者というわけですね。私が「ハッキリ自覚できたかどうか」が問題ではなく、如来の「間違いなく助けるぞ」を心にしかと受け止めているかどうかが問題なのでした。名無しさんも仰るように、私の心の有り様を問題にして本願、念仏は二の次と考えていたのが間違いだったのですね。

とにかく他力の信心について間違ったイメージを与え続ける親鸞会。他の皆さんがどのようなイメージをお持ちだったかはそれぞれでしょうが、当時私が「こうなるだろう」と思っていたことを箇条書きにしてみました。1つ1つ検証して頂いてありがとうございます。



林遊@なんまんだぶ様

いえいえ。リンク先は元々林遊さんのおっしゃる内容について述べられていましたので(;^ω^)
「明信仏智」は「不了仏智」に対してのお言葉で、仏智を了せず疑う者は化土に留まり、明らかに仏智(18願)を信じて疑いない者は報土往生することを言われているので、親鸞会のように「阿弥陀如来に救い摂られると、ハッキリする」(『教学聖典(3)30』)ということを言われたものではありませんでした。林遊さんお示しのリンク先の言葉には

>明らかに不可思議の五智の仏智の顕現である第十八願を信じて疑わないこと。

とあるので、如来の本願すなわち18願について疑いないことと分かりますが、会員は仏智そのものが明らかに知らされるように勘違いしていると思われます。仏智そのものが明らかに知らされたらもはやその人は仏なんですがね・・・。

ともあれ、自説の正当性を主張するために経典や聖教の言葉を利用する高森顕徹会長のやり方は、自身が言っているように「帽子に合わせて頭を削る」ようなもので、当方としては見過ごせません。

No title

OHE様

これまで色々丁寧に教えて下さり、ありがとうございました。

ところで、少し分からないことがでてきましたので、お尋ねしたく思います。

謗法罪に軽重や大小の違いはあるのでしょうか。

「仏の教えはない」という人でも 、心でそっと思うだけの人や、大声で言う人や、他人の前で堂々と言う人など色々あると思います。
謗法罪には重さに違いがあるのでしょうか、それとも皆同じ重さでしょうか。

よろしくお願いします。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
確認事項

「(18願を信じていない人は、)三業で信心の有無を判定できる」

「謗法罪を造っている者は真実信心でないと断定できる」

「(真実信心を獲た人は)、さるべき業縁のもよおせば、謗法罪(・闡提)を除いて、それ以外のいかなるふるまいもすべし。」
(なお、五逆罪は入りません。)

謗法罪の定義
親鸞聖人 仏はいない、仏の説かれた教えはないと信じ言う人
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
OHE様は、お口は悪いお方ですが、明確に教えてくださるので助かります。

No title

>謗法罪に軽重や大小の違いはあるのでしょうか。

>「仏の教えはない」という人でも 、心でそっと思うだけの人や、大声で言う人や、他人の前で堂々と言う人など色々あると思います。

当然あるでしょう。

いずれにしても、

高森会長の謗法罪の定義が間違っていることを認めましょうね。
認めないなら、高森会長をここに呼んできなさい。法論するから。

ふじたさんへの返答

こんにちは、Abcです。
ふじたさんは、「法謗罪」についてどうしても知りたいそうなのでここに記しておきます。まずは、OHEさんが示された定義をここに記します。

OHEさんが記された 謗法罪の定義
>親鸞聖人 仏はいない、仏の説かれた教えはないと信じ言う人

次に「教学聖典(1)35」に記されている「法謗罪」について記します。
  善知識をおろかに思い、師をそしる者をば、謗法の者を申すなり。
  (末灯抄)

ここで「善知識である高森先生を謗ることは法謗罪であるから、何も間違っていない」と申し上げられましょうから、
  ここからは命題を「高森さんは善知識なのだろうか」ということを申してゆきたいと考えます。
  まず、高森さんがよく言われている「六度万行」に関しては天台宗の教えの根本であるため(もしくは「自力というもの」の根本にあるため)これらを永く聞いていて「自力をすてよ」と申されるのは大きな矛盾であることに気づかなければなりません。
  次に、「善のすすめ」ですが、前述「六度万行」がこれですので「真宗(易行道)の教えに「往生の糧とする善のすすめ」はひとつもありません。むしろ「往生の糧とする善のすすめは「罪福信」であるから捨てよとは正像末法和讃ないで申されております。(著者は善信上人でありますので「なにごともなにごとも聖人のめされたとおり」とのことに従うなら「往生の糧とする善のすすめ」は捨てるべきです。

  しかし、一方で「親鸞聖人は善をすすめられている」ともうされ、ハコモノを立てる際は「善のすすめ」の下で、財施を募っています。これはあたかも「財施すればしただけ光にすすむ」ともいいたげです。過去に「お金を積めば往生できるとは申していない」と申されたそうですが、「教学聖典(1)17」にあるように「善因善果 悪因悪果」であるから「お金を積んだら積んだ分だけ結果がある」と申して募っている方がいらっしゃるのも事実です。
(因果の理は 19,20願でこれを深信したとしても化身土(疑城胎宮 宮殿とも)にしかいけません)

  そのため親鸞聖人が「弥陀の浄土に行くには疑情が廃り、弥陀にたすけていただくだけ」といい、本願寺蓮如が「やうもなく弥陀を一心一向にたのみたてまつりて二心なく信じまいらすこと」と申されているのに対し、高森さんは「因果深信じることこそまこと」のようにいわれています。
  つまり、高森さんは親鸞聖人などとは違う方角へ導いていることになります。

  このことと、1つ目の命題(本来の命題)である、

  OHEさんが記された 謗法罪の定義
  >親鸞聖人 仏はいない、仏の説かれた教えはないと信じ言う人

  を合わせると、「高森は法謗罪のものである」となるわけです。


おわりに
 ふじたさんが、「法謗罪」について質問されましたので、1つ1つ例を挙げてご説明いたしましたがいかがでしたでしょうか。

 ここまで記して申し上げるのもなんですが、「弥陀にすくわれる」ということは「弥陀にまかせる」ということなので「自己のすがた」がどうだ、ということは1つも弥陀は申されていないのです。

ただ弥陀を信じ、弥陀に任せて、「おん助けそうらへ」とただただ弥陀にお願いするだけなのです。

Abc

前述「ふじたさんに対しての返信」について

Abcです。

前述の返信文はふじたさんに対してかかれたものですが、
他の方が「ここはおかしいのでは」等々のツッコミがございましたら
記してもらって構いません。どうぞよろしくお願いします。

添削
「因果深信じることこそまこと」は、
「因果深信、信じることこそまこと」です。
ここで添削を行っておきます。

Abc

No title

OHE様

この度も、お答え下さりありがとうございました。

「謗法罪に軽重や大小の違いはあるのでしょうか。」

という私の質問 に対し、

「当然あるでしょう」

と明快にお答え下さり、誠にありがとうございます。

そうしますと、どのくらい重い謗法罪の時に

「謗法罪を造っている者は真実信心でないと断定できる」のでしょうか。

それとも、心をかすめるように、「仏はいないのではないか」とほんの一瞬だけ思っただけの人でも、真実信心でないと断定できるのでしょうか。

すみません。謗法罪に軽重や大小があるとすれば、どの段階で真実信心でないと断定できるのかの程度をお示しくださいませんでしょうか。

よろしくお願いいたします。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
確認事項

「(18願を信じていない人は、)三業で信心の有無を判定できる」

「謗法罪を造っている者は真実信心でないと断定できる」

「(真実信心を獲た人は)、さるべき業縁のもよおせば、謗法罪(・闡提)を除いて、それ以外のいかなるふるまいもすべし。」
(なお、五逆罪は入りません。)

謗法罪の定義
親鸞聖人 仏はいない、仏の説かれた教えはないと信じ言う人
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

No title

高森会長の謗法罪の定義が間違いだという私の度重なる確認に対して、ふじたさんは一度として、反論も否定もしていませんので、以下は確定事項となりました。

============================================
ふじたさんは

「高森会長の言っている謗法罪の定義は、完全に間違っている」

と認めた。
=============================================

No title

さて、親鸞聖人がおっしゃる謗法罪の定義について、明確にしたつもりですが、未だ理解できていないようで、余りにも幼稚です。
そうくることを予想していなかったとでも思われたのなら、浅はかです。

>「仏はいないのではないか」とほんの一瞬だけ思っただけ

これが謗法罪になるなんて、私がいつ言いましたか?

