親鸞会会員の誤解―「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」がある(2)

会員の皆さんは、何年何十年と「聴」き続けても一向に「聞」と聞くことができない現実と、

弥陀仏の本願念仏は、邪見・驕慢の悪衆生、信楽受持することはなはだもつて難し。難のなかの難これに過ぎたるはなし。(正信偈)

しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。(信文類)

善知識にあふことも
 をしふることもまたかたし
 よくきくこともかたければ
 信ずることもなほかたし

一代諸教の信よりも
 弘願の信楽なほかたし
 難中之難とときたまひ
 無過此難とのべたまふ
(浄土和讃)

等のお言葉、また高森顕徹会長の、雑行は30年40年聞いて分かるものではないとか、お釈迦様は全ての人をあの軌道(縦と横の線でいう横の道)に乗せるのに45年かかった等の話から、

信心獲得することは大変難しい
その前段階の、よく聞く、正しく聞くということも難しい
真剣に、一座でも多く「聴」を重ねていかねば「聞」と聞くことはできない

としか考えられなくなっていることと思われます。そうした高森教の色眼鏡をかけた状態で、

一 「至りてかたきは石なり、至りてやはらかなるは水なり、水よく石を穿つ、心源もし徹しなば菩提の覚道なにごとか成ぜざらん」といへる古き詞あり。いかに不信なりとも、聴聞を心に入れまうさば、御慈悲にて候ふあひだ、信をうべきなり。ただ仏法は聴聞にきはまることなりと[云々]。 (『御一代記聞書』193)

【現代語訳】
「<きわめて堅いものは石である。きわめてやわらかいものは水である。そのやわらかい水が堅い石に穴をあけるのである。心の奥底まで徹すれば、どうして仏のさとりを成就しないことがあろうか>という古い言葉がある。信心を得ていないものであっても、真剣にみ教えを聴聞すれば、仏のお慈悲によって、信心を得ることができるのである。ただ仏法は聴聞するということにつきるのである」と、蓮如上人は仰せになりました。

のお言葉を聞けば、何年何十年と聞かなければ助からないとしか思えないでしょう。石に水で穴を開けるのは一滴二滴では到底不可能です。何十年と同じところに水が落ち続けてようやく穴が開きます。その理屈で考えたら、私のぬるい聞法心、求道心の水で後生の一大事という大石に穴を開けるなどということは絶対不可能です。一般人が100m10秒切るより不可能です。その絶対不可能なことに挑戦しているんですから、一生聞き続けて解決できるかどうかという考えに至るのは至極当然なことです。


ここで会員の皆さんは、親鸞聖人が「真実の信楽まことに獲ること難し」と仰るその理由を知らねばなりません。信文類には、このお言葉に続いてこう教えられています。

なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。

【現代語訳】
なぜなら、信心を得るのは、如来が衆生のために加えられるすぐれた力によるものであり、如来の広大ですぐれた智慧の力によるものだからである。

全て阿弥陀仏のお力によって得られる、本願力回向の信心であるから難しいというのです。一見「ん?」と思うかも知れませんが、これは一般的には勿論、仏教界(聖道門)からしても常識外れなことなので、これを聞いて素直に信じられる人は少なく、多くの人は逆に疑って信じないのです。

因果の道理は仏教の根幹というのは親鸞会では耳タコと思いますが、これについては確かにそうで、釈尊も十二因縁を順観し逆観することによってさとりを得られたそうです。その十二因縁の内、苦悩の根本である無明、煩悩を滅すれば、一切の苦悩は滅し無為涅槃のさとりの境地に出られるというのです。そのために菩薩が行う修行を六波羅蜜とか、六度万行というのですが、当然さとりの境地に至るには、「私が」行を修めなければなりません。「他人が」行を修めたその功徳によって私がさとりを開くというのは因果に反しますわね。他人が働いて得たお金がまんま私のものになるようなもので、因果を深く信じていればいるほどそんな理屈は受け入れられないでしょう。

