絶対の幸福だとかいう幻想的な楽は獲られませんから「自力」=「絶対の幸福が分からない心」ではありませんし、「獲信・往生に関して努力することを捨てよ」ということなら寺は正しいです

今日はテレビ座談会だったそうで、映画『なぜ生きる』のシナリオブックを通して話があったそうです。今回は色々とツッコミどころがあるので、順番に述べていきます。


まず、シナリオブックに書いてあるのか知れませんが

阿弥陀仏は太陽、釈迦は月

と言っていたようです。親鸞会では去年、論説の

『親鸞会公式ホームページ』善知識の説かれる教法

という記事にてこのことを書いていますが、何を根拠に言っているのか不明です。少し調べましたが、親鸞会系のサイトでしかヒットしませんでした。どなたか根拠をご存知の方は教えて頂きたく思います。


次に、相対の幸福に関連して最近よく出てくる話が、追悼法要の時も今回もあった

上見て暮らすな 下見て暮らせ

です。会員の多くは年間多額の出費を余儀なくされています。月々の会費、法話毎のお布施に交通費・宿泊費、降誕会や報恩講といった大きな行事のお布施、地元行事毎のお布施、各地の会館建設やら名前だけ会員の入学金やら今度のシネマ学院建設と次々やってくる募財・・・時間や労力もそうですが、金銭面でも大変で、その大変さは数ある新興宗教の中でも上位にランクインするのではないかと思われます。支出の分稼ぎがよければいいのですが、このご時世中々そんな人ばかりではなく、大概は生活費や娯楽代を削って活動費に回しているというのが実情でしょう。

この言葉を高森会長が出す意図としては、1つは会外のこと、もう1つは会内のことを言っている気がします。
会外の良い暮らしをしている人達を見たら、やはりうらやましい、自分もたまにはそういう楽しいことをしてみたい、という思いが起きますわね。でもあれはやがて必ず崩れ去るんだからうらやましがらずにそんなものを見ないで暮らせ。逆に貧困家庭やワーキングプアの人達を見たら、あの人達より自分は恵まれていると慰められますわね。沢山の活動費で生活は手一杯だが、人生の目的を知らされ光に向かう幸せ者なんだと。だからそんなに裕福ではないがそれでいいんだと。下を見れば自分がいかに恵まれているか分かるから下見て暮らせと言っているのかなと思ったりします。
一方、会内でも格差があり、講師部員の中でも格差があります。余裕で参詣できてお布施も沢山出せる会員もあれば、月3000円の会費で参詣もやっとやっとという会員もあるでしょう。講師部員でも上層部は良い暮らしをしていますが、講の低い講師はカツカツの生活かと思います。ここでも、環境の恵まれた人を見れば妬み嫉みの心が起きるしみじめになるだけだからそういう人を見ないで暮らせ。逆に環境に恵まれない人を見れば自分はまだマシだと思えるから下見て暮らせ。また、恵まれたければ布施をしなさいと更なるお布施の要求かと思ったりもします。


さてそれから、高森会長は

大悲の願船に乗ったら、絶対の幸福になる。人生がガラリと変わる。それはいつ乗れるのか? (縦と横の線を描いて、縦の線を指して)ここで、一念で願船に乗る。

と話したようですが、相変わらず現世利益をちらつかせ、一念で乗れるからそこまで求めよと一念で救われない話を展開しました。こんな話を何百回と聞いている会員さんも少なくないと思いますが、では一念で願船に乗りましたか? 実感としては自分はまだ黒板の右端だ、いやひょっとしたら黒板外かもと思ってはいないでしょうか? 聴聞して、活動して救われよう、救いに近づこうなどというのは自力そのものですから、そんな高森会長の話をまともに聞いていて助かるわけがないのです。いい加減気が付いて頂きたいものです。


それと、これが今回一番の邪義かと思われますが、高森会長は

自力とは絶対の幸福が分からない心。その他は自力と言わない。

と話していたようです。それに関連して

世間や寺は自分の努力を自力と誤解している。
「自力を捨てよ」=「努力することを捨てよ」
と寺は誤解しているから衰退しているのだ。


などと話したそうですが、聖教の解釈からの逸脱も甚だしいトンデモ邪義です。絶対の幸福だとかいう幻想的な楽は獲られませんから「自力」=「絶対の幸福が分からない心」ではありませんし、「獲信・往生に関して努力することを捨てよ」ということなら寺は正しいです。