親鸞聖人のおっしゃる謗法罪の定義

もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと。

あなたがくどく確認しているあなたの書いたコメントが理解できない程の知能では、高森会長に騙されるのも仕方ないですね。

OHE様

高森教では、高森会長の中身の無い話を居眠り半分に聞いただけで謗法罪と叩き込まれるので仕方ありません。その他にも、高森会長の話を聞きに来ないのは体で謗法罪を造っているとか言われてしまうので、もはや何でもアリですよね。そのような脳でもって親鸞聖人のおっしゃる謗法罪の定義を受け入れるだけでもすごいことかと思います。

http://shingikensho.blog12.fc2.com/blog-entry-113.html

に高森教で言われる謗法罪を詳しく書いてありますので、読者の方は参照して下さい。

No title

世間一般に出回っている辞書で、謗法の意味は、

「仏法をそしり、真理をないがしろにすること。」

ふじたさんの勘違いは、世間一般でも通用しないし仏教界でも笑い者になるよ。

No title

ふじたさんは、過去のやりとりも覚えていないようなので、以下をしっかり読みましょう。

===============================
No title
OHE様

また愚問かもしれませんが教えてください。


「念仏誹謗、謗法の人は、真実の信心でない」

と教えていただきましたが、その対偶命題である

「真実信心の人は念仏誹謗、謗法はしない」

というのも真ですね。

では「さるべき業縁の催せば、親鸞いかなる振る舞いもすべし」

とおっしゃっておられますが、この「いかなる振る舞い」の中には「仏法を知らず知らず謗ってしまった」、ということは入らないのでしょうか。

よろしくお願いします。
2017-07-14(20:55) : ふじた URL : 編集

No title
無い知恵を絞り出しての愚問の連続ですね。その程度の愚問を予想していなかったとでも思っているのか?

>「仏法を知らず知らず謗ってしまった」、ということは入らないのでしょうか。

謗法罪の定義も知らないなんて、お笑いです。
だから教行信証を読めと言っているのに、かの箇所を読まないから恥の上塗り。

一応親切に教えておきますが、親鸞聖人はお手紙で、
「真実信心を獲た人は、師を謗り善知識を侮るようなことは決してしない」と断言されているのを親鸞会の人は、「救われても謗法罪を造ることがある」と真逆に解釈しているんだから、高校生以下の古文の能力しかないってことを恥じた方がいいよ。
2017-07-15(03:34) : OHE URL : 編集

>ふじた様
謗法罪の定義
(謗法罪の定義さえ知らない高森顕徹会長
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-bb9b.htmlより)

問うていはく、なんらの相か、これ誹謗正法なるやと。
 答へていはく、もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと。

(現代語訳)
 問うていう。正しい法を謗るとは、どのようなことをいうのか。
 答えていう。仏もなく仏の教えもなく、菩薩もなく菩薩の教えもないというような考えを、自分自身でおこしたり、他の人に教えられて、その通りと心に定めることを、みな正しい法を謗るというのである。

要は異教徒のことです。教義を誤解していたというのはあっても、知らず知らず仏法を謗ってしまったなどということは通常はあり得ないことです。

また、「真実信心の人は念仏誹謗、謗法はしない」ことを聖人は

往生の金剛心のおこることは、仏の御はからひよりおこりて候へば、金剛心をとりて候はんひとは、よも師をそしり善知識をあなづりなんどすることは候はじとこそおぼえ候へ。(御消息第二通、末灯鈔(20))

と教えられています。

何が目的でこのようなことを聞いてくるのか察しはつきますが、何にせよ「師をそしり善知識をあなづりなんどする」、また阿弥陀仏を誹謗する外道の高森顕徹会長を信じるのは謗法罪です。即刻離れることをお勧めします。
2017-07-15(04:47) : 淳心房 URL : 編集
=================================

謗法罪とは、異教徒と言い換えても概ね良いでしょう。

過去のことを蒸し返して、同じ愚問を繰り返す暇があるなら、お聖教を読みましょうね。読む能力がないでしょうけど。

No title

比較的軽い謗法罪ー宗教は皆嘘で仏教も同じ
普通の謗法罪ー一般のキリスト信者、イスラム系信者など
極めて重い謗法罪ー仏像や寺院を破壊、念仏無間と暴言吐いて真宗門徒を脅迫する

以上の謗法罪の軽重によらず、真実信心でないと断言できる。

こんな簡単なことが理解できないのが、ふじたさんの知能。

「八尾」さんのお名前を拝して心に浮かんだこと

淳心房さま、しゃあさま:

   「八尾」さんのお名前を拝しふと思い出されたのが八尾市の御自坊に
お住まいでいらした稲城選恵師のことであります。親鸞会を退会後、人生に
行き詰まった青年が、とある名高い「勧学」のもとを尋ねたところ、

   「君は高森先生に出会ったお蔭で仏教に出会い、たとい退会したにもせよ、
縁あって僕の書いた難解な本にも触れ、こうしてはるばる僕を訪ねて来ることにもなった。だから君は
高森先生に感謝せにゃならん」

という、その青年にとってはやや不満を覚えさせるような言葉がその勧学さんの
お口から発せられたとのこと。

この勧学さんとは梯先生か稲城先生、とりわけ八尾市御在住でいらした
稲城先生のように感ぜられてなりません。このエピソードは15年ほど前の、そろそろ親鸞会のカルト性が議論されつつあった時期に、『別冊宝島』のとある特集号に掲載された記事で読みました。

  お二方へ非礼を承知のうえで敢えてうかがいますが、お二方はもしも
高森氏に出会っていなかったら、仏教、とりわけ浄土真宗に対し、果たして関心を持ち得たでありましょうか? 高森氏や親鸞会以外に仏教・真宗とめぐり合う
ためのツールが、お二方の若かりし日にありましたでしょうか?