「私が」行を修めなければならないというのは、仏教以外の他宗教でもそうでしょう。どのような宗教でも、教えがあって、その教えに従って実践する行があって、そして行に応じた利益が得られるとかどうとか言います。宗教に限らず私達の生きている世界はみんなそうです。受験合格も、お金や財産を築くことも、地位や名声を得ることも、恋愛成就だって健康だって一家和楽だってそうです。自分の理想を実現する、果報を得るためには、その因果を学び、心得て、その因行を積むべく努力する。勿論、望む結果を得たくても何をやったらいいのか分からないとか、いくら努力しても果報を得られない、他人と同じようなことをやっても自分は上手くいかないなどといったことは当然あります。ただいずれにしても、何かの教えに従って行を実践するのは果報を得ようとしている「私」であって他人ではありませんね。

ところが真宗の場合、浄土に往生し、同時に成仏するという果報を得るのに、全く私の力を要せず、ということは行を要せず、ただ弥陀の名号願力によってそのようになさしめられるというのです。全く南無阿弥陀仏の独用(ひとりばたらき)で、行を回向され、信を回向され、如来の行信によって証果を得るのです。これが、私の行に阿弥陀仏のお力をプラスしてさとるというのならまだ話は分かるのですが、他なる阿弥陀仏のお力のみで私が往生成仏の果報を得るのですから、これは親鸞会で言うところの「他因自果」です。これでは一般的な考えを持つ人、自業自得の因果論を信じる人は簡単に信じられなくて当然でしょう。特に聖道門の学僧は、深く因果を信じ、廃悪修善を行じてさとりを得ようとされている方々です。自業自得の修道の因果論に立脚し、自業自得の因果論の延長線上に浄土教の救済を見るのが彼らの立場ですから、ただ本願を信じ念仏するだけで浄土に往生するなどというのは悪人を導く方便の教えであると捉えていたのでした。

しかし、このような因果を超越した、ただ如来の本願力によって往生成仏せしめられるこの第十八願の法門こそが、一切衆生の救われるただ一つの乗り物なのだと明らかにしていかれたのが親鸞聖人であります。そして、本願の名号であるなんまんだぶによって私が往生成仏せしめられると疑いなく聞き受けたのを「」といい、それがそのまま「信心」であると明らかにされたのでした。私は何の力も要らず、智慧も才覚も要らず、ただ名号願力におまかせするのみで、それが「信心」ですから、信心を獲ることは難しいどころか、逆にこんなに簡単なこと、易いことはないのです。

この一念の安心一つにて浄土に往生することの、あら、やうもいらぬとりやすの安心や。されば安心といふ二字をば、「やすきこころ」とよめるはこのこころなり。さらになにの造作もなく一心一向に如来をたのみまゐらする信心ひとつにて、極楽に往生すべし。あら、こころえやすの安心や。また、あら、往きやすの浄土や。(御文章2帖目7通)

何の造作も要らず、本願の仰せ、なんまんだぶを疑いなく聞き受けるのみです。それで、私達のような末代不善の凡夫が極楽に往生することが定まったのです。こうした本願力にすっかりゆだねてしまえばよいものを、

「そんなのは観念の遊戯であって、後生の一大事はそんな簡単に済む話ではない」
「自己の上に『救われたぞー』『助けられたぞー』というハッキリした自覚がなければならない」
「大安心大満足の身にならねば助かったとは言えない」
「一つの善もできないと地獄一定の自己が知らされなければ阿弥陀仏の絶対の救済にあずかれない」
「それまでは高森先生から教えを真剣に聞いて、聞いたこと(廃悪修善)を実行しなければならない」
「真剣必死な『聴』を重ね、『聴』の先に阿弥陀仏の呼び声がジカに聞こえる『聞』がある」


このように自らの上での自覚を重視し、救済にあずかるまでの道程があると思ってそこまで求めよう、求まるんだと、如来の諸智を疑惑して信ぜず、それでいて自業自得の因果論に基づいて本願の救いを捉え、自らの求道によって救いをつかもう、救いにあずかろう、救いに近づこうとしているのですから、これほど難しいことはないとなってしまうのです。

信心を獲ることは大変難しい、だからそれまでは地に足をつけた求道で真剣に「聴」を重ね、求道に精も根も尽き果てた絶壁に行き詰まり、地獄一定の自己を如来の御前に投げ出す体験をしなければ「聞」と聞くことはできない。

