親鸞会会員の誤解―活動しなければ救われない(4)

これまで複数回述べて来ましたが、親鸞会では昔から、「尊い宿善になる」と称して聞法、破邪顕正、財施等様々な活動が推進されてきました。近年は「三願転入の教え」の陰に隠れがちでしたが、その「三願転入の教え」も様々に批判され、今では法話や講師部講義等において影を潜めるようになっています。そして先日の報恩講で再び「宿善」についての教義が復活しました。「一切衆生必堕無間」等の邪義と同様、高森顕徹会長は喉元過ぎれば熱さを忘れるで、一旦引っ込めてはまた復活させるということを繰り返しています。「組織拡大」「会員倍増」という目的を果たすにはどうしても「善の勧め」が不可欠なため、「宿善」や「十九願」、「定散二善」や「方便の善」、「七仏通戒偈」や「六度万行」等のワードは必ずどこかで出てきます。

第十八の願に、一切の諸行(諸善)を選捨して、ただひとへに念仏一行を選取して往生の本願となしたまふ
あきらかに知りぬ、諸行(諸善)を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向(一向専念無量寿仏)といふ。
諸行(諸善)は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。
問ひていはく、もししからば、なんがゆゑぞただちに本願の念仏の行を説かず、煩はしく本願にあらざる定散諸善を説くや。(中略)また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。
ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。(選択本願念仏集)

これだけ法然聖人が声高に「諸善を捨てて念仏を立てよ」と称名念仏一行をお勧めになり、その法然聖人を

本師源空明仏教

と仰っている親鸞聖人の上に、獲信・往生について「善の勧め」が有るわけがないことは明らかです。その有るわけがない「善の勧め」を執拗に説く理由は、会員の獲信・往生とは別にあるとみて間違いありません。


さて、『教学聖典』には宿善についての問答が複数掲載されており、高森会長の著書には宿善について書かれた文章が多くありますので、ここ2、3年の内に会員になった方も一応親鸞会の宿善論はご存知かと思います。宿善薄いままでは助からない、聞いているだけではダメだと言われるものですから、

活動しなければ救われない

となるのは道理ですが、では活動している者は救われているかと言えばそうではありません。それどころか、その道何十年と活動している講師部員や幹部会員達の無安心ぶりをかんがみるに、一生涯求め続けて救われるかどうか、自分のような者は救われないのではないかとさえ思われてきます。

そんな思いを抱えて親鸞会で求めている人は一人や二人ではないでしょう。その証拠に、過去に『こんなことが知りたい③』にて同様の不安を抱いた一会員がこんな質問をしています。

問 私は真実の仏法を求め始めて丸三年になりますが、どうしても魂の解決が出来ません。こんなに難しいこととは思ってもいませんでした。一生参学の大事だからとも思いなだめてみるのですが、私のような者は無宿善ではなかろうかとも思われます。今後どう求めてゆけば宜しいのでしょうか。(p.130)

読んだことがある会員、元会員は多いと思いますが、これに対する高森顕徹会長の答えを簡潔に言うと、

後生の一大事、仏法の重さが判らんからこんな質問が出てくるんだ!

です。いやいや、現在只今後生の一大事が解決できるゆうてたやんか(-_-;) 平生業成やろ? 一念の救いやろ? で、そう言われて求め始めたんだけど、3年経つのに一向に解決できないんでどうしてですかと質問したらこの答えです。親鸞会ではこの手の質問をした場合、世間事や聖道門と比較して「我々が解決しようとしているのは後生の一大事」などと言われ、「そんな大問題を一朝一夕で解決というわけにはいかないのだ」「もっと頑張って求めよ」と尻を叩かれるのがオチです。

 松下氏が世界の松下として成功するまでには何度も血の小便をする程の苦労があったということであるが、注目すべきことである。仏法を求めている人の中にも「私は五年間聞いたのに」「私は十年求めたのに」と未だ信心獲得できない事をぼやき、果ては「説くものが悪いのではなかろうか」、「これだけ聞いても助からんのに何か大願業力だ」と、とんでもないところに責任をなすりつけ、罪を重ねている者がいるが、言語道断の所業である。せめるべきは己れの不熱心さではないか。その五年十年の間に、どれ程真剣に聞いたか、どれ位真剣に聞いたか、どれ位懸命に宿善を求めたか、松下氏の言を借りるなら果してたった一度でもよいから血の小便をこく程きづまって夜も寝られん事があったか、仏法は未来永劫の大問題を教えているのだ、苦労が足りないぞ、楽して信心決定しようという心こそ反省せねばならんのだ、頑張ろう。(顕正新聞118号、昭和47・3・20)