  こんな失礼なことを敢えてうかがいますのも、お聞き及びのように
「さよなら親鸞会」の最新記事のコメント欄が今の今、かなりおかしな親鸞会側の工作員の手によって散々に在らされており、まともな書き込みができなくなってしまっているのです。そして親鸞会側の憤懣はたぶん、

    「お前らなんのかんの言ったって、高森先生やわれわれに出会ったいなかったらそもそも仏教の『ぶ』の字も知らなかった筈じゃないか。この恩知らずめ!」

とでも表現されるように感じられるからであります。荒らし対策自体は、お二方は万全でありましょうが、今後なにかの機会に「親鸞会に答える」と題して、
もしも高森氏に出会わなかったとしてもお二方は何らかのご縁に触れて真宗に
触れていたであろう、ということを力強く御反駁頂ければと念じてやみません。

   

No title

横からですが、私は高森会長に会う前から仏教の話を聞きたいと思っていました。そこに付け込まれた感じです。
ただし、浄土真宗の話を聞けたのは高森会長が縁であることは否定しません。だからと言って、それ以上の恩は感じていません。

曇鸞大師は道教に迷われ、陶隠居に師事されたことが結果的に縁となって、本願に帰されています。だからといって、陶隠居のことを尊敬したり、陶隠居から教えられたことに対する感謝の気持ちは持っておられなかったと思います。
親鸞聖人は天台宗の修行をなされ、それが結果的に法然上人に出遭われる縁となりました。だからといって、天台宗を尊重し天台宗の教えに感謝されたかというと違うでしょう。

同じことです。

Re: 目的っ!様

>お二方へ非礼を承知のうえで敢えてうかがいますが、お二方はもしも高森氏に出会っていなかったら、仏教、とりわけ浄土真宗に対し、果たして関心を持ち得たでありましょうか? 高森氏や親鸞会以外に仏教・真宗とめぐり合うためのツールが、お二方の若かりし日にありましたでしょうか?

→私は高森会長や、声をかけてくれた先輩会員がいなかったら浄土真宗には遇っていなかったと思います。それで、何回かブログでも書いていますが、この「浄土真宗に遇えた」という一点において私は高森会長・親鸞会に対して感謝しています。

>もしも高森氏に出会わなかったとしてもお二方は何らかのご縁に触れて真宗に触れていたであろう、ということを力強く御反駁頂ければと念じてやみません。

こればかりはご希望通りいくか分からないですね。何らかのご縁に触れて真宗に触れていたかも知れませんしいなかったかも知れませんが、これは仮定です。確かに高森会長・親鸞会が縁となって現在私は浄土真宗に遇えた、これは覆らない事実です。しかし、親鸞会であのまま求め続けていたら私は浄土真宗に遇えなかったと思います。
現在の高森会長・親鸞会は組織拡大、己の私利私欲を満たすために親鸞聖人の教えを利用し捻じ曲げて、多くの会員を騙しています。ですから、親鸞会を擁護する気は全くありません。また親鸞会側が仰るようなことを言ってきたとしても問題ありません。『そうですね。しかし実は高森会長こそ真宗の「し」の字も知らないのですよ』と返すだけです。

No title

OHE様

いつものOHE様にしてはずいぶん理性を失っておられるようです。
いつもなら明快にお答えくださるのに、今回は私の質問に答えずに法謗罪の定義云々ばかり問題にされています。

 私が最初から問題にしているのは、三業で真実信心を判定できるかどうかです。法謗罪についての定義では議論していません。OHE様の定義が間違っているとも、正しいとも問題にしていないのです。OHE様の定義にしたがって、法謗罪に軽重や大小があるなら、どのくらいの重さの法謗罪を造れば真実信心でないと断定できるのかを問うたわけです。
 それには全くお答え下さらずに、定義云々ばかりを問題にしています。私がたずねているのは何が問題点なのかをよく理解してくださいませ。

  そこで、私の問いに対しABCさんが代わりに答えてくださいました。

ABC様によると、
>以上の謗法罪の軽重によらず、真実信心でないと断言できる。

との答えでしたが、OHE様もこれでよいでしょうか。

「法謗罪に大小はあるけれども、大小を問わず、どんな軽い小さな罪でも法謗罪を造れば真実信心でない断定できる」

これでよいでしょうか。


>OHE様

>この度も、お答え下さりありがとうございました。

>「謗法罪に軽重や大小の違いはあるのでしょうか。」

>という私の質問 に対し、

>「当然あるでしょう」

>と明快にお答え下さり、誠にありがとうございます。

>そうしますと、どのくらい重い謗法罪の時に

>「謗法罪を造っている者は真実信心でないと断定できる」のでしょうか。

>それとも、心をかすめるように、「仏はいないのではないか」とほんの一瞬だけ思っただけの人でも、真実信心でないと断定できるのでしょうか。

>すみません。謗法罪に軽重や大小があるとすれば、どの段階で真実信心でないと断定できるのかの程度をお示しくださいませんでしょうか。

>よろしくお願いいたします。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
確認事項

「(18願を信じていない人は、)三業で信心の有無を判定できる」

「謗法罪を造っている者は真実信心でないと断定できる」

「(真実信心を獲た人は)、さるべき業縁のもよおせば、謗法罪(・闡提)を除いて、それ以外のいかなるふるまいもすべし。」
(なお、五逆罪は入りません。)

謗法罪の定義
親鸞聖人 仏はいない、仏の説かれた教えはないと信じ言う人
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2017-08-19(20:13) : ふじた URL : 編集

No title

確定事項
============================================
ふじたさんは

「高森会長の言っている謗法罪の定義は、完全に間違っている」

と認めた。
=============================================

理性を失うとは、親鸞会が追い込まれた際に、いつも言うセリフです。

丁寧に答えよとか、よほど焦ったコメントですね。

何度も同じことを繰り返して誤魔化すつもりでしょうが、親鸞聖人の謗法罪の定義を簡潔に言います。

もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと。

謗法罪とは、ほぼ異教徒を指してします。そこに無宗教で「仏はいない」などの確固たる信念を持った共産主義的な考えの人も入るだけです。念のため、仏の説かれた念仏を誹謗する日蓮宗などは、異教徒と同類です。

謗法罪はこの範疇と分かればふじたさんの知能でも、ふじたさんの愚問を恥ずかしく思うでしょう。

理性の前に、アホらしいのですわ、ふじたさんの低レベルに付き合うのがね。

Abcです

Abcです。

私の見てない間に随分と捻じ曲げられて、驚きを隠せません。

まず、ふじたさんが仰せになられたことを記しておきます。

>ABC様によると、
>>以上の謗法罪の軽重によらず、真実信心でないと断言できる。

>との答えでしたが、OHE様もこれでよいでしょうか。

>「法謗罪に大小はあるけれども、大小を問わず、どんな軽い小さな罪でも法謗罪を造れば真実信心でない断定できる」

>これでよいでしょうか。

はて...私が「以上の謗法罪の軽重によらず、真実信心でないと断言できる。」とふじたさん含めみなさまに言ったと。

そこまで、断言した覚えはありませんが。

まぁ、ふじたさんがそう仰せになられた以上、「『念仏無闇である』と力説している高森さんは、『念仏行ずべし』や『恭敬の心を執持して弥陀の名号称ずべし』といわれている高森さんを強く否定されているようですし、そのように「ふじたさんは味わった」のだと仮定しておきます。

ふじたさんが、「法謗罪に大小はあるけれども、大小を問わず、どんな軽い小さな罪でも法謗罪を造れば真実信心でない断定できる」と仰せになられていますが、これは「還相回向(弥陀のおはたらきのひとつで、「世の盲冥を照らさんとする方がた」のことです)」の説かれる中で、「権仮方便(捨てねばならない方便)」の話をされた際に、「あの方は今そのようにおっしゃっているから、あの方はすくわれてはいないのではないでしょうか」となるのです。

「真仮廃立」を説明いたしますと、
「真実信(ふじたさんが申されている真実信心です)」は「立てる」ためにとかれ、
「罪福信(因果の理)」は「廃る」ために説かれているのです。

ここで「捨てる」ではなく「廃る」になられているのは「捨てる」は「自らのはからいで捨てる」つまり「自力で捨てる」であり「なお義ありなり」となりますが、「廃る」は弥陀のおはたらきの中にて「自力がすたり、弥陀にまかせんとした後、真佛土(弥陀浄土)に生まれん」と誓われており、その身(その方のことを「弥陀より分けていただき白蓮華にたとえられる利益を受けたもの」と申します。(正信念仏偈にございます))