こんなのがおおよその会員の理解だと思いますが、まさに自力そのものです。そんな誤解や先入観、高森流因果の道理をもって本願の救いを捉えているのですから、「難のなかの難これに過ぎたるはなし」となるのは当然です。しかし、今はそのような状態でも、もっている誤解や先入観を捨てて素直に本願を聞いたなら、もはや「真実の信楽まことに獲ること難し」ではなくなります。信心を獲るといっても、何かものを貰うとか、確固たる信念のようなものが心に定まるのではなく、「助けるぞよ」の仰せ、なんまんだぶをそのまま聞き受け後生をおまかせするのを「信心を獲る」と言い表しています。ですから、信心を獲ようとか貰おうとか考えるのではなく、ただ本願の仰せを仰せの通りに聞いて下さい。それがそのまま「信心」です。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏


【参照】
『用管窺天記』自業自得の救済論
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仏因仏果

高森親鸞会の会員の方は「因果の道理」という名言に縛られて、本願力回向という「仏因仏果」のご法義が見えなくなっているのでしょうね。

覚如上人は『改邪鈔』で、この自業自得の「因果の道理」に迷う輩を、

 いま報土得生の機にあたへまします仏智の一念は、すなはち仏因なり。かの仏因にひかれてうるところの定聚の位、滅度に至るといふは、すなはち仏果なり。この仏因仏果においては、他力より成ずれば、さらに凡夫のちからにてみだすべきにあらず、また撥無すべきにあらず。p.937
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%94%B9%E9%82%AA%E9%88%94#no17

と、誡めておられるのですが、高森親鸞会の会員さんはお聖教を読まないから高森顕徹氏に騙されてしまうのかもです。
同じ浄土真宗の名言(テクニカルターム)を使っていても、高森親鸞会では意味がめちゃくちゃですから、たとえ百年「聴」いても阿弥陀仏の本願の世界は「聞」こえないのでしょう。
なお、淳心房さんの「聴聞」の記事に触発されてwikiarcでの「聴聞」の項へ追記しておきました。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%81%B4%E8%81%9E


また、リンクして下さったブログで参照している「真仮論の救済論的意義」(自業自得の救済論vs大悲の必然としての救済論)は中途半端でしたので、全文を、下にリンクしておきます。
http://www.hongwan.net/index.php/%E7%9C%9F%E4%BB%AE%E8%AB%96%E3%81%AE%E6%95%91%E6%B8%88%E8%AB%96%E7%9A%84%E6%84%8F%E7%BE%A9

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

いつもありがとうございます。

まさに仰る内容そのもので、会員は自分からお聖教を読まない(読んでも意味が分からない)ので、誤りに気付きにくいです。また、読んでも聞き誤るから意味を知りたければ聞きなさいと言われ、そこで親鸞会ドグマを叩き込まれるため、ますます親鸞会一色に染まってゆきます。「聴」く内容が浄土真宗ではないので、いくら「聴」いても仏願の生起本末を聞いて疑心有ること無しと「聞」くことはできません。高森教を聞き誤ってたまたま浄土真宗を聞いたなら「聞」こえる可能性はありますね。

ところで、やはり『平等覚経』の「聴聞」の左訓「ゆるされてきく、しんじてきく」は、

聴ーゆるされてきく
聞ーしんじてきく

の説が有力なのでしょうか。まぁそれはさておき、蓮如上人は『御一代記聞書』にて

(14)
一 教化するひと、まづ信心をよく決定して、そのうへにて聖教をよみかたらば、きくひとも信をとるべし。

(17)
一 十二月六日に富田殿へ御下向にて候ふあひだ、五日の夜は大勢御前へまゐり候ふに、仰せに、今夜はなにごとに人おほくきたりたるぞと。順誓申され候ふは、まことにこのあひだの御聴聞申し、ありがたさの御礼のため、また明日御下向にて御座候ふ。御目にかかりまうすべしかのあひだ、歳末の御礼のためならんと申しあげられけり。そのとき仰せに、無益の歳末の礼かな、歳末の礼には信心をとりて礼にせよと仰せ候ひき。

