親鸞会会員の誤解―「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」がある(1)

会員の皆さんの多くは、「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」があると思っていることと思います。そして、「聞」に至るまでは容易ではなく、真剣必死に高森顕徹会長の話を「聴」き続け、また活動し続けることによってようやく到達できるように考えているのではないでしょうか。これ、完全な間違いです。そもそも、

・「聴」という聞き方と、「聞」という聞き方がある
・「聴」とはこのような聞き方である
・「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」がある


親鸞会ではこのようなことを教えられますが、では親鸞聖人や蓮如上人はどこにこんなことを教えられていますか? そうです。これらは聖教上に全く根拠の無い、高森顕徹会長の創作教義なんです。


親鸞聖人や蓮如上人は、本願成就文にある「聞其名号」の「」についてはこのように教えられています。

しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。(「信文類」経釈文自釈)

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。(『一念多念証文』)

されば『経』(大経・下)には、「聞其名号信心歓喜」と説けり。「その名号を聞く」といへるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を無名無実にきくにあらず、善知識にあひてそのをしへをうけて、この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり。これを『経』に「信心歓喜」と説かれたり。これによりて、南無阿弥陀仏の体は、われらをたすけたまへるすがたぞとこころうべきなり。(『御文章』1帖目15通)

ところが、「聴聞」ということを「聴」と「聞」とに分け、「聴」とはこのような聞き方、「聞」とはこのような聞き方だと教えられているかと言えば、祖師、蓮師の上には1箇所もありません。


一応、真宗でも

『真宗の味わい』聴 と 聞
『手品師』おはたらき

などにあるように、「聴聞」の「聴」とはこのような聞き方、「聞」とはこのような聞き方だと説明している人は無くはありません。ただそれは漢和辞典に書かれている意味を元に、真宗の本願力回向の教えに基づいての解釈であります。読まれればお分かりかと思いますが、浄土真宗の重要な教義を見事に表現されています。

ところが、真宗に無知な高森顕徹会長は、漢和辞典の意味もわきまえず、また本願力回向の教えも知らずに、どこからパクってきたのか知りませんが自身の著書にてこのようなことを堂々と書いています。

 先ず、聴というきき方は、ただ耳からきいて頭で合点しているようなきき方を言います。2+2は4、4+4は8、というように、きいて納得している状態をいいます。
 庄松同行が「合点ゆかずば合点ゆくまでききなされ、きけば合点のゆく教え、合点したのは信ではないぞ、それは知ったの覚えたの」と言っていますが、このようなきき方を聴といいます。

(中略)

 では、聞というのはどんなきき方かと申しますと、心のドン底へ阿弥陀仏のジカの呼び声が響き亘るきき方をいいます。
(『こんなことが知りたい②』p.154~p.155)

これと同様のことが『親鸞会公式ホームページ』聞即信とは、どういうことかにも載っています。「聴」についての説明はほぼ同じですが、さすがにこの説明ではマズいと思ったのか、公式ホームページ版では「聞」についての説明が『こんなことが知りたい②』とは異なっています。

 この驚天動地の一念の体験を聞即信というのですから、この阿弥陀仏の御声をジカに聞くまで、聞きぬきましょう。(『こんなことが知りたい②』p.157)

であったのが、公式ホームページ版では「「聞」と言うは・・・」と信文類のお言葉を挙げ、

絶対動かぬ逆謗の屍そのままが、不可称不可説不可思議の願力に動かされた一刹那、娑婆往来八千遍、種々の善巧方便は、私ひとりのためでありましたと、弥陀の本願の生起・本末に疑心が晴れ(信)、大安心大満足になったのを、聞即信といわれるのです。
 聞即信まで聞き抜きましょう。
(公式ホームページ版)

と説明しています。どちらにしろ、とにかく高森顕徹会長の話を真剣に何十回、何百回、何千回と「聴」き続け、その最果てに「聞」と、阿弥陀仏の御声が心のドン底へ、ジカに聞こえる聞き方をするかのように説かれています。何十年「聴」き続けても一向に「聞」と聞けないでいる現実と、

 聴聞ということは、なにと意得られて候やらん。ただ耳にききたるばかりは、聴聞にてはなく候。そのゆえは、千万の事を耳にきき候とも、信得候わぬはきかぬにてあるべく候。信をえ候わずは、報土往生はかなうまじく候なり(一宗意得之事)

“聴聞ということを、どう思っていられるだろうか。ただ、耳できいて理解し合点しているだけでは、それは聴聞とはいえないのである。たとえ千座万座きいても、信心を獲得しなければ聞いたことにはならない。信を獲なければ、弥陀の浄土へは往けないのである”


の言葉がそれを助長しています。なお、親鸞会が根拠としている『一宗意得之事』ですが、

各学僧の評価の 揺れが大きい談義本が、親鸞撰『南無之釈』・ 覚如撰『真宗意得鈔』・ 存覚撰『持信記』・ 蓮如撰『一宗意得之事』・ 蓮如撰『真宗教要鈔』の五つであり、今日ではいずれも各宗主や存覚の撰述ではなく後の創作であることが判明しているものである。【『宗教研究』87巻別冊(2014年)】真宗談義本における教学理解の特徴について

とのことです。後の創作なのかどうか、いずれにしましても、親鸞会の説明は根拠に基づかない「珍らしき法」です。独自の創作教義をもって浄土真宗とか、親鸞聖人の教えなどと言わないでもらいたいものです。
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説聴の方軌

聴聞という語について御開山は『平等覚経』の引文、

 宿世のとき仏を見たてまつれるもの、楽んで世尊の教を聴聞せん。(行文類p.145)

の聴聞の左訓に

 ゆるされてきく、信じてきく

と、されておられますです。聴にはゆるすという訓もありますから、このように左訓されたのでしょう。
ともあれ、高森親鸞会では求道の論理と本願力回向の論理をぐちゃぐちゃにしますから、求道の論理上で、「今晩聞いて今晩たすかる」という本願による、なんまんだぶの救済が判らんのかな。

道綽禅師は『安楽集』で説聴の方軌(教えを説くものと聞くものとの心得)ということを、

 「諸部の大乗によりて説聴の方軌を明かさば、『大集経』にのたまはく、〈説法のひとにおいては、医王の想をなせ、抜苦の想をなせ。所説の法をば甘露の想をなせ、醍醐の想をなせ。それ聴法のひとは、増長勝解の想をなせ、愈病の想をなせ。もしよくかくのごとき説者・聴者は、みな仏法を紹隆するに堪へたり。つねに仏前に生ぜん〉と

示され、御開山はこの文を信巻 P.258で引文されておられます。
要するに善知識が法を説くとは、病を癒す医者のように、聴衆の苦しみを取り除くことなのですが、高森親鸞会では、効能書きを説くばかりで本物の本願の教えが説かれていないということなのでしょうかね。

あと、言わずもがなでしょうが、高森親鸞会を否定するあまり、デジタル的に歴史を持ったご法義用語を解釈すると、御開山と違うものが出てくるかもですね。知らんけど。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

真宗のいきばしょ 高森教のいきばしょ

こんばんわ、Abcです。

親鸞会の著書を挙げられたので、それを基に
高森さんの「邪説」を論じてゆきたいと考えます。

1>・「聴」という聞き方と、「聞」という聞き方がある
2>・「聴」とはこのような聞き方である
3>・「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」がある

便宜的に数字を振らせていただきましたが、
1 19・20願(罪福信)という聞き方と
  18願(真実信)という聞き方があるとしますと、確かにこの2つの聞き方に
  なりますが、ここでいう「聴」は捨てものですので次項2は「捨てもの」です。

2 上述しましたとおり「捨てもの」であり、それ以外のものでもありません。

3 重ねる必要はありません、重ねると「自力」という壁がぶ厚くなるので、
  むしろ「重ねないで」ください。

です。

>先ず、聴というきき方は、ただ耳からきいて頭で合点しているようなきき方を言います。2+2は4、4+4は8、というように、きいて納得している状態をいいます。
> 庄松同行が「合点ゆかずば合点ゆくまでききなされ、きけば合点のゆく教え、合点したのは信ではないぞ、それは知ったの覚えたの」と言っていますが、このようなきき方を聴といいます。

(中略)

> では、聞というのはどんなきき方かと申しますと、心のドン底へ阿弥陀仏のジカの呼び声が響き亘るきき方をいいます。(『こんなことが知りたい②』p.154~p.155)

これはある意味あっているので、「どこからかパクったもの」と思われます。
「聴」と「聞」は上述してとおりです。(上述1.の解説のとこです。)

>この驚天動地の一念の体験を聞即信というのですから、この阿弥陀仏の御声をジカに聞くまで、聞きぬきましょう。(『こんなことが知りたい②』p.157)

「驚天動地」はしません。そして「体験」とありますが「救っていただいた」という、
「念仏」であり「信心」でありますので、「こころ(気持ち)の問題」であり、もし「身体の問題」(「三業での判断」の問題に通じます。)であったならば、そもそも「たとえようの無い教え」とはなりません。(「筋力がこれだけついて」となると、もはやそれは「寺院でお聞きしたこと」でもなく「ジムでの成果(プロテイン的な意味で)」にしかなりません。(自分で書いていて「極論すぎだろ...」とは、少し思っています。)


>耳できいて理解し合点しているだけでは、
これは「19・20願の聴き方」即ち、「罪福信」であり、親鸞が仰っているところの「捨てもの 翻すもの」であります。

>信心を獲得しなければ聞いたことにはならない。信を獲なければ、弥陀の浄土へは往けないのである
これは「18願の聞き方」即ち、「真実信」であり、「真実信」で無いならば「正定聚には入れない(自然の浄土をしらない)」となるのです。

末筆となりますが、「19・20願」は捨てものですので、早く弥陀にお任せしていただいて廃れてください!「罪福信」の同行は「方便化土」に往生され「五百歳宮殿に居す」身となります!
「専修」とは「専修念仏」のことであり、(蓮如は「専修正行」と申されております。)
「われらが後生の一大事、おん助けそうらへ」のこころで、弥陀におまかせして、「われひとりたすけん」(御文2帖目8通 参照)で助けていただくのです。
これを親鸞は「不回向の行」とも申されております(不回向は自力不回向のことで、蓮如で言いますところ「やうもなく」のこころです。)
また法然は「義なきを以って義とす」とおおせられており、そのあとに「義というははからうこころなり」とあるように、「自力」はすこしもなく、「善行」もまたないのです。(蓮如は「末代不善の凡夫をやすく心得るもの」とも説かれていたりもします。)

長々となってしまいましたが、つまるところ「献金」や「高森さんに無条件降伏」をしたところで、「高森さんと同じところ」(善をすすめているので19願かと...ただ「善もどきの善」ならば「必墜無間」ですが)にしか往きません。

Abc
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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