ここには数多くの沙門がいらっしゃいます。

どうか、引き続き疑問を書かれてください。

南無智慧光仏
Abc

添削

連投申し訳ございません。

添削箇所
まぁ、ふじたさんがそう仰せになられた以上、「『念仏無闇である』と力説している高森さんは、『念仏行ずべし』や『恭敬の心を執持して弥陀の名号称ずべし』といわれている高森さんを強く否定されているようですし、そのように「ふじたさんは味わった」のだと仮定しておきます。



正しくは、
まぁ、ふじたさんがそう仰せになられた以上、「『念仏無闇である』と力説している高森さんは、『念仏行ずべし』や『恭敬の心を執持して弥陀の名号称ずべし』といわれている親鸞聖人を強く否定されているようですし、そのように「ふじたさんは味わった」のだと仮定しておきます。

です。

長文を打っていると色々と見落としてしまいますね。

Abc

No title

比較的軽い謗法罪ー宗教は皆嘘で仏教も同じ
普通の謗法罪ー一般のキリスト信者、イスラム系信者など
極めて重い謗法罪ー仏像や寺院を破壊、念仏無間と暴言吐いて真宗門徒を脅迫する

以上の謗法罪の軽重によらず、真実信心でないと断言できる。

こんな簡単なことが理解できないのが、ふじたさんの知能。
2017-08-22(09:32) : 八尾 URL : 編集


以上の通りですがふじたさんの知能では理解できないのでしょうね。

ふじたさんの知能では、

無宗教の人も、キリスト教の信者も、創価学会員も真実信心をえているかどうか判定できない

こういうことだそうです。
高森会長でもそんなことは言わないよ。

高森会長の言うことすら理解できない知能では、コメントする資格さえ有していないのが、ふじたさんなんですがね。

嘘だと思うなら、高森会長に尋ねたら

「無宗教の人も、キリスト教の信者も、創価学会員も真実信心をえているかどうか判定できないのでしょうか?」

と。

No title

ふじたさんに何回も質問して結局答えなかった

謗法罪の定義をお聖教のお言葉で示せ

ですが、ふじたさんは何も知らないから淳心房さんと私の言うことを信じるしかないと言っていました。

ところが、

「仏はいないのではないか」とほんの一瞬だけ思っただけ

これも謗法罪になるのだと淳心房さんと私の言うことを否定している。

なら最初から、淳心房さんと私の言うことを信じるしかないというな。

であるからもう一度質問する。

【謗法罪の定義をお聖教のお言葉で示せ】

以上

No title

ふじたさんは、日本語の能力が小学生並みなので、理解できないのでしょう。

心にみづから解り
その心を受けて決定する

一瞬の気の迷いは入らないんですよ。

信じ言うの信じにも、一瞬の気の迷いは入らないのですよ。

日本語の能力の問題なので、ふじたさんの知能ではチンプンカンプンでしょうがね。

No title

まじで、ふじたさんは小学校からやり直すべきでしょうね。
日本語の能力が中学生レベルにも達していない。
謗法罪の定義をあれだけ教えられながら、何一つ理解できないなんて、日本語がわからないとしか言えないわ。

No title

皆さん仰っているように、ふじたさんは日本語が不自由な方ですので、たくさんコメントを書いても全く理解できないでしょう。
それで、簡潔にまとめておきました。

確定事項
============================================
ふじたさんは

「高森会長の言っている謗法罪の定義は、完全に間違っている」

と認めた。
=============================================

親鸞聖人は、謗法罪について以下のように明言されている。

1.謗法の者は、絶対に往生できない。
 (謗法を造らず五逆や十悪を造っている者は往生できる)

2.「仏はいない、仏の教えはない、菩薩はいない、菩薩の教えはない」と強く信じるのが謗法罪。

3.謗法の者は謗法を止めてからでないと往生できない。

4.真実信心を獲た人は師を謗ったり善知識を侮ることは決してしない。

以上より、謗法罪を造っている人が真実信心を獲ていないと判定できる。

★以上が納得できないというなら

【謗法罪の定義をお聖教のお言葉で示せ】

以上

No title

日本語の能力が著しく不足しているふじたさんは、また同じ愚問をしてくる可能性があるので、明確にハッキリと間違いない言い方で言っておきます。

仏教を信じている人が

心をかすめるように、「仏はいないのではないか」とほんの一瞬だけ思っただけ

これは
謗法罪になりません。
謗法罪とはいえません。
謗法罪ではありません。
謗法罪の定義から外れています。
謗法罪とかいうのは妄想です。

外道の邪説です。
外道の戯言です。
外道の創作です。

No title

OHE様


OHE様は、謗法罪には軽重や大小があるのかについて、
>当然あるでしょう
と答えました。

そこで、どれくらい重い謗法罪だと真実信心でないと断言できるのかを問うたわけです。

それに対し、

比較的軽い謗法罪ー宗教は皆嘘で仏教も同じ

とお答えくださいました。

おっしゃる通り、私は頭が悪いので、教えてください。

では、「仏教も親鸞様の教えも正しいけれど、本願寺の僧侶の言うことは間違った話ばかりだ。だから本願寺の僧侶の話をいくら聞いても救われない」

 と言うのは、定義からは謗法罪にならないと思ってよいでしょうか。それとも軽い謗法罪になるのでしょうか。

  よろしくお願いします。


>OHE様

>この度も、お答え下さりありがとうございました。

>「謗法罪に軽重や大小の違いはあるのでしょうか。」

>という私の質問 に対し、

>「当然あるでしょう」

>と明快にお答え下さり、誠にありがとうございます。

>そうしますと、どのくらい重い謗法罪の時に

>「謗法罪を造っている者は真実信心でないと断定できる」のでしょうか。

>それとも、心をかすめるように、「仏はいないのではないか」とほんの一瞬だけ思っただけの人でも、真実信心でないと断定できるのでしょうか。

>すみません。謗法罪に軽重や大小があるとすれば、どの段階で真実信心でないと断定できるのかの程度をお示しくださいませんでしょうか。

>よろしくお願いいたします。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
確認事項

「(18願を信じていない人は、)三業で信心の有無を判定できる」

「謗法罪を造っている者は真実信心でないと断定できる」

「(真実信心を獲た人は)、さるべき業縁のもよおせば、謗法罪(・闡提)を除いて、それ以外のいかなるふるまいもすべし。」
(なお、五逆罪は入りません。)

謗法罪の定義
親鸞聖人 仏はいない、仏の説かれた教えはないと信じ言う人
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

No title

頭が悪いことを自覚しているなら、まず、以下が理解できたのかどうか明言しましょう。
今まで、私の言うことをことごとく、無視してきたので、会話が成立してないからです。

確定事項
============================================
ふじたさんは

「高森会長の言っている謗法罪の定義は、完全に間違っている」

と認めた。
=============================================

親鸞聖人は、謗法罪について以下のように明言されている。

1.謗法の者は、絶対に往生できない。
 (謗法を造らず五逆や十悪を造っている者は往生できる)