(48)
一 法敬坊九十まで存命候ふ。この歳まで聴聞申し候へども、これまでと存知たることなし、あきたりもなきことなりと申され候ふ。

(51)
一 法敬申され候ふ。讃嘆のときなにもおなじやうにきかで、聴聞はかどをきけと申され候ふ。詮あるところをきけとなり。

(54)
一 御一流の御こと、このとしまで聴聞申し候うて、御ことばをうけたまは り候へども、ただ心が御ことばのごとくならずと、法敬申され候ふ。

(82)
一 聴聞を申すも大略わがためとはおもはず、ややもすれば法文の一つをもききおぼえて、人にうりごころあるとの仰せごとにて候ふ。

(105)
一 時節到来といふこと、用心をもしてそのうへに事の出でき候ふを、時節到来とはいふべし。無用心にて出でき候ふを時節到来とはいはぬことなり。聴聞を心がけてのうへの宿善・無宿善ともいふことなり。ただ信心はきくにきはまることなるよし仰せのよし候ふ。

(122)
一 前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。聴聞心に入れまうさんと思ふ人はあり、信をとらんずると思ふ人なし。されば極楽はたのしむと聞きて、まゐらんと願ひのぞむ人は仏に成らず、弥陀をたのむ人は仏に成ると仰せられ候ふ。

(129)
一 とほきはちかき道理、ちかきはとほき道理あり。灯台もとくらしとて、仏法を不断聴聞申す身は、御用を厚くかうぶりて、いつものことと思ひ、法義におろそかなり。とほく候ふ人は、仏法をききたく大切にもとむるこころありけり。仏法は大切にもとむるよりきくものなり。

(130)
一 ひとつことを聞きて、いつもめづらしく初めたるやうに、信のうへにはあるべきなり。ただ珍しきことをききたく思ふなり。ひとつことをいくたび聴聞申すとも、めづらしく初めたるやうにあるべきなり。

(131)
一 道宗は、ただ一つ御詞をいつも聴聞申すが、初めたるやうにありがたきよし申され候ふ。

(137)
一 一句一言を聴聞するとも、ただ得手に法を聞くなり。ただよくきき、心中のとほりを同行にあひ談合すべきことなりと[云々]。

(155)
一 仏法には世間のひまを闕きてきくべし。世間の隙をあけて法をきくべきやうに思ふこと、あさましきことなり。仏法には明日といふことはあるまじきよしの仰せに候ふ。「たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり」と、『和讃』(浄土和讃・三一)にあそばされ候ふ。

(185)
一 仰せにいはく、仏法をばさしよせていへいへと仰せられ候ふ。法敬に対し仰せられ候ふ。信心・安心といへば、愚痴のものは文字もしらぬなり。信心・安心などいへば、別のやうにも思ふなり。ただ凡夫の仏に成ることををしふべし。後生たすけたまへと弥陀をたのめといふべし。なにたる愚痴の衆生なりとも、聞きて信をとるべし。当流には、これよりほかの法門はなきなりと仰せられ候ふ。『安心決定鈔』(本)にいはく、「浄土の法門は、第十八の願をよくよくこころうるのほかにはなきなり」といへり。しかれば、御文には「一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。これすなはち第十八の念仏往生の誓願の意なり」といへり。

(193)
一 「至りてかたきは石なり、至りてやはらかなるは水なり、水よく石を穿つ、心源もし徹しなば菩提の覚道なにごとか成ぜざらん」といへる古き詞あり。いかに不信なりとも、聴聞を心に入れまうさば、御慈悲にて候ふあひだ、信をうべきなり。ただ仏法は聴聞にきはまることなりと[云々]。

(208)
一 御文をよみて人に聴聞させんとも、報謝と存ずべし。一句一言も信のうへより申せば人の信用もあり、また報謝ともなるなり。

(307)
一 陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日 陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もありと仰せられしと[云々]。

等々仰せですが、蓮如上人は「聴聞」ということと「きく」「聞く」ということを特に分けずにお使いのようです。私が問題にしていたのは、「ただ仏法は聴聞にきはまることなり」の「聴聞」です。蓮如上人のお言葉上、この「聴聞」を「聴」と「聞」とに分けて云々と親鸞会で言っているような教えは無いということを申しております。林遊様はじめ読者の方々にはそこをご理解頂きたい次第です。