・自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。(一念多念証文)

・まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。(末灯鈔2通)

ですから、自力とは「浄土往生に関して努力する人、こと、心」と言えます。親鸞聖人の解釈からは「絶対の幸福が分からない心」などとは出てきようがありません。全くもって「珍らしき法」であります。そして、

自力を捨てよ=獲信・往生に関して努力することを捨てよ

です。例えば、シネマ学院建立にお布施をして獲信に近づこうと努力することを捨てよです。会員の皆さんは横の道を縦の線まで進もうとそれはもう血のにじむ努力をされていると思いますが、横の道を縦の線まで進もうと努力することを捨てよです。

阿弥陀仏は五劫永劫の願行を成就され、南無阿弥陀仏と成りましまして私に届いております。私としてはこの本願の仰せを只今、この場で、この私一人を助けるお喚び声と聞き受けるのみです。「シネマ学院建立にお布施をして獲信に近づこう」とか、「横の道を縦の線まで進もう」というのは、弥陀の五劫永劫の願行では足りないと言っているようなものです。自力そのものです。もうすでに成就されている救いにケチをつけて受け容れない、そして何か足りないものがあると思いプラスしようと努力する、これを自力というのです。

こうして会員の皆さんは自力の何たるかを知らず、逆に自力を増長させるようなことばかりしていることに気づいていないのですから、他力などもう分かりませんわね。ちなみに他力とは、

他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。 (末灯鈔2通)

とあるように我々の計らいを離れ、「念仏する者を極楽へ迎える」という本願を疑いなく信じたことを言います。「絶対の幸福が分からない心が無くなったこと」などでは決してありません。阿弥陀仏は私達を絶対の幸福にするなどと誓われてはいませんから、他力信心を獲ても「絶対の幸福が分からない心」など無くなるわけがないのです。

後生、往生という一大事に対して、私達のやることなすこと、思い計らいは無意味です。それを意味があると思って様々に努力することを自力というのです。阿弥陀様はとうの昔に「お前は決して迷いから離れられない者だから我にまかせよ」と往生の手はずを整えて下されている。そのような本願があり、その願成就して私にはたらいていることがわかったら、私のやることなすこと、思い計らいは無意味だな、こんな邪魔なものは要らないなと自力が廃るのです。そして後生をすっかり弥陀におまかせする、丸投げする。これが他力に帰するということです。

これが分かったら、親鸞会の活動など自力そのものだと分かるでしょう。いや、やっていることが如実の善行なら自力と言えますが、会の組織拡大に都合の良い善もどきの善ですから実際は自力にもなっていないのです。会員の皆さんが信心を獲られないのは、このように間違った教え、間違った行を正しいと思い込んでいることにあります。それで正しい信心を獲て浄土に往生できるなら弥陀のご苦労は何だったのかということになります。どうか間違った教行から離れて正しい教えを聞き、もっぱら正しい行に仕え、ただ正しい信を崇めて報土往生という正しい証を得て頂きたいと思います。
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弥陀の一乗 帰命せよ

Abcです。

ブログ、拝見させてもらいました。全くその通りで、
弥陀は48願を立てられ、衆生をすくわんとしたのですが、
時が経ち、五濁ますます盛んとなる今生では、
源空聖人が申されている「選択本願」でしか衆生は救われないのです。

選択本願は主著である「選択本願念仏集」(選択集)で呼ばれるとおり
「選択本願   往生之業   念仏為本
 弥陀18願   往生のわざ 念仏を本(先)とす」
で、「念仏」が本なのです。

一方、善信上人は源聖人の言葉を聞きて、弥陀に救われました。
ただ、救われたといいましてもかのアニメのように
「ハッ!」とは救われていません。ただ「弥陀におまかせする同行」と
なられただけなのです。

ここ以外のあらゆるところにこの文面を私が掲げたとは思いますが、
  善信上人は、主著の中に
  「正信念仏偈(正信偈)」「念仏正信偈(文類偈)」があります。
  この2つの偈は、
  「念仏と正信(金剛信(心)、真実信(心)、菩提信(心)とも)は
  同じであり切り離すことはできない」という意味合いが含まれております。

と言うことです。また高森さんが断章論説されるときに使われる
「よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに」の次の文
「ただ念仏のみぞまことにておわします。」にも現れております。