2.「仏はいない、仏の教えはない、菩薩はいない、菩薩の教えはない」と強く信じるのが謗法罪。

3.謗法の者は謗法を止めてからでないと往生できない。

4.真実信心を獲た人は師を謗ったり善知識を侮ることは決してしない。

以上より、謗法罪を造っている人が真実信心を獲ていないと判定できる。

★以上が納得できないというなら

【謗法罪の定義をお聖教のお言葉で示せ】

以上

No title

ふじたさんはこう断言していました。

>私が最初から問題にしているのは、三業で真実信心を判定できるかどうかです。法謗罪についての定義では議論していません。

謗法罪の定義は議論していないと。
ところが

>では、「仏教も親鸞様の教えも正しいけれど、本願寺の僧侶の言うことは間違った話ばかりだ。だから本願寺の僧侶の話をいくら聞いても救われない」

> と言うのは、定義からは謗法罪にならないと思ってよいでしょうか。それとも軽い謗法罪になるのでしょうか。

と今度は謗法罪の定義を問題にしています。

ふじたさんは、頭が悪いのでわからないでしょうが、言っていることをころころ変えたら、議論というか会話として成立しないのですよ。


私は「三業で真実信心を判定できるかどうか」を話をしてきましたので、頭の悪いふじたさんでもわかるように、以下のようにまとめたのです。
これを理解し、納得できたのか、あるいは親鸞聖人のお言葉などどうでもよく納得できないから謗法罪の定義をお聖教のお言葉で探し出してくるのかどちらなのか訊ねているのですよ。


親鸞聖人は、謗法罪について以下のように明言されている。

1.謗法の者は、絶対に往生できない。
 (謗法を造らず五逆や十悪を造っている者は往生できる)

2.「仏はいない、仏の教えはない、菩薩はいない、菩薩の教えはない」と強く信じるのが謗法罪。

3.謗法の者は謗法を止めてからでないと往生できない。

4.真実信心を獲た人は師を謗ったり善知識を侮ることは決してしない。

以上より、謗法罪を造っている人が真実信心を獲ていないと判定できる。

★以上が納得できないというなら

【謗法罪の定義をお聖教のお言葉で示せ】

自力の修善はたくはへがたく

Abcです。

ふじたさんは、
>では、「仏教も親鸞様の教えも正しいけれど、本願寺の僧侶の言うことは間違った話ばかりだ。だから本願寺の僧侶の話をいくら聞いても救われない」

> と言うのは、定義からは謗法罪にならないと思ってよいでしょうか。それとも軽い謗法罪になるのでしょうか。

と今度は謗法罪の定義を問題にしています。

(OHEさんのコメントより引用)

まぁ、私が本願寺に対してフォローすることは、
「真慧上人(専修寺十世、中興上人)に対して『仏敵』と申されたところに塩を送る」ようなものなのであまり踏み入ったことはできませんが、

第一として「根拠」をここに提示することなく、ただ「本願寺が間違っている」と吠えることはあまり効果がないと見受けられますがそれでも吠えられるのでしょうね。

私から具申いたしますと、
「仏教も親鸞様の教えも正しいけれど、高森さんの言うことは「善もどきの善」を推し進める 間違った話ばかりだ。だから高森さんの話をいくら聞いても救われない」です。

ふじたさんが、「諸善は往生に必要である。」と申しあげるのでしたら、

本師道綽禅師は
 聖道万行さしおきて
 唯有浄土一門を
 通入すべきみちととく
(浄土高僧和讃 道綽禅師 より)



一 自力の修善はたくはへがたく、他力の仏智は護念の益をもつてたくはへらるる事。

 たとひ万行諸善の法財を修し、たくはふといふとも、進道の資糧となるべからず。ゆゑは六賊知聞して侵奪するがゆゑに。念仏においては、「すでに行者の善にあらず、行者の行にあらず」と等釈せらるれば、凡夫自力の善にあらず。まつたう弥陀の仏智なるがゆゑに、諸仏護念の益によりて六賊これを犯すにあたはざるがゆゑに、出離の資糧となり、報土の正因となるなり。しるべし。

(本願寺覚如)

の申していることは「たわごと」となってしまいます。

覚如上人は聖人10回忌を縁として1273年、「大谷廟堂」の寺院化をすすめられた方で当初、私のところより「専修寺」の表号をお渡しいたしたのですが、「叡山の批判がおおきい」とのことで寺号を「本願寺」とされました。

ですが、それでも ふじたさんが「本願寺は間違っている」と仰せになられるならば、今一度申しますが「そのように思われたお言葉」を記されていただきたく存じます。

もうされたならば、淳心房さんをはじめとして様々な方(私も含みます)が、答えて下さるでしょう。

南無不可思議光如来

Abc

追伸

Abcです。

先ほど、私が
覚如上人は聖人10回忌を縁として1273年、「大谷廟堂」の寺院化をすすめられた方で

と記しましたが、いろいろ調べていると、
「元亨元年(1321年)」というものがおおく見受けられるため
この時期の成立だと思われますので追記しておきます。

Abc

No title

OHEさんもAbcさんも私の問いにはまともに答えられないようですね。

答えられないなら、そうと 認めましょう。

・・・・・・・・・・・
では、「仏教も親鸞様の教えも正しいけれど、本願寺の僧侶の言うことは間違った話ばかりだ。だから本願寺の僧侶の話をいくら聞いても救われない」

と言うことは謗法罪になるにか、ならないのか。

答えられないなら結構です。

No title

>OHEさんもAbcさんも私の問いにはまともに答えられないようですね。

>答えられないなら、そうと 認めましょう。

これでハッキリしましたね。
教学がないから、淳心房さんと私の言うことを信じるしかない、と言っていたのは嘘だったと。

それと
親鸞聖人がどう仰っていようが、そんなことは関係ない、淳心房さんと私の挙げ足さえとれたなら、それで良いという親鸞会らしい、卑しい心も。

以下をしっかり読みましょう。頭が悪いから読めないでしょうがね。

頭が悪いことを自覚しているなら、まず、以下が理解できたのかどうか明言しましょう。
今まで、私の言うことをことごとく、無視してきたので、会話が成立してないからです。

確定事項
============================================
ふじたさんは

「高森会長の言っている謗法罪の定義は、完全に間違っている」

と認めた。
=============================================

親鸞聖人は、謗法罪について以下のように明言されている。

1.謗法の者は、絶対に往生できない。
 (謗法を造らず五逆や十悪を造っている者は往生できる)

2.「仏はいない、仏の教えはない、菩薩はいない、菩薩の教えはない」と強く信じるのが謗法罪。

3.謗法の者は謗法を止めてからでないと往生できない。

4.真実信心を獲た人は師を謗ったり善知識を侮ることは決してしない。

以上より、謗法罪を造っている人が真実信心を獲ていないと判定できる。

★以上が納得できないというなら

【謗法罪の定義をお聖教のお言葉で示せ】

以上

No title

嘘つきで頭の極めて悪い、心も卑しいふじたさんに少しだけ教えてあげますよ。

・・・・・・・・・・・
では、「仏教も親鸞様の教えも正しいけれど、本願寺の僧侶の言うことは間違った話ばかりだ。だから本願寺の僧侶の話をいくら聞いても救われない」

と言うことは謗法罪になるにか、ならないのか。
・・・・・・・・・・・

以上のスーパーウルトラ愚問は、通常の知能を持っていたらあり得ない質問ですね。

万が一、こんなことをいう極めて頭の悪い人がいたら、二つのことを知らないのでしょう。


1.「仏教も親鸞様の教え」自体を知らないで、高森教を「仏教も親鸞様の教え」と騙されて信じている。


2.「本願寺の僧侶の話」を聞いたことがないし知らない。もしくは本当に無知な「本願寺の僧侶の話」だけをまた聞きして、それが一般的な「本願寺の僧侶の話」だと騙されて信じている。