No title

Abcです。

 林遊さん

>高森親鸞会の会員の方は「因果の道理」という名言に縛られて、本願力回向という「仏因仏果」のご法義が見えなくなっているのでしょうね。

さようです。「因果の道理」は、叡山をはじめとする「自力聖道のもの」に対しての「殊勝な行い」のことです。ですから、「因果の道理」は、「仏教」という枠の中には確かにあるのです。ただ法然も申されているとおり、「末法のわれらにおいては弥陀より賜る信心、即ち『義なきを以って義とす』」なのです。

「義を以って義とす(そのために菩薩が行う修行を六波羅蜜とか、六度万行というのですが、当然さとりの境地に至るには、「私が」行を修めなければなりません。)」  ()内は、淳心房さんのコメント より 抜粋
と考えて居られる叡山僧をはじめ諸宗の僧たちに浄土教を説くために、
19願が存在しているのです。(高森さんが履き違えている「三願転入」は、
「聖道仏教者への道筋」であって、「すべての人間」ではないのです。)

私が、懇ろに申し上げている「壁が分厚くなって云々」というのであれば、
「弥陀が私が「因果律(罪福信)」に依ってつくってしまった壁を取り除いて、
そのうえに弥陀のおはたらきに依って、安心(やすきこころ)をお渡し下さる」
となりますでしょう。

林遊さんと淳心房さんのを合わせると
仏因仏果 = 仏因自果 となり、
また、このことを「仏智不思議」とも申されますが
『因果の道理(罪福信のいわれ)』を「これこそまこと」と
考えておいでなのでしょう。

 淳心房さん

>「ただ仏法は聴聞にきはまることなり」の「聴聞」です。蓮如上人のお言葉上、この「聴聞」を「聴」と「聞」とに分けて云々と親鸞会で言っているような教えは無いということを申しております。

私のほうも「教行証」に目を通しましたが、「「聴」と「聞」とに分けて云々」というところはございませんでした。やはり、「分けて云々」は、高森さんのはからいなのかなと感じた次第です。

今となっては「考えすぎだった」としか思えないのですが、
 聴 = 「因果の道理」をモノサシとしての聞き方
     →「他力とはまた本願力なり、本願力は、『義なきを義とす』となり」。即ち、「自余のはからい」ひとつも相交わることなしで、廃るものである。
 聞 = 「仏智不思議」というモノサシを弥陀より渡していただいて、聞く聞き方
     →「聞即信」という「念仏」(信心:真実信 菩提信 金剛信 など)を
      「われも信じ、ひとにも教え聞かしむるばかりなり」という、
      「やすきこころ」と考えていました。

ただ、「分ける云々」が「なお義ありとなり」であったならば、会員が信を獲ないようにしていたというのもわかる気がします。

詮ずるところ、「分ける云々」も方法論でありますので、これも「まさに自力そのものです。」なのですがね。

私も、布教使のはしくれですから「如来の御代官」として「迷える衆生」にご説明できたらと常々おもっています、

余談ですが、私は、
(137)
一 一句一言を聴聞するとも、ただ得手に法を聞くなり。ただよくきき、心中のとほりを同行にあひ談合すべきことなりと[云々]。

の「談合」に重きを置いています。「あいたがいに信心の沙汰あらば; これ即ち真宗繁盛の根元なり」とも申されるとおり、「談合」しなければ広まらないのも周知の事実です。

ただ、「真偽検証」とありますように、「伝えるものが偽」であったら、どうしようもありませんがね。

南無阿弥陀仏

Abc

No title

淳心房さん。

何か勘違いされておられるのかな。
聴には「ゆるす」という訓があります。

 仏もし聴(ゆる)さば、われまさに意(こころ)に随ひて教へて、すなはち舎利弗等に詔勅すべし。p.291
http://wikidharma.org/59b60e7f4109b