  日蓮宗では、浄土宗の「念仏ひとつ」「弥陀におまかせ」といい
 律宗や天台宗で言われてきた「律」というものを守らなくなってきたので
 反感を買うようになってきました。また天台宗は当時、
 「六波羅探題(六波羅とも)」という現代で申し上げる警察の立ち位置も
 担っておりましたので抑える必要があったわけです。

 時代が下って本願寺蓮如のときにも、当初は「天台宗 青蓮院末寺 本願寺」
 と称しており、如何に天台宗の力が京で誇っていたかが
 うかがい知ることができます。

話を戻しますと、「弥陀のすくいは念仏一つ」とのことなのです。
自分の力で地獄の釜から這い上がることができるつわものならまだしも、
這い上がれない「われら如き凡夫」は弥陀におまかせするしか
ないのです。

Abc

No title

高森親鸞会では、もう廃立の話しはしていないのでしょうね。

雑草さんへ

いぇ、廃立のはなしはされてますよ

ただ、いつもの「善のすすめ」にすりかわりますけど

Abc

本願寺派僧侶でなくてよかったですね!

高森氏はほんとに「上見て暮らすな下見て暮らせ」とのたまったのですか?
だとすれば、たといどういう文脈の中で使ったのであれ、彼は本願寺派(大谷派をも含む)の寺院住職などやっておられぬはず。たちまちにして糾弾の嵐にさらされることでしょう。

この言葉、「彼ら」は蛇蝎のごとく嫌っておりますから、ちょっとやそっとの
弁明では糾弾の手を緩めることはないでしょう。高森氏は自らの意思で教団を離脱したとのことですが、実際は追放だったのだとか。彼を追放した本願寺派教団幹部はやはり見る目があったと申せましょう。やがては彼がこうなることを見越していたのではないでしょうか。

No title

目的っ さん

高森会長は、本願寺派から僧籍を剥奪された、いわゆる追放です。
その恨みを晴らすために、本願寺憎しの本願寺攻撃に邁進するようになったという経緯です。

コメント返信

Abc様
雑草様

一応、今でも高森会長は本願寺への非難として、「本願寺は念仏さえ称えれば死んだら極楽死んだら仏と説いている」とか、今回の『「自力を捨てよ」=「努力することを捨てよ」と寺は誤解している』とか、的外れなことを言っています。この意味からすれば、従来の廃立の話は今もしているといえます。

しかし本当の意味の廃立は昔も今もしていません。それが、

「念仏以外の諸善を捨てて念仏一行を一心に称えよ」

です。組織拡大のためには「善のすすめ」は絶対に外せないので、これは絶対に言いません。廃立肝要とか言っていても言葉だけで、内外廃立、聖浄廃立までは説明できても肝心の真仮廃立ができません。そして別方向へ誘導され、今回のように自力の何たるかを正しく教えられませんので廃るわけもなく、当然他力に帰するということもないわけです。


目的っ!様
OHE様

OHEさんのおっしゃる通りで、高森会長は自ら出て行ったのではなく僧籍剥奪という形で追放されました。その時、本願寺を燃やそうと計画して止められたとかどうだとかという逸話も残っております。
高森会長の真意は分かりかねますが、昔は聞いたことが無かった「上見て暮らすな 下見て暮らせ」という言葉を出して話をしていたのは事実です。実際追放法要では黒板に明記したそうですから。
ただ、高森会長一族や一部幹部は裕福な暮らしをしているのに一般の会員や講師部員、親友部員などは度重なる募財で大変です。不満をもらす会員も少なくないらしいです。そこであの言葉を出して、「君たちは光に向かう幸せな人達なんだよ。上(高森一族や一部幹部)見て暮らすな。もっと大変な人達がいるんだよ。下(貧困層)見て暮らせ」と説いているように聞こえるのです。

『顕正』の執筆、5日間で 本願寺の最高学者を論破(笑

高森顕徹氏が教団に恨みを持つに至ったのは、教団から別院や寺での布教を妨げられたからじゃなかったかな?

高森顕徹氏は、お聖教を開いたことも無く、『無量寿経』を読んだことも無かったから、これを契機として勉強すれば良かったのに。
ただ、彼の反抗的な性格からか盲信だけで突っ走ってしまったのでした。

勉強してないから反論としての『顕正』に、

 大無量寿経の中に、「衆生苦悩我苦悩」というお言葉があります。

などと、当時の説教談義本を鵜呑みにして書いちゃうんですね。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://reimei.jpn.org/file09d.html

高森氏の暴言を諌める者とてないのですね?