この二つの前提も理解できない、小学生よりも頭の悪いふじたさんにはコメントする資格がないです。

せめて、自分の言っていることの整合性をとり、前言撤回するならそう言って、親鸞会の会員だと正直に言った上で、小学生並の知能を身につけてからおいでください。

No title

私の質問に

スーパーウルトラ愚問

と決めつけるのは、答えられない者のいう常套句です。

答えられないことを素直に認めましょうね。

No title

答えられないの前に、答える意味のない、正確に言うと、質問自体が間違っている質問に答えるのは、同じ程度の知能を持った会員だけでしょう。


それで私からの質問と疑問に反論しないということで、以下は決定事項です。

1.ふじたさんは、「高森会長の言っている謗法罪の定義は、完全に間違っている」 と認めた。

2.ふじたさんは、親鸞会の会員である。

3.ふじたさんは、淳心房さんと私の言うことを信じるしかないと言ったのは嘘だった。

4.ふじたさんは、親鸞聖人の教えなど信じる気が全くない。

5.ふじたさんは、淳心房さんと私の言うことを否定する目的のみでコメントしている。つまり、アラシが目的。

No title

・・・・・・・・・・・
では、「仏教も親鸞様の教えも正しいけれど、本願寺の僧侶の言うことは間違った話ばかりだ。だから本願寺の僧侶の話をいくら聞いても救われない」

と言うことは謗法罪になるにか、ならないのか。
・・・・・・・・・・・

スーパーウルトラ愚問であることを一例を挙げておきましょう。

釈尊も親鸞聖人も、18願に救われるのに善は勧められていない。
しかし、高森教では善の勧めがあると勘違いをしている。
本願寺の僧侶も、18願に救われるのに善は勧めない。

つまりですね、

仏教も親鸞様の教えと本願寺の僧侶の話は同じなので、

・・・・・・・・・・・
では、「仏教も親鸞様の教えも正しいけれど、本願寺の僧侶の言うことは間違った話ばかりだ。だから本願寺の僧侶の話をいくら聞いても救われない」

と言うことは、ないのですよ。
質問が間違っていると言っている訳ですね。

スーパーウルトラ頭の悪いふじたさんには理解できないでしょうがね。

No title

スーパーウルトラ頭の悪いふじたさんは

「仏教も親鸞様の教えも正しいけれど、本願寺の僧侶の言うことは間違った話ばかりだ」

これを具体的に、本願寺の僧侶の言うことのどこがどのように間違った話ばかりなのか、説明してみたら?

できないでしょうけど。

説明もできない架空の話に対して質問する頭の悪さを指摘されて、逆ギレ、これが親鸞会の本性だね。

No title

高森先生の話に疑問を持って、このブログを読んでいる学徒です。
ふじたさんは、あまりにも酷い。講師なのか特選部員なのか知りませんが、支離滅裂です。
謗法罪の定義について、淳心房さんとOHEさんのお陰で正しく理解できました。
そして、ふじたさんのお陰で退会に踏み切る決意が固まりました。

みなさん、ありがとうございました。

No title

高森先生の話に疑問を持って、このブログを読んでいる学徒です。
ふじたさんは、あまりにも酷い。講師なのか特選部員なのか知りませんが、支離滅裂です。
謗法罪の定義について、淳心房さんとOHEさんのお陰で正しく理解できました。
そして、ふじたさんのお陰で退会に踏み切る決意が固まりました。

みなさん、ありがとうございました。

No title

やめやめ学徒さん。

良かったですね。一刻も早く高森教を辞めましょう。

ふじたさんのお陰だそうで、ふじたさんも本望でしょう。

なお、親鸞聖人の仰せと高森顕徹会長の主張との相違点は、主なものだけでもこれだけあります。本願寺は、親鸞聖人の教えと概ね一致していますので、本願寺の僧侶が間違った話しかしないなんていうのは、高森教の信者だけですわ。

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
- - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.法の深信について

親鸞聖人 往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 浄土往生が火に触ったよりも明らかに知らされる

11.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善知識に無条件服従せよ

12.因果の道理について

親鸞聖人 罪福の因果を信じることは自力・仏智不思議を疑う心
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 因果の道理を深信しなければならない

13.三願転入について

親鸞聖人 聖道門の人を浄土門に導く方便が19願であり、19願の勧めはない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 全人類は19願から始めなければならない

14.「一向専念無量寿仏」について

親鸞聖人 諸善を廃して念仏1つになること
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 阿弥陀仏1仏に向かって諸善をすることも含む

No title

質問が間違っていると言ってるのに、理解できない頭の悪さ。
ふじたさんは、次の手が簡単に読まれてるって、わかってないでのしょう。

でもふじたさんは、親鸞会をやめさせるのに貢献してくれるので、退会者の味方です。
私も頭の悪いふじたさんを余りいじめないように気をつけまーす。

No title

ふじたさんは、頭が悪すぎるので、先なんか読めないですよ。
目先の一手で、満足する愚かさ。

親鸞聖人は、謗法罪について以下のように明言されている。

1.謗法の者は、絶対に往生できない。
 (謗法を造らず五逆や十悪を造っている者は往生できる)

2.「仏はいない、仏の教えはない、菩薩はいない、菩薩の教えはない」と強く信じるのが謗法罪。

3.謗法の者は謗法を止めてからでないと往生できない。

4.真実信心を獲た人は師を謗ったり善知識を侮ることは決してしない。

以上より、謗法罪を造っている人が真実信心を獲ていないと判定できる。

これと

・・・・・・・・・・・
では、「仏教も親鸞様の教えも正しいけれど、本願寺の僧侶の言うことは間違った話ばかりだ。だから本願寺の僧侶の話をいくら聞いても救われない」

と言うことは謗法罪になるにか、ならないのか。

これは矛盾するのですよ。

なぜか?

ふじたさんの質問が間違っているから。

簡単でしょ。

何度でも教えてあげますよ、

ふじたさんの質問が間違っているから。

ふじたさんの質問が間違っているから。

ふじたさんの質問が間違っているから。

会話も議論も成立しないの。

分かったかな?

No title

OHEさんのおっしゃることが、良く解りました。
ふじたさんは、高森先生の間違いを曝け出し、高森先生から離れるように仕向けて下されたのなら素晴らしいことです。
講師部員か特選部員か知りませんが、回りくどい方法を使わなくても、ふじたさん自身が高森先生から離れれば良いと思います。
でもお陰で吹っ切れました。
それと高森先生を信じているなら、ふじたさんが、本願寺の僧侶を謗ることは、謗法罪ですね。
なぜなら仏も仏教も信じていないで、高森教を信じているのでしょうから。

各相違点について

Abcです。

親鸞会お得意の「本願寺との相違点」のようなのを
OHEさんが、掲げられていますので、
私はそれに付け加える形にて述べさせていただきます。

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 必堕無間

  仏恩の深きことは、懈慢辺地に往生し、疑城胎宮に往生するだにも、弥陀の御誓のなかに、第十九・第二十の願の御あわれみにてこそ、不可思議のたのしみに遇うことにて候へ、仏恩の深きこと其の際もなし。如何に況んや、真実の報土へ往生して大涅槃のさとりを開かんこと、仏恩よくよく御案ども候可し。これ更に性信房(横曽根の性信 木辺派の歴代法主の一人)、親鸞がはからひ申すにはあらず候。ゆめゆめ。   愚禿親鸞83歳書之
(末灯抄 自力他力の事 後書)


2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

親鸞は、「十悪、五逆、法謗」については、まず語句の説明をされ
それから「十悪、五逆」のものはそのまま救われ、「法謗」のものには
あわれみをもたれ、弥陀のご説明をせられ「回心」していただきてから
弥陀に救われる、と仰せになられています。
「弥陀の船」の説明で申し上げますと、「十悪、五逆」というこころをもたれている方であれ「我にまかせよ」の御こころで救われますが、
「法謗」(他のかたがたが既に申し上げられている「仏はいない」というかたたちのことです)のかたはまず「弥陀の船のいわれ」を「如来の御代官」から説明していただいて、「法謗のこころが廃ってから(回心してから)」救われる、という工合です。