こんな感じで、親鸞会では、世間事と比較して未来永劫の大問題が簡単に解決できるわけがないと一喝して黙らせるのが常套手段になっています。


確かに、生死の問題を自力で解決しようとしたらこのように一喝されるのは尤もです。この世のどんな問題よりも重い、まさに「一生参学の大事」でしょう。ただ、今はこの生死の一大事を阿弥陀仏の本願力によって救われようという浄土真宗の話をしているのです。如来より行を回向され、信を回向され、その行信によって往生成仏せしめられるという教えが浄土真宗です。我々の側にあれせいこれせい、せなんだら助けんぞと注文、条件をつける阿弥陀さまではありません。今の私のままを救うぞと、私の側に注文や条件をつけずにお助け下さる。それが南無阿弥陀仏の名号法です。ですから、その南無阿弥陀仏の名号を信受したその時に往生の業事は成弁します。今日聞いて今日救われる、今聞いて今救われるのが浄土真宗なのです。

その浄土真宗を、「無宿善だったらどうしよう」と驚き立って真剣に求めれば宿善が厚くなってやがて開発し、信心獲得の栄冠を勝ち取れるんだから頑張って求めよ。それには一に聴聞、二に破邪顕正。財施も尊い宿善になる。そんなワシの教えに素直に従わん奴は善知識をおろかに思い師を謗る誹法罪の輩だと無条件服従を強いて、全く異なる新興宗教にしてしまっているのが親鸞会であり高森顕徹会長です。

「無宿善だったらどうしよう」
と驚き立って、聞法せずにおれない人に無宿善の人はありません。
 この人は必ず、信心獲得の栄冠を克ちとることが出来るのです。
(p.135)

高森顕徹会長はこのように、信心獲得とは頑張って聞法求道し、見事求め切った人に褒美として与えられる勝利のしるしのように宣っていますがそうではありません。信心獲得は栄冠ではありません。南無阿弥陀仏の名号が私に届いたことを言うので、私の頑張りや努力とは無関係に回向せられるものです。これを『御文章』には

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。このゆゑに、南無と帰命する一念の処に発願回向のこころあるべし。これすなはち弥陀如来の凡夫に回向しましますこころなり。(5帖目5通)

と言われています。

信心獲得す
=「第十八の願をこころうる
=「南無阿弥陀仏のすがたをこころうる
=「南無と帰命する一念の処に発願回向のこころ
=「弥陀如来の凡夫に回向しましますこころ

ということで、真宗の信心は「弥陀如来の凡夫に回向しまします」信心であり、親鸞会の聞法求道に耐え切った者のみが与えられる冠ではないのです。善悪の凡夫が共に仏の方より賜る信心、一方的に仏の方より恵み与えられる信心ですので、我々の善悪、善根の有無、宿善の厚薄とは無関係に賜ることができます。ただ「賜る」とか「与えられる」と聞くと物を貰うように確固とした信念のようなものが心に出来上がるように想像しがちですが、「南無(我にまかせよ)阿弥陀仏(必ず救う)」の仰せをそのまま受け容れて疑いないのが「信心」です。それは、

・地獄一定と極楽一定の二つの心がハッキリしたこと
・驚天動地の一念の体験、亡者開眼の一刹那よりもハッキリした体験
・大安心大満足
・絶対の幸福(変わらない安心、満足、喜びの境地)
・苦しみの人生が、幸せな人生にガラリと変わる


などという訳の分からないものでも、摩訶不思議な神秘的体験でも、夢・幻のような現世の幸せでもなく、

・念仏よりほかに往生のみちは無い
・念仏一つで助かる


という「信心」です。こうした信心の内容を親鸞会では全く教えられませんので、上のような訳の分からない説明をすごいと思ったり、神秘的体験や現世利益に憧れたりするのです。そして、そんなすごい信心を獲るには「宿善を求めよ」「宿善を厚くせよ」と教えられ、会員は聴聞・破邪顕正と言われるままに組織拡大活動に邁進していったのでした。獲信・往生とそれらの活動は無関係だということを知らずに・・・。まさに高森顕徹会長の思う壺だったのです。


勿論こんな教えは浄土真宗ではありません。覚如上人は『口伝鈔』にて、

宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

と教えられています。「宿善あつきひと」すなわち宿善の厚い人は、この世で善をこのみ悪をおそれる人で、言わば善人です。対して「宿悪おもきもの」すなわち宿善の少ない、薄い人は、この世で悪をこのみ善にうとい人、言わば悪人です。そういった善人か悪人かということを問題にして、善人だから往生できるとか、悪人だから往生できないとかと決めることはできない、