淳心房さま:

  早速の懇切なお返事ありがとうございます。繰り返しますが、この言葉は
今の伝統仏教界では第一級の問題発言であり、東西両本願寺もしくは
曹洞宗の現役の住職が法話などでうっかり言おうものなら、最悪の場合
辞任に追い込まれましょう。高森氏は自らを追放してくれた本願寺に感謝せねば
ならないと思います。と同時に、外の世界ではとんでもない問題発言となっている
言葉を高森氏が口にしたり黒板に書いたりしても誰ひとり諌める者とてない
現在の親鸞会は、善知識だのみを地で行く団体だと申し上げざるを得ません。

コメント返信

林遊@なんまんだぶ様

伊藤康善師と大沼法竜師の著作をパクったんですから、そら5日で書けますわな(笑) 味わいを教義と誤解したり、経典にない言葉を「『○○経』にこのように説かれている」と言ったり、全てはよく確かめもせずにパクったからなのでした。それで、パクったならパクったまま説いていればまだ良かったんですが、目的が真宗繫昌以外にありましたからどんどんおかしなデタラメ創作教義へと変わっていってしまったのでしょうね。


目的っ!様

そんな問題なワードとは知りませんでした。
高森会長がどんな意図であの言葉を使ったかは不明ですが、あの団体では唯一無二の善知識様に意見するのは謗法罪と言われてしまうので何も言えません。上が曲がれば下も曲がる、仰る通り善知識だのみです。

こんな暴言を糾弾しないとは

淳心房さま:

   「コシヒカリとササニシキの両家の良き血統を掛け合わせ、
うまさの家柄です」

こういう広告を平成3年、秋田県の農協がテレビでやったら、例の団体の皆様が
激高しつつ、のぼり旗を翻しつつ秋田まで抗議に押しかけ、これに対し、農協さんのほうは何が問題なのかわからず目をパチクリ。どうやら「血統」とか「家柄」が彼らの逆鱗に触れたものと知られ、不承不承ながらもその広告を打ち切ったと聞いております。

  繰り返しますが、両本願寺、曹洞宗、浄土宗の寺院住職がこの言葉を不用意に不特定多数の人々(お盆の法話をも含む)で口にすると、運が悪ければ、激しい糾弾にさらされます。

  例の団体も、この際、退去して親鸞会に抗議に出向いたらどうでしょうか?そうすれば理由はどうあれカルト退治に功績があったということになり、近頃同和利権の問題で批判も受けている現状をたちどころに打開できることでしょう。
繰り返しますが、親鸞会の外の広い世界では第一級の禁句です。その禁句を四捨五入90歳の老人とはいえ、言いたい放題、書きたい放題させているというのでは、親鸞会は善知識だのみのカルトと言われても致し方ありますまい。

>目的っ!様

例のワードについて少し調べてみました。言葉の意味からしたら何の問題もありませんが、使われてきた背景に、身分制度や部落差別等の随分深刻な内容があるということが見えてきました。確かにさるべき団体の方々からしたらこのワードが出ただけで非常に嫌悪感を抱きかねません。

現在、親鸞会ではほとんどの行事は入場制限が設けられており、行事日も口頭のみで伝えられます。なので法話内容はおろかその行事日さえも会員以外に出回ることはほぼありません。言った言わないの水掛け論になる可能性大なので、あの内容で抗議することは難しいかもしれませんが、これを機に、もはや御同朋御同行の精神を忘れ、会員に信心を獲させる気はなく、自分の私利私欲を満たすために会員を利用しているということが皆さんに伝わってくれたらよいかと思います。

Abcです

こんばんわ、Abcです。

>言った言わないの水掛け論になる可能性大なので、

この「水掛け論」はいつものことです。
深く追求するだけ徒労に終わるので、その時間を
「御聖教」を読む時間にあてたほうがよいかと存じます。

>現在、親鸞会ではほとんどの行事は入場制限が設けられており、行事日も口頭のみで伝えられます。なので法話内容はおろかその行事日さえも会員以外に出回ることはほぼありません。 (乃至) これを機に、もはや御同朋御同行の精神を忘れ、会員に信心を獲させる気はなく、