3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

この末法悪世の時代には、「悪人」しかいませんが、
七高僧でいわれる龍樹菩薩の時代には「善行を修める方」
すなわち「善人」はおいでになられました。

(これが後の修験道となります。)


4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

  念仏成仏これ真宗
   万行諸善これ仮門
  権實真仮をわかずして
   自然の浄土をえぞしらぬ
  (三帖和讃 浄土和讃)

この御和讃が示されているとおり「万行諸善これ仮門」なのです。
「仮門」は「権仮の要門」の略で、この門もまた捨て物であります。
けっして、「仮であるから必ず通らなければ」と考えてはなりません。
突き詰めて申しますと「通ってはいけないもの」として「仮に」
立てられた「門」なのです。  
   →「真仮廃立」にも詳しく書かれています。


5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力

また他力ということは、 阿弥陀仏の*四十八願の中で、 真実の願として選び取ってくださった第十八の念仏往生の本願を疑いなく信じることを他力というのです。 それは阿弥陀仏がお誓いになられたことですから、 「※他力においては義のないことをもって根本の法義とする」 と、 法然上人は仰せになりました。 「義」 というのは、 はからうという言葉です。 行者のはからいは自力ですから、 「義」 というのです。 他力とは、 本願を疑いなく信じることで間違いなく往生が定まるのですから、 まったく 「義」 はないというのです。
(末灯抄 自力他力の事 現代語訳)
参照:http://www.yamadera.info/seiten/c/shosoku_j.htm


6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 19願を実践せよ

「19願」はもとより捨てものであり、その「19願」のなかに、
「定散二善」がございますので、こちらもまた捨てものです。

 善導大師証をこひ
  定散二心を翻し
 貪瞋二河の比喩をとき
  弘誓の信心守護せしむ
 (浄土高僧和讃 善導抄)


8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
- - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

真宗では、「念仏一つ行ずべし」ですので、「善」は関係ありません。
むしろ、「善をして往生しようとする(往生の糧とする)」と「自力」の
傲慢さが壁となりて「他力」の呼び声が遠く
なってゆきます。


10.法の深信について

親鸞聖人 往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 浄土往生が火に触ったよりも明らかに知らされる

上述5.と同じです。
(同じ答えとなりますので5.をお読みください。
むしろ、「末灯抄」の其の箇所を読んでもよいかもしれません。

11.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善知識に無条件服従せよ

善知識は、「如来のいわれを代わりにお伝えするひと」のことであり、
最近の高森さんも「法に依りて、人に依らざれ」と申されておりますので、
善知識は、あくまで「如来をしるあしがかり」でしかないのです。
その善知識におまかせするとなると、「知識帰命」となり、
真宗ではいみ嫌われていることをすることとなります。

わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきようにおもえり。これもあやまりなり
   『御文章第一帖第十一通』


12.因果の道理について

親鸞聖人 罪福の因果を信じることは自力・仏智不思議を疑う心
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 因果の道理を深信しなければならない

13.三願転入について

親鸞聖人 聖道門の人を浄土門に導く方便が19願であり、19願の勧めはない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 全人類は19願から始めなければならない


「罪福信」はつきつめると「19願」の別号となります。
親鸞は「正像末法和讃」内で「罪福信」を諫められていると共に、
6.や7.に記したとおり、「19願はすてもの」と仰られております。


14.「一向専念無量寿仏」について

親鸞聖人 諸善を廃して念仏1つになること
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 阿弥陀仏1仏に向かって諸善をすることも含む

この号は、「真宗の目標」であり、「阿弥陀仏1仏に専らお念仏し、
阿弥陀仏1仏に修めなさい」ということです。
(簡単に言いますと「18願を専ら修めなさい」ということです。)

余談にはなりますが、真宗の寺はすべて「専修寺」という寺号だけであったのは、「阿弥陀に専ら修める寺」という意味で、高田派の本山はもちろん
浄興寺派や出雲路派 毫摂寺も、もとは「専修寺」と号していた時期がありました。

どうか同行たちも、「18願を専らおさめ、他に弘められるもの」となられることを心に抱きながら筆を下ろさせていただきます。

Abc

No title

頭の悪いふじたさんに、コメントをたくさん書いても、全く理解できないでしょうから、簡潔にまとめておきます。

================================
以下は決定事項です。

1.ふじたさんは、「高森会長の言っている謗法罪の定義は、完全に間違っている」 と認めた。

2.ふじたさんは、親鸞会の会員である。

3.ふじたさんは、淳心房さんと私の言うことを信じるしかないと言ったのは嘘だった。

4.ふじたさんは、親鸞聖人の教えなど信じる気が全くない。

5.ふじたさんは、淳心房さんと私の言うことを否定する目的のみでコメントしている。つまり、アラシが目的。
================================

親鸞聖人は謗法罪について以下のように明言されている。

1.謗法の者は、絶対に往生できない。
 (謗法を造らず五逆や十悪を造っている者は往生できる)

2.「仏はいない、仏の教えはない、菩薩はいない、菩薩の教えはない」と強く信じるのが謗法罪。

3.謗法の者は謗法を止めてからでないと往生できない。

4.真実信心を獲た人は師を謗ったり善知識を侮ることは決してしない。

以上より、謗法罪を造っている人が真実信心を獲ていないと判定できる。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ふじたさんのスーパーウルトラ愚問
・・・・・・・・・・・
では、「仏教も親鸞様の教えも正しいけれど、本願寺の僧侶の言うことは間違った話ばかりだ。だから本願寺の僧侶の話をいくら聞いても救われない」

と言うことは謗法罪になるにか、ならないのか。
・・・・・・・・・・・
は、質問自体が完全な間違いなので、答えよというふじたさんの頭がおかしい。

これを正しい言い方に変換すると
・・・・・・・・・・・
では、「高森教も正しいけれど、本願寺の僧侶の言うことは間違った話ばかりだ。だから本願寺の僧侶の話をいくら聞いても救われない」

と言うことは謗法罪になるにか、ならないのか。
・・・・・・・・・・・
となり、これは【謗法罪になる】

退会者の気持ちから言うと
・・・・・・・・・・・
では、「仏教も親鸞様の教えも正しいけれど、高森会長の言うことは間違った話ばかりだ。だから高森会長の話をいくら聞いても救われない」

と言うことは謗法罪になるにか、ならないのか。
・・・・・・・・・・・
となり、これは【謗法罪にならない】

No title

OHEさんにはあきれました。

義務教育を終えられたのかどうか怪しいですね。
背理法ということを全く知らないのですね。

OHEさんや淳心房さんの法謗罪が正しいとすれば、という仮定から話を進めているのですよ。
それを義務教育を終えていなかのように、「正しいと仮定すれば」という言葉尻をつかまえて、一つ覚えのように、「ふじたさんは法謗罪は○○であると認めた、」ということ自体全く論理学を理解していないのですね。
背理法を学んでからでないと私との話は無理ですね。
OHEさんは文系ですか?論理を理解できない人ですか?