機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからず

と仰せです。そして、往生はただ本願力におまかせしなさいということを、

往生の大益をば如来の他力にまかせて

と言われているのです。その通り往生の大益をば如来の他力にまかせたのを自力を捨てて他力に帰するというのであり、幻想的な楽を獲たり、摩訶不思議な体験をするということとは全く異なるのです。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
(中略)
善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。
(執持鈔)

会員の皆さんは、ありもしないスーパー信心を追い求め、新興宗教に利用・搾取される人生からはさよならし、早く真実の信心で念仏して浄土往生の本懐を遂げて頂きたいものです。


【参照】
『飛雲』宿善の概念も、聖道門とそっくりな高森会長
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本願をつのりとする方 へ

お久しぶりです、Abcです。

今回も、ありがたく読ませていただきました。
私は「宿善」という単語が出たら高森さんのように
「善をせねばたすからない」とおもわれる方が必ずいらっしゃるので
「宿善」という語はあまり好いてはいません。

第十八の願に、一切の諸行(諸善)を選捨して、ただひとへに念仏一行を選取して往生の本願となしたまふ
・あきらかに知りぬ、諸行(諸善)を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向(一向専念無量寿仏)といふ。
(七祖本 源空聖人 著 選択集 より)

この箇所に関して申しますと、
弥陀18願 = 選択本願 (正信偈 「選択本願弘悪世」など)
念仏一行を選取して (お釈迦様が浄飯王に念仏三昧を勧められるところ など)
念仏を用ゐるがゆゑ(上に同じ)
一向専念無量寿仏 (このことから「真宗」は「一向衆」とも「無碍光衆」ともいわれます)


です。このことからも分かりますが、「本願」と「念仏」は『ほぼ同意語』と見ることができます。『ほぼ同意語』と申しましたのは、「本願」は『信』にあたり、「念仏」は『信とも行ともみれ』ます。そのため『ほぼ』と冠しました。

ここで親鸞のお手紙を挙げておきます。

 信行一念章 - 親鸞聖人御消息
四月七日の御文、五月二十六日たしかにたしかにみ候ひぬ。さては、仰せられたること、信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。
 これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。あなかしこ、あなかしこ。

 専信坊、京ちかくなられて候ふこそ、たのもしうおぼえ候へ。また、御こころざしの銭三百文、たしかにたしかにかしこまりてたまはりて候ふ。
 いのち候はば、かならずかならずのぼらせたまふべし。
   五月二十八日           (花押)

とあります。このことから「三大諍論」のひとつ「信行両座の諍論」は「なかったのでは」 という見方をされる方もいらっしゃいます。
此のことに対しての私論ですが、本願寺覚如は「信行両座の諍論」の結を「信の座に坐す」とすることによって、「信心」を強調しているのかと思います。

>今はこの生死の一大事を阿弥陀仏の本願力によって救われようという浄土真宗の話をしているのです。如来より行を回向され、信を回向され、その行信によって往生成仏せしめられるという教えが浄土真宗です。

誠に、仰るとおりです。ここで今一度「真宗」という言い換えのはなしをしておきましょう。

浄土真宗 = 南無阿弥陀仏
念仏成仏
本願力回向 = 他力回向 = 自力不回向 = 弥陀仏本願念仏(正信偈)
六つの字の心 

∴(まとめ)   この「南無」といふ二字は、衆生の阿弥陀仏を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまへとおもひて、余念なきこころを帰命とはいふなり。

  --  この「南無」という二文字は、われわれの阿弥陀仏を一心一向に「つのり」として、「後生おん助けたまへ」と思い、余念がないこころを「帰命(南無)」といいます。

   つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字は、南無とたのむ衆生を、阿弥陀仏のもらさずすくひたまふこころなり。このこころをすなはち摂取不捨とは申すなり。「摂取不捨」といふは、念仏の行者を弥陀如来の光明のなかにをさめとりてすてたまはずといへるこころなり。

  ---  つぎに「阿弥陀仏」という四文字は、このように「つのり」とする方々を、阿弥陀仏がもらさず救い給うこころのことを言うのです。この心を摂取不捨といいます。「摂取不捨」というのは、念仏の行者を阿弥陀さまのおはたらき(光明)の中に摂め取ってお捨てになられないと申し上げられているこころなのです。

(中略)