この聴の「ゆるす」という意味から、
 聴 ゆるされて─きく
 聞 しんじて─きく
と、「きく」という漢字の持つ意味を教えるために左訓されたのだと思ひますよ。

それと、御開山と蓮如さんでは、時代背景や世相も違いますから教化の方法も違います。
御開山は一寺も持たれませんでしたが、蓮如さんは本願寺八代目としての教位におられましたから、どのようにご法義を伝えるかに腐心されたのだと思ひます。
たとえば、蓮如さんは、

 一 聖人(親鸞)の御流はたのむ一念のところ肝要なり。ゆゑに、たのむといふことをば代々あそばしおかれ候へども、くはしくなにとたのめといふことをしらざりき。しかれば、前々住上人の御代に、御文を御作り候ひて、「雑行をすてて、後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」と、あきらかにしらせら れ候ふ。しかれば、御再興の上人にてましますものなり。 p.1290
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%93%AE%E5%A6%82%E4%B8%8A%E4%BA%BA%E5%BE%A1%E4%B8%80%E4%BB%A3%E8%A8%98%E8%81%9E%E6%9B%B8#no188

と、「雑行をすてて、後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」とありますが、御開山には「たすけたまえ」という用例はありません。これは「南無阿弥陀仏」を和語で示して下さった蓮如さんのお手柄です。
「参照」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%81%9F%E3%81%99%E3%81%91%E3%81%9F%E3%81%BE%E3%81%B8%E3%81%A8%E3%81%8A%E3%82%82%E3%81%B8%E3%81%B0

お示しの蓮如さんの『御一代記聞書』には盛んに「聴聞」という語が頻出しますが、蓮如さんは聴聞という実践を重視されたのだと思ひます。
越前の門徒は、聴聞を語句分解して阿弥陀様のご法義を「聴くと聞こえる」と表現していましたが、高森親鸞会のような間違った教えを聴いているのでは聞えないのでしょうね。

昔から越前の門徒は、高森親鸞会は極端な「蓮如教学」に依拠して、御開山の説かれた、なんまんだぶのご法義を見失っている揶揄していたものです。そのような意味では脱会者に『教行証文類』によって突っ込まれてあたふたしているのが現在の高森親鸞会なのでしょうね。
ただ、批判の議論は、ともすれば行き過ぎて主題を見失う場合もあるので要注意です。かって高森親鸞会が本願寺を非難した裏返しでは不毛な議論になるのかもです。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

追記:

聞という漢字の意味について面白いページがあったのでリンク。

http://www.icho.gr.jp/yomu/essei/yahata1






コメント返信

Abc様
林遊@なんまんだぶ様

いや、「聴聞」で一つの意味かなと思っていた次第です。

「聴聞」=「ゆるされてきく、しんじてきく」

という形で。また、蓮如上人が仰る「聴聞」は「仏法をきくこと」というほどの意味かと思っていました。

それで、本願成就文の「聞」は本願に疑いの無い聞き方で、「きく」は「きく」でも意味が違う、別格だと理解していました。

同じ「聞」という漢字でも、第二十願「聞我名号」の「聞」と、第十八願成就文「聞其名号」の「聞」とでは意味が違いますでしょう? なので、その時その時で意味が変わるのだろうと思っていました。ちなみに、『平等覚経』の「聴聞」の左訓は信文類だけにあるのでしょうか? 化身土文類引文の「聴聞」にも同様に施されているのでしょうか?

ともあれこの度のことで、「聴聞」の意味についてより深く伺うことができました。そして真宗の聴聞とは「聞其名号」の「聞」、なんまんだぶの法を疑い無く聞き受け念仏することで、それまで自力心に支配されていた時とは全く別の新しい世界が開かれることだと理解いたしました。林遊様から見たらまだまだひよっこでダメ出しを食らうか分かりませんが、今の私の領解を素直に申し上げました。


>ただ、批判の議論は、ともすれば行き過ぎて主題を見失う場合もあるので要注意です。かって高森親鸞会が本願寺を非難した裏返しでは不毛な議論になるのかもです。

はい。親鸞会教義の誤りを明らかにして、一人でも多くの会員さんが本当の浄土真宗を聞いて念仏するようになってほしいという主題を忘れず、書いていきたいと思います。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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