もう一度問います。もっとわかりやすい例で。

OHEさんの法謗罪の定義にしたがえば

「仏様がいるなんて全然思っていないけれど、僧侶の立場上、門徒さんには、阿弥陀仏は尊い仏様だからお念仏称えましょうね、と話してます」

という僧侶は、法謗罪を造ったことになるのかならないのか。
心で思うだけなら法謗罪にならないのか。

・・・・・・・・・・・・
確認事項

「(18願を信じていない人は、)三業で信心の有無を判定できる」

「謗法罪を造っている者は真実信心でないと断定できる」

「(真実信心を獲た人は)、さるべき業縁のもよおせば、謗法罪(・闡提)を除いて、それ以外のいかなるふるまいもすべし。」
(なお、五逆罪は入りません。)

謗法罪の定義
親鸞聖人 仏はいない、仏の説かれた教えはないと信じ言う人

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

No title

OHE さんにもう一つ質問です。

>親鸞聖人は謗法罪について以下のように明言されている。

>2.「仏はいない、仏の教えはない、菩薩はいない、菩薩の教えはない」と強く信じるのが謗法罪。

と書いてますが、では弱く信じるのは謗法罪ではないのでしょうか。
また、強いと弱いはどの基準で判定するのでしょうか。

>3.謗法の者は謗法を止めてからでないと往生できない。

とのことですが、では、
法謗罪を造りまくっていた人が、謗法を全然しなくなって往生した場合、その人の三業は往生する前と後では大きく変わったのでしょうか。それとも全然変わらないのでしょうか。

上記を正しく答えられればOHEさんの法謗罪の理解は正しいでしょう。もしただしく答えられなければ理解は間違っていることになります。

再度質問をまとめます。

「強く信じる」というのと、そうでないのとの境界は何か。

往生したら、法謗罪を造り放題という三業は変わるのか全く変わらないのか。



ふじたさんへの返答2

>OHEさんの法謗罪の定義にしたがえば

>「仏様がいるなんて全然思っていないけれど、僧侶の立場上、門徒さんには、阿弥陀仏は尊い仏様だからお念仏称えましょうね、と話してます」

>という僧侶は、法謗罪を造ったことになるのかならないのか。
>心で思うだけなら法謗罪にならないのか。

もしこのように仰せになられる僧侶がいらっしゃいましたら「布施(献金)のためだけに仕方なく皮をかぶってるかた」でしょうか。あまりに他人行儀すぎて門徒を離れようかとも思ってしまいます。

結果論からいうと「法謗罪をつくられています」。

医者にたとえてみましょう。
「そのような薬があるなんて全然思っていないけれど、医師の立場上、患者さんには、あの薬は効能がある薬だから服用しましょうね、と話してます」

としますと患者からは猛反発を受けるでしょう。
それが診察料、薬剤料などを全くとらない方ではなく、「お金をとる」方ならなおさらです。

ですから「彼」は、医者でいう「医学学会から追放された」のではないのですか。

Abc

No title

頭の悪いふじたさんへ。
以下が、すべてです。

頭の悪いふじたさんに、コメントをたくさん書いても、全く理解できないでしょうから、簡潔にまとめておきます。

================================
以下は決定事項です。

1.ふじたさんは、「高森会長の言っている謗法罪の定義は、完全に間違っている」 と認めた。

2.ふじたさんは、親鸞会の会員である。

3.ふじたさんは、淳心房さんと私の言うことを信じるしかないと言ったのは嘘だった。

4.ふじたさんは、親鸞聖人の教えなど信じる気が全くない。

5.ふじたさんは、淳心房さんと私の言うことを否定する目的のみでコメントしている。つまり、アラシが目的。
================================

親鸞聖人は謗法罪について以下のように明言されている。

1.謗法の者は、絶対に往生できない。
 (謗法を造らず五逆や十悪を造っている者は往生できる)

2.「仏はいない、仏の教えはない、菩薩はいない、菩薩の教えはない」と強く信じるのが謗法罪。

3.謗法の者は謗法を止めてからでないと往生できない。

4.真実信心を獲た人は師を謗ったり善知識を侮ることは決してしない。

以上より、謗法罪を造っている人が真実信心を獲ていないと判定できる。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ふじたさんのスーパーウルトラ愚問
・・・・・・・・・・・
では、「仏教も親鸞様の教えも正しいけれど、本願寺の僧侶の言うことは間違った話ばかりだ。だから本願寺の僧侶の話をいくら聞いても救われない」

と言うことは謗法罪になるにか、ならないのか。
・・・・・・・・・・・
は、質問自体が完全な間違いなので、答えよというふじたさんの頭がおかしい。

これを正しい言い方に変換すると
・・・・・・・・・・・
では、「高森教も正しいけれど、本願寺の僧侶の言うことは間違った話ばかりだ。だから本願寺の僧侶の話をいくら聞いても救われない」

と言うことは謗法罪になるにか、ならないのか。
・・・・・・・・・・・
となり、これは【謗法罪になる】

退会者の気持ちから言うと
・・・・・・・・・・・
では、「仏教も親鸞様の教えも正しいけれど、高森会長の言うことは間違った話ばかりだ。だから高森会長の話をいくら聞いても救われない」

と言うことは謗法罪になるにか、ならないのか。
・・・・・・・・・・・
となり、これは【謗法罪にならない】

No title

ここだけでも読んでおけ

5.ふじたさんは、淳心房さんと私の言うことを否定する目的のみでコメントしている。つまり、アラシが目的。

OHEさんへ

Abcです。

>ここだけでも読んでおけ

>5.ふじたさんは、淳心房さんと私の言うことを否定する目的のみでコメントしている。つまり、アラシが目的。

ご忠告ありがとうございます。
「アラシ」ですか...私は、たとえ相手がアラシであったとしても「念仏」を勧めてゆきたいと考えておりますゆえ、損な立ち回りに所見せられるでしょうがお赦しください。

Abc

No title

教行信証に書いてあるから読めば分かる。

しかし、ふじたさんは小学生並みの知能なので読めないです。

よって結論は、

まずは、義務教育レベルの知能を身につけましょうね。

それから、詳しく丁寧に懇ろに教えてあげますよ。

No title

>「強く信じる」というのと、そうでないのとの境界は何か。

何度も教えられてるじゃないのさ。
強くとは、異教徒或いは無宗教でも共産主義の人など
弱くとは、一瞬の気の迷い

ふじたさんは、頭悪すぎ。
コメント読めないの?

>往生したら、法謗罪を造り放題という三業は変わるのか全く変わらないのか。

往生して謗法罪を造るなんて考える発想が異教徒だね。仏教徒でそんなことを言う人はいないよ。
さすがは、高森教徒。

ふじたさんへの返答3

Abcです。

>往生したら、法謗罪を造り放題という三業は変わるのか全く変わらないのか。

ふじたさんは、「あくまで三業で判断したい」のですか。

「至心信楽」といふは、「至心」は真実と申すなり、真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを至心と申すなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆゑなり。 (親鸞著 「尊号真像銘文」)

とございますように、高森さんもいわれている「煩悩具足の衆生」は、もとより真実の心はないのです。

それと、「そのような発言」が出ること事態に違和感を覚えない部分が、
もう、なんともいえないです。

「弥陀の18願」は「弥陀の願い」のなかでは「選び抜かれた本願」であることはいまさら申し上げる必要が無いことはみなさん存じておいででしょう。

ですが、その2つ前の願い(弥陀の16願)に

  (十六) たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、乃至不善の名ありと聞かば、正覚を取らじ。
  (十六) わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が、悪を表す言葉があるとでも耳にするようなら、わたしは決してさとりを開きません。

とありますとおり、「真宗では元来、そのような質問が出ることはない」のです。

みなさまが、先に仰せになられていることが仮に「ふじたさんのありのままの姿」であるならば、今一度立ち返ってはいかがでしょうか。

Abc
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
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