   さればこの南無阿弥陀仏の体は、われらを阿弥陀仏のたすけたまへる支証のために、御名をこの南無阿弥陀仏の六字にあらはしたまへるなりときこえたり。 

  ---  そうしたならばこの南無阿弥陀仏のおすがたは、私たちを阿弥陀さまがたすける支え(つのりとする支え)のために、阿弥陀さまのおなまえをこの南無阿弥陀仏の六字として顕されたのだと聞き及んでいます。

(蓮如 御文三帖目 諸仏悲願 より引用)

末筆ですが、親鸞は「和讃」のなかで、

弥陀成仏のこのかたは
  いまに十劫をへたまえり
法身の光輪きわもなく
  世の盲冥を照らすなり

と言われています。ここで言う「弥陀成仏」「法身の光輪」は「南無阿弥陀仏」、「世の盲冥」とは「迷える衆生」すなわち私たちのことです。

それを鑑みて、この和讃を一言にしますと

阿弥陀さまは「南無阿弥陀仏」として私(たち)に対し、長い時間手を差し伸べているのです。

となります。「信心決定を本とするもの」という同じ志を持たれている方は、すぐにでも受け取っていただきたいと思います。

なもあみだ なもあみだ

Abc

追記

こんにちわ、Abcです。

先のコメントで、書き忘れたのでここで書いておきます。

弥陀18願 = 南無阿弥陀仏 = 真宗 なので、1つめの言い換えと2つめの言い換えは詮づるところ同じことなのです。

弥陀17願 = 「南無阿弥陀仏」を形づくる願 (船でいう「設計図」及び船の製作)
弥陀18願 = 「南無阿弥陀仏」によって(弥陀のおん誓いによって)人々を救う願  親鸞は、「これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。」(先のコメント ご消息 にて)といわれているように、「行」「信」どちらも含んでおります。

そのため弥陀18願は、「南無阿弥陀仏」を届ける願であり、
弥陀のおはたらきによってとどけられ、(他力とは如来の本願力なり、すなわち他力回向とは本願力回向(願作回向がんさえこう)なり)
   ここでの「作」は「弥陀より作られ」ともみれますが、「作す(な・す)」すなわち「成す」の語源ともとることができます。 
別の言い方をしますと、「自然とは自ずから然らしむ、法爾とは法によって爾らしむ」すなわち、「自然法爾(の願)」ともいわれます。
それは私たちが作すべらざることであるので、「不回向の願」とも呼ばれ
「至心」「信楽」「欲生(彼国)」の3つが備わるので、「至心信楽の願」といわれます。
  ただ、この「信楽」は高森さんがいう「ハッキリする」というものではありません。あえて高森さんの言葉を部分的(下線部のみ)に借りるならば、
信楽の身に生まれさせる」のは「弥陀より名号をいただくこと」であり、「自余の善根修むこと」や「六度万行を私たちが修める」ということはありません。もし、そうであったならば弥陀がまだ法蔵菩薩の時に五劫のあいだ思惟したり、仏になしたまえるとはなりません。また「名号」は「浄土の教」であり親鸞は以下のように示されています。

--
二住といふは、一には止住、二には不住なり。いまこの浄土の教は、法滅百歳まで住したまひて、有情を利益したまふとなり。不住は聖道諸善なり。諸善はみな竜宮へかくれいりたまひぬるなり。思・不思といふは、思議の法は聖道八万四千の諸善なり。不思といふは浄土の教は不可思議の教法なり。

末灯抄 より
--

すなわち、「自余の善根」は「阿弥陀仏」という仏自体を貶していることにほかなりません。そのため、高森さん自身が「善のすすめ」を推すのなら、高森さんが言われている「法謗の徒」であり「五逆罪」なのです。そろそろ「白か黒か決めて欲しい」のですが、淳心房さんもいわれています「会員の獲信・往生とは別にある」ので「真宗」は正直どうでもいいのでしょう。

急ぎ書きですが、よろしくおねがいします。

なもあみだ なもあみだ

Abc

Re: Abc様

ありがとうございます。

善の勧めとか言う割に万善万行の総体である念仏よりも、難行であり劣行であると本願において選び捨てられた余の善を勧めていること。また、善の勧めにしてはやっていることがとても善とは言い難い、親鸞会の組織拡大に都合の良いことばかりであることを、会員の皆さんには早く気が付いて頂きたいものです。

それでももし敢えて「善」にこだわるなら、念仏一行を称えて頂きたいと思います。なんまんだぶ、なんまんだぶ。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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