「入場制限」ですか・・・弥陀のすくいは「普くは衆生をすくわん」つまり「漏れなく救うぞ!!」といわれており「制限」はありません。ですが、この会は「制限」を設けています。このことからも「わたしの教えは正しくはない」と読み取られます。

「御同房の精神をわすれる」というのは、先ほどからいわれている「下みて~」の一文にまとめられています。

  この御なかのひとびとも、少々はあしきさまなることもきこえ候うめり。
  師をそしり、善知識をかろしめ、同行をもあなずりなんどしあわせ給う
  由きこえ候う。浅間しく候う。既に、謗法のひとなり、五逆のひとなり。
  なれむつぶべからず。
      (二十一)【放逸無慚なるまじき事】 末燈鈔 より 抜粋

なので、私は善信上人が申されているままに「なれむつぶ可からず」を行い、
会は、「制限」を設け、檻を厳重にしているのです。

Abc

Re: Abc様

親鸞会の理屈としては、

一 諸法・諸宗ともにこれを誹謗すべからず。
一 諸神・諸仏・菩薩をかろしむべからず。
一 信心をとらしめて報土往生をとぐべき事。

 右この三箇条の旨をまもりて、ふかく心底にたくはへて、これをもつて本とせざらん人人においては、この当山へ出入を停止ちょうじすべきものなり。(御文章2帖目3通)

等の文を挙げて、防犯上、また得手に法を聞いて誤解・誹謗する人や、土蔵秘事やそれに類する者達の侵入を防ぐなどが目的と称して、行事日は講師部員などが入口で会員バッジや名札の確認をしています。これは建前で、親鸞会のおかしな教義が流出すること、おかしな教義が批判に晒されてそれを見た会員が教義の誤りに気付いて退会することを防ぐというのが本音でしょう。

>「入場制限」ですか・・・弥陀のすくいは「普くは衆生をすくわん」つまり「漏れなく救うぞ!!」といわれており「制限」はありません。ですが、この会は「制限」を設けています。このことからも「わたしの教えは正しくはない」と読み取られます。

間違いないですね。

この歌です,高森さんの歌よりも創意あれど

上見れば欲しい欲しいの星ばかり
   下見て暮らせ星の気(け)もなし

このようないわゆる道歌をしたため、ポスターとしてお寺の山門に
掲げたら、激しい糾弾に出会ったのです。そうそう、

    「身なりを整え仏様をおがもうよ」

という絵入りポスターも激しい糾弾に遭いました。「身なりを整える金もない人だっているぞ!」というんで。

  以上いずれも曹洞宗寺院でのことでした。これに懲りて、曹洞宗宗務庁では毎年図版も美しい啓発パンフレットを出すようになったのです。その際、この「上見て暮らすな…」はイラストその他で必ず取り上げられております。
  それから、浄土宗の宗務総長さんが、宗門で出す冊子形式のカレンダーの巻頭言にて

   「あしたに礼拝ゆうべに感謝 静かにお念仏申す浄土宗の家庭には
縁談が降るほど参ります」

と書いたら激しい糾弾に遭い、そのカレンダーは本山内の焼却炉で焼かれたと聞きます。

  外の世界はかれこれ16,7年来こんなありさまなのに、カルトの善知識さまは
世を去るその日まで、いかなる誹謗からも守られる。したい放題の息子さんの行状ともども、

   阿弥陀様、いったい何をごらんになっていらっしゃるのですか?

という思いが凡夫の哀しさ、催されないと申せばウソになってしまいます。と同時にすぐ、あんな善知識さまや御子息でも大悲光中の存在などだ、と反省致します。淳心房さまやしゃあさまのお叱りは覚悟のうえです。

  終わりに、だいぶ以前のことながら、牛一体を丸々解体して、親鸞会の行事に提供してくださった方が、高森家の御親族(姻族のほう)にいらっしゃるとのこと。それで高森氏は

         「万一糾弾されても大丈夫じゃわい。援軍があるわい」

という甘えがあることも、敢えて申し上げとうございます。以上、この件に関しては、これにて打ち止めとさせて頂きます。

Re: 目的っ!様

散乱放逸、放逸無慚な高森顕徹会長やその息子の行為を、阿弥陀様はさぞ悲しんでおられることでしょう。彼らの悪業についての批判は他人に任せるとして、当ブログでは今後も教義の誤りを暴いていきたいと思